リリの戦い
食器が床に散らばる派手な音が、若い貴族たちの酔いを醒ました。
この時代、大衆向けの酒場の食器はほとんどが木や銅でできているから、地面に落としても割れることはない。しかし高い衝突音とそれに続く若い娘の悲鳴は、彼らの注意を引くに十分であった。
貴公子たちが振り向くと、そこには冒険者崩れのような細マッチョで目つきの悪い男が、給仕の娘を捕まえているところであった。男の左手が細い腰をがっしりと絡めとり、自由な右手はすでに服の下に差し込まれている。
「お客様! やめて下さいっ!」
「ふん、酒場の女給なんてもんはカネさえ払えば何でもしてくれるんだろ。うん? お前は一発、百ディナールくらいか? 俺なら倍は払ってやれる、二階の部屋に行こうぜ」
「私はそういう女ではありませんっ!」
酒臭い息を吹きかけながら迫ってくる男の唇を、必死に身をよじって避ける娘。だが男の力に抗えるはずもなく、首筋をなめられた娘がまた悲鳴を上げる。その声に興奮したのか、男は娘の胸元にその手を粗暴に突っ込む。
「お客さん、ここはそういう店ではなく……」
「うるせえ! じゃ、どういう店だってんだ。ごちゃごちゃ抜かすと店ごと潰すぞ!」
雇われ店主らしき中年の男が遠慮がちになだめるが、くだんの男はますます居丈高になり、好き勝手に娘の肌をまさぐってゆく。あたりの酔客も巻き添えを恐れ、みな下を向いている。無理もない、男が激高して背負っている大剣を振り回せば、酒場は一瞬にして修羅場に変わるであろうから。
しかし意気地なしの客たちの中に、一人だけ勇者がいた。すぐ隣のテーブルから一人の若い将校が立ち上がり、青い瞳を真っすぐに暴漢に向けたのだ。
「おい、そのお嬢さんを離すんだ。今ならまだ、なかったことにできる」
「何だとお……若造のくせに態度がでけえんだよ!」
「これが最後の忠告だ。大人しく出ていけ」
若者の視線が鋭く暴漢を射抜く。そこには青年貴族らしい真っすぐな正義感と、厳しい訓練で己を鍛え抜いた自信があふれており、酔客も思わずたじろぐ。そして若者がゆっくりと、腰に佩いた剣の柄に、手をかける。酒精の働きで真っ赤だった暴漢の顔から徐々に血の気が引き、青白く変わっていく。
「ちょ、ちょっと待て。いや、冗談だったんだ、うん。す……すまん、出ていくから」
「謝る相手が違うだろう、お嬢さんに謝れ」
「あ、いや、うん……済まなかったな、ちょっと、酔っ払っちまってよ……」
すっかり酔いが醒めたらしい男は、テーブルに銀貨を一つかみ乱暴に置くと、逃げるようにそそくさと酒場を出ていった。
「お嬢さん、大丈夫か」
「え、ええ……大丈夫です。将校様、あ、ありがとうございました……」
はだけかけた胸元を掻き合わせつつ、娘の潤んだ瞳が上目遣いで青年将校に向けられる。ダーラーと呼ばれていた青年の心臓は、この瞬間ぎゅっと大きく収縮した。彼にとっては、生まれて初めての感覚であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それから一時間、青年貴族たちは飲みつづけたものの、ダーラーはどこか気もそぞろで、同期仲間の話もろくに耳に入らぬていであった。接客の声が聞こえるたびにその視線がフロアをさまようが、求める娘の姿はそこにはない。
「あ~あ、堅物のダーラーも、ついに恋を知ったというわけか」
「いや、そういうわけでは……」
からかう仲間に言い訳するその声は、いつもになく自信無げだ。
「まあ、いいことだぜ。ダーラーは悪所にも通わぬし、女に免疫がなかったからな。付き合うならあの娘みたいにおぼこい子が、いいと思うぜ」
「うん。なんだか、運命みたいなものを感じるんだ。僕は彼女を妻にしたい」
恋の必須課程であるあれこれを全部すっとばし、いきなり真顔で飛躍したことを口にするダーラーに、思わず一歩引く同僚たち。
「いや、だが……お前は貴族の子弟だ、平民の娘を娶るにはいろいろ面倒だろう……」
「僕は家督を継がず、軍人として一生を終えるつもりだ。ならば彼女の身分なんかどうだっていい、必ず幸せにしてみせる」
同僚たちに指摘されたとおり、ダーラーには色恋に対する免疫がない。本家と分家を継ぐ長兄次兄には幼いころから許嫁がいたが、両親は三男である彼の配偶者を世話するつもりはなかったようだ。そして彼自身も思春期を迎える前に軍人養成課程に入り、以降は厳しい訓練三昧。同僚たちが誘う商売女とのあれこれも全部スルーしたまま成人してしまった彼が「運命的」と自ら表現する出会いに夢中になってしまったのは、やむを得ざるところである。
「わかった、ダーラー。こうなったら俺達もお前の初恋が成就するよう、いろいろ手助けしてやるよ。今日はもう会えないだろうが、しばらくはこの店にみんなで通おう。最初はみんなで野歩きにでも誘って……二人きりになれるようにセッティングもしてやるから」
「ああ……感謝する、よろしく頼むよ」
そして、彼らは酒場を出た。結局あの清楚な娘は、二度と接客に出てくることはなかった。
立ち去りがたい思いで一度だけ振り返ったダーラーの眼に、頼りなげに自らの胸を抱いてたたずむ、可憐な娘の姿が映った。その視線はまっすぐ、彼に向けられている。蜜蜂が花に吸い寄せられるように娘に近づいてゆく彼の姿を見た同僚達は軽く口笛を吹いて、恋の決戦に挑むこの勇者を見送った。
ダーラーが紅くなったり蒼くなったりしながら、真っすぐな気持ちを何とか伝えようと奮闘している。娘は恥じらうように眼を伏せていたが、やがて桜色に染まった貌を上げ、小さくうなずきながら何やらささやいた。青年がぱあっと表情を輝かせ、娘の手を鍛え抜いた両手でがっしりと包み込む。
そんな青年にふわりと柔らかい微笑みを送る娘は……よく見れば「ゴルガーンの一族」、リリであった。
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