幕間2 DISTORTION
「マヤ様っ!? 良かった、どうぞご無事で……」
森を進んでいると、一人のメイドが慌てた様子で駆け寄ってきた。
佐伯 桃。藤宮邸に給仕するメイドである。
マヤ様とへりくだった言い方をする彼女だが、身長はマヤより高く、年齢もいくらか上だ。
と、その後ろから更に現れたのは、藤宮家が経営する会社の警備員。
皆、おお、良かった、など安堵の声を漏らす。
「お嬢様は?」
「はい、警護員の方に保護され、先にお屋敷へと向かわれました。マヤ様にお怪我は......」
「私にはありません。さあ、すぐに帰りましょう」
「はいっ!」
声を弾ませ、軽い足取りで森の中を引き返す佐伯とその一行。
足取りが重いのは、最後尾を歩くマヤのみ。
「それにしても、信号弾はどうしたんです?」
「アレ......ですか。アレは森の中で落としてしまいまして」
「マヤ様がそんな事されるんですね~、なんて」
「............」
「えっ、ちょっ、冗談ですよマヤ様!? 真顔にならないで!?」
ハハハ、と笑い声をあげる一向。夜の森の中だというのに、なんとお気楽なものだろうか。
否、異常なのは私なのかもしれない。
これだけの人数があれば、よほどの事が無ければ問題は起こらない。
一人だった先ほどまでと比べて、各段に安心できる状況なのだ。
皆、それを分かっている。そして、自分が見つかったことで目標も達成され、安堵している。
なぜ自分は安堵できないのか。否、その原因も検討はついている。
ハルトの目的地は藤宮邸。
大企業の社長を務める当主の屋敷には警護も付いており、住所不定の者が近づける訳が無い。
そんな屋敷の中に、一体どうやって入ろうというのか。
レイヴン自身が説明するという方法もあるが、それでは大騒ぎになる。
妹を探しに来たという彼の事情を知っているなら、尚更だろう。
なら、どうやって。
その答えは、屋敷に着いた時明らかになった。
自身が帰宅した事の報告も兼ね、普段使用する使用人用の出入口ではなく正面の玄関扉を開ける。
すると正面ホールには、平然とした顔つきでアリスの母、アイラと話すレイヴンの姿があった。
その肩には、気絶したハルトを背負っている。
「ああ、マヤ。良かった、無事なのですね」
「はい、お義母様。そちらの方は......」
「ええ。近くを通りかかったお嬢さんみたいなの。あの子とマヤが無事に帰って来る、って教えてくれたのよ」
「そう......ですか」
何故動揺した素振りすらお見せにならない。
レイヴンが屋敷の中に入ってきたのだ。監視カメラだってある。騒ぎにならない訳がない。
アリスお嬢様のどこか抜けた性格は母親のアイラ譲りだが、だからと言ってこれは異常だ。
マヤが目の前の光景に疑問を感じていたその時、レイヴンがこちらを向いた。
「さて、マヤも来たようじゃし......始めるかの」
レイヴンが一度目を閉じ、再び瞼を開けたその時。マヤは、肌がヒリヒリと痛むのを感じた。
例えるなら、日焼けして赤くなった皮膚に湯を流すような、そんな痛み。
そして痛みの原因がハルトを担ぐレイヴンにあると直感し、目を見やる。
だが、そこにあるのは石ころではなかった。
否、正確に言えば石ころではあるが、カエルやハトといった複数の存在がレイヴンの中にいる、そんな認識を憶えた。
何かが起こる。マヤの第六感が、警鐘を鳴らしていた。
「何をするつもりですっ!?」
「そんな警戒するようなことではないんじゃがのー......」
声を荒げるマヤに、レイヴンは面倒臭そうな顔をしている。
「おっと、今は動かんほうがええぞ?」
また新たな......否、ここ数時間でもう聞き慣れてしまった声がした。
後ろを向く前に、生け花に肩を掴まれた。
と、皮膚のヒリヒリとした感覚が何故か収まる。
そして、ハルトを担ぐレイヴンが口を開いた。
「藤宮家の者よ、そしてそれを認識する者よ、告諭である。この男、北条 ハルトは藤宮家に間借りする書生である。使用している部屋は、屋敷二階の端、長い間使われていない使用人室である。この屋敷に住まうようになった経緯は、当主の娘、藤宮 アリスが森の中で迷っていた所を助け出し、間借りしても良い約束をしたからである。恩人である以上、当屋敷での労働の義務はないものとする。以上を以て、これを事実と認識せよ」
そう言い終えてから、石ころの中から他の存在が消えた。
そしてその直後――
「あら、その肩に担いでるのが......アリスを助けてくれたハルト君かしら?」
「そーなんじゃよー、森を出るちょっと手前で倒れてしまってのー」
ハルトが、アイラに――屋敷の者に受け入れられていた。
「自らの事も顧みず、そこまでしてくれただなんて。マヤ、急いで部屋の準備をするよう佐伯に伝えて貰える? ……マヤ?」
「……」
思わず絶句した。絶句せざるを得なかった。
奴はノートに書いた文字を書き直す位の感覚で、世界の有り方を改変したのだ。
だが、この真実を知っているのは自分だけ。
ずっと黙っていると、おかしいのは自分の方になってしまう。
無理にでも平静を取り戻すマヤ。
「申し訳ございません、後の事を考えていました。お嬢様への恩は私への恩。私自らで準備をしますので」
「それは......。分かりました。でも、余り無理はしないでくださいね」
「......ええ」
固い表情のマヤに向けて、アイラはニコリと微笑んだ。
会話が、何の問題も無く成立してしまった。
表情筋が吊る感覚と共に、背筋を汗が伝う。
それを横目で確認し、ウムとにこやかな表情で頷いた石ころは、マヤに向かって歩いて行く。
そして、そっと耳打ちした。
「ワシからのささいな助力じゃよ、遠慮は結構じゃ。ワシは先に部屋に入って、ハルトを元の世界に戻しておるからの」
「............」
ありがとうございます、と言う気にはなれない。
確かに、これでハルトは波風立てず藤宮家に受け入れられた。
恩人でもある彼が目的に一歩近づいた事は、素直に良いことだと思う。
だが、人間の意識を無理矢理改変するなど、取ってはならない手段ではないか。
マヤに手を振って、石ころは平然と屋敷の階段を登っていく。
とその途中。
レイヴンはこちらに振り返り、発音せずに口を口を動かした。
「――ッ!」
奴が何を伝えているのか、マヤには分かった。分かってしまった。
あまりの衝撃に立ち眩みを覚える。
今、考えるのはよそう。まずは他のすべき事を片付け、少しずつ受け入れよう。
使われていない部屋の掃除を、マヤは一人で請け負った。
乱雑に置かれた物を運び出し、茶色く変色したカーテンを取り換え、ベッドのマットレスも新品に取り換える。
他にも床掃除にシミ取りなど、綺麗な空間を取り戻すために行う事は様々だ。
あそこに汚れ、あそこにシミ、あそこにはクモの巣が............
疲れていない訳ではない。ただ、今は掃除に集中したかった。他の事は、考えたくなかった。
数時間後、掃除が終わり少し休憩していると、アリスが駆け寄ってきた。
「マヤ~、お父様に叱られたぁ~......」
そう言って、情けなくマヤにすがるアリス。
屋敷の警備員や森の入り口で警備している者を吹き飛ばしたのだから、むしろコレで済ませてもらったことに驚いている。
厳格なお義父様も、今は強く叱れるほど気力が残っていないのだろう。
ああ、本当に情けないお方――と、普段であれば気分が高揚するマヤであったが、この時はあまり気が乗らなかった。
空調の効いた屋敷の中で、マヤは主人の頭をいつもより長く撫でる。
その後も、マヤは気を落ち着かせられなかった。
ハルトと言う青年は、何の問題も無く目を覚ましてくれるのだろう。
何よりも。
――『お主のその髪飾りの効果、あと三か月ほどで切れるぞ』
レイヴンが放ったあの言葉。
私は、この先どうすれば良いのだろうか。
眠れない夜、窓が風に吹かれてガタガタと揺れていた。
◇◇◇◇◇
「ふー」
椅子に座り暫く目を閉じていたレイヴンは、その瞳を開ける。
「終わったようだな、お疲れ様」
彼女の目の前には、緑色の髪を揺らしながらコーヒーを飲むウォリッジの姿があった。
左手には、砂金が入った小瓶を持っている。
「まあ、取り敢えずはこんなものかな。もホント、パースは人使いが荒いんだから......。いきなりやって来て、『頼みがある』だなんて」
そう言って愚痴を漏らすレイヴンに、ウォリッジは柔らかい笑みを浮かべる。
「しかし、我々の中で一番顔が広いのはティア、お前だろう?」
「まあそうなんだけど。でも目的ぐらい言ってくれても良いと思うんだけどなー」
「彼が言わない方が良いと思ったから言ってないんだろう? なら仕方ないさ」
「そうなんだけど......。と言うか、そもそもパースがあの子供を森の中に置き去りにしたから、女の子二人と出会う事になって、トラブルが起こったワケでしょ? オマケに、空間を不安定にさせたせいで電波障害まで起こして。なんで面倒事を作るかなぁ......」
レイヴンの言葉を聞いたウォリッジはコーヒーの入ったコップを机に置き、顎に手を当てる。
「......もしかすると」
「え? なに?」
「いや、彼の事だ。意図的に森の中に飛ばし、意図的にあの女性二人と合わせていたんじゃないかと思ってな。あの青年だけの力では、こちらの世界の人間との繋がりが作りにくい。偶然を装う形で巡り合わせ、協力して森の中から脱出させる事で繋がりを作ろうとした」
「それってつまり――」
「こちらの世界での居場所を作ってあげようとしたんじゃないか、と思ってね」
「じゃあ、パースはあの子だけでなく兄の方までこの世界と関わらせるつもりでいた、ってコト?」
「まあ......そうなるな」
ふーん、と声をあげるレイヴン。不満そうな声色からは納得していないように感じさせるが、への字に曲げた口は、何かに押し黙らされているように見える。
「これから、何が起こるだろうね」
「さーあ? 私にも分からないわ。でも何か、何かが起こるんだと思うけど......」
「俺にベタつく以外の楽しみはできそうか?」
「楽しくなるかはあの子次第じゃない? と言うか楽しみが増えたところで、私は変わらないから。ま、気になるようだったら――」
その時、ドアがガチャリと音を立てて開かれた。
奥からは、黒色の修道服のような衣服に身を包んだ男女の双子が出て来る。
光を飲み込んでいると錯覚するほど真っ黒な髪を揺らしながら、二人の子供は椅子に掛けるレイヴンとウォリッジにトテトテと足音を立てて近寄る。
「あ、ママ帰ってたんだ。おかえりー!」
「うん、ただいま」
「どうだった? ねぇ、どうだった? 面白かった?」
漆黒の瞳を好奇心で大きく開き、少女の方がレイヴンにズイと寄った。
少年の方はその後ろで本に目を通している。
「んー、まあまあ......カナ?」
「ふーん」
「ムニンは気になるの?」
「うん! イセカイジンって奴なんでしょ! 面白そう!」
「そっか。だったら今後様子でも見てきてもらおうかなー?」
「ホント? やったぁー!」
ピョンピョンと跳ねるムニン。
と、今度はその顔を少年の方に向け、本を持つ腕の脇の下から顔を覗かせる。
「ね、フギンも一緒に見に行かない?」
「......ボクは興味ない......」
「えー!? ねー、パパからも何か言ってよー!」
グイグイと、ウォリッジの服の袖を引くムニン。
「ティアをママと呼ぶのはともかく、俺をパパと呼ぶのは止めてくれと何度も言ってるんだが......」
「?」
「いや、何でもない。というか、お前一人の方がやりやすいんじゃないのか?」
「そーなんだけどー。フギンったら籠りっぱなしだもん。フギン、外に出よう!」
「やだよ、外に何があるのさ」
「もー、わからずや!」
「そっちこそ。本を読まないから、いつまで経ってもバカなままなんだよ」
「あー! バカって言った方がバカなんだー!」
「なにをっ」
頬を膨らませ、睨み合う双子の姿は如何にも人間らしい。
「こらこら二人とも。ほら、もう時間だよ」
喧嘩しようになっている二人をレイヴンが止め、時計を指さす。
時刻は夜中の10時半を指していた。
「あっ、ホントだ! ほら、フギンも!」
「えー、ボクまだ本を読みたいのに......」
そうは言いつつ、腕を掴んだムニンに半分持ち上げられながらもフギンは立ち上がる。
「じゃあおやすみなさい、ママ、パパ!」
『「はい、おやすみ」「また明日な」』
椅子に座る二人と挨拶を交わし――双子は、家を出て行った。
双子が出て行ったのを確認してから、レイヴンは口を開く。
「それで、そっちの方は大丈夫そう?」
「ああ、問題ない。こちらの世界にも、特に戸惑う事なく馴染んでくれそうだ」
「あっちの世界の事を言わないよう、釘は刺しておいた?」
「要らないよ。俺が信じなかったら、一体誰があの子を信じると?」
「へぇ、あなたにそう言ってもらえるなんて、あの子も幸せねぇ......」
「おいおい、冗談は止してくれよ」
フフと微笑むウォリッジ。薪で燃やされていた炎が、パチンと音を立てた。
「でももし口にした時は......」
「分かってる。二つの世界が交わるのだけは、避けないとな」
決して交わらない二つの世界。だが、その二つでは同じ文化を発展させている。
交差はせず、然し平行でもない二つの直線。
――人はそれを、捻じれの位置にあるという。