Part1 始まりの日
――ここは、どこだろう。
暗く閉じた世界の中、自分の意識だけがあった。
孤独感は無かった。羊水で包まれたような浮遊感が心を包み、微睡みの中、意識が溶かされ、流れてゆく。
ふと、指先にモノが触れた。
温もりを感じる。それと同時に、自分の中にある何かが、そのモノに向かって流れ込んでゆく感覚がした。
意識はより軽くなり、浮遊感は増してゆく。
だが同時に、流れ出た何かが、そのモノの中にある何かを縛ろうとしている事を感じ取った。
名前も言葉も分からない。しかし今縛られようとしているそれが、思い出であると言う事を直感した。
――嗚呼、これは駄目な事なのだ。
流れ出たものを、再び自分の中へ取り込む。
それと同時に、自分しか居なかった世界が広がってゆくのを感じた。
男の慟哭が木霊す。
ヤメロ、ヤメロ。お前の為なのに。
男の声を無視し、内から流れ出たものを引っ張り込む。
――そして、世界は浮き上がる。
◇◇◇◇◇
ゴールデンウィーク明けの朝。
少女の部屋に、起床の時間を告げる目覚まし時計の音が鳴り響く。
頭を布団に潜らせ、音から逃れんとする少女。
が、時計の音は大きさを増して行くばかりだ。
やがて時計の音に耐え兼ねたのか、少女は布団の中から腕を伸ばす。
そのまま起き上がる、かと思われたが、少女は中々布団から顔を出さない。
どうやら、相当眠いらしい。
「ミヨ~、そろそろ起きないと遅れるわよ~?」
一向に起きようとしない少女――ミヨだが、それでも時間は刻一刻と過ぎていく。
果たして、ミヨは自らの睡魔に打ち勝つ事は出来るのか!?
「にーさん......」
はい、なんでしょう。
「部屋に勝手に入らないで、って言ってるでしょ。と言うか、朝からうるさい」
「それは失敬」
布団の中から、妹の美夜子の顔がニュッと覗く。
不満そうな表情に、眠たさがプラスされている。
ふむ、良きかな良きかな。
ちなみに、母さんがさっき言っていたミヨと言うのは、美夜子の愛称だ。
「その表情、いただきました。パシャリ」
「ヒトの寝起きの顔撮らないでよ」
「大丈夫だ、寝起きだろうとミヨの可愛さは世界一だぞ!」
「そういう事じゃなくて。というか、いつから居たの?」
「おやすみからおはようまで、ずっと」
「うわ、何そのCMの台詞みたいな言葉回し。気持ち悪……」
おっと、今度は引いた表情。今朝は撮れ高バッチリですなぁ。
「ま、それは冗談として二時間ぐらい前からかな」
「それでも十分キモイんだけど。というか、私のスマホは?」
「弄ったまんま寝落ちしてたから、お兄ちゃんが充電しておいたぞ」
ゲー、という表情を見せるミヨ。
「中、見てないよね?」
「大丈夫ダイジョーブ、見てないって。お兄さんを信じなさい!」
「私が中学の時、覗いたくせに」
「それはまあ、若さ故の過ちという事で」
「じゃあ聞くけど、今は見たいと思ってる?」
「モチロンさ!」
「即答なんだ……」
「ハルトもそこに居るんでしょ~? ミヨを起こしたげて~」
「ま、母さんが呼んでるし。下降りるぞ」
「はーい……」
どこか不満そうな声を上げるミヨと一緒に、俺は階段を降りる。
下では、母さんが朝食を机に並べて待っていた。
いただきますを言って、ミヨはそれらを口の中に掻き込む。
それからバタバタと家の中を走り回って身支度を整えると、踏んだ踵を直しつつ靴を履き、玄関のドアを開けた。
「行ってきまーす」
「ほいよ、いってらっしゃい」
ドアから入る朝の日差しに照らされて、ミヨは高校へと出掛けた。
さて、俺もやりますか。
朝食を食べて歯を磨き、着替えを済ましてから俺は自室に入る。
そして勉強机の明かりをつけ、参考書とノートを広げた。
――この春、ミヨは高校に入り、俺は大学に進学する......予定だった。
だが俺は受験に落ち、浪人生になったのだ。
だって仕方ないだろう。貧乏家庭の我が家では私立への通学や一人暮らしをする余裕は無く、進学先も自宅から通える国公立に限定される。
結果、俺の進学先は偏差値70超えの超難関校、関東大学へと自動的に決まったのである。
在学中の偏差値が55だった俺にとって、この道はあまりにも険しい。
一体何浪する事になるか、全然先が見えない。
塾にも行けず、大学生活を満喫している高校時代の友達とは疎遠になり......今の俺は、一人だけで受験と格闘している。
辛くないのか、って? そりゃあ辛いよ。辛くない訳がない。
でも、俺には救いがある!
そう、我が妹、美夜子の存在である。
快活な印象を与えるショートスタイルの髪に、パッチリと開いた二重の瞳。小さな顔に、滑らかな曲線を描くボディライン。
何を取っても、どう見ても完璧で、ありとあらゆる表情、シチュエーションで可愛さと美しさを感じさせる。
俺に対しても表面上はベッタリしている訳ではないが、随所で感じさせる兄への思慕の情がこれ以上無い役得であり......おっと、語りすぎたか。
なんにせよ、妹がいてくれれば受験勉強だって乗り越えられるのである。
妹と食べる、学ぶ、食べる、学ぶ、妹と食べる、学ぶ、妹と遊ぶ、そして寝る。
同じ毎日の繰り返しであっても、それはそれで良いのである。
受験生相手だからか、優しくしてくれるし。こんな想いが出来るのも、悪くはないのだ。
……
ただ正直な所、大学合格後の目標なんて皆無だ。勿論、卒業後の人生設計も。
まあ、なんだ。テキトーにどこかに就職してそれなりの人生が送れたらいいかな、なんて思う。
いや、今そんな事考えると勉強する気失せるな。とりま合格せねば。
「そーだ思い付いた! ミヨが受験生になった暁には、俺が手取り足取り教えるんだゾーイ! フハハハ! テンション上がって来たァーッ!」
などと勉学に打ち込んでいる内に、今日もとっぷりと日が暮れ。
「夕飯出来ましたよー」
ダイニングから、母さんの声が聞こえる。
おや、もうそんな時間か。でもそう言えば――
「父さんおかえり。というか、ミヨはまだ帰ってきてないのか?」
会社から帰宅した父親におかえりを言うのと一緒に、妹の姿が無い事を尋ねる。
が、二人とも首を横に振るばかりだ。
いつものミヨなら六時ぐらいに帰っているのだが、今日は七時半を回っているというのにまだ帰って来ていない。
親である二人もそこが気になっているらしく、いつもよりどこかソワソワした様子だった。と、
「ただいまー」
噂をしていれば何とやら。
三人の心配をよそに、いつも通りのミヨの声が玄関から聞こえて来た。
いや、いつもよりちょっと疲れた感じか?
「遅い! どこ歩いてたんだ!」
帰宅を待っていた三人の気持ちを代弁して、俺が声高にミヨを言及する。
夜遊びなんて、お兄さん感心しませんよっ!
「別に変な所行ってた訳じゃないんだけど、えっと......」
「まさか......街でナンパされてたとか!?」
「違う違う! そんな兄さんみたいな事をする人に引っかからないって」
「ナ、ナンパ? 俺が?」
俺、ナンパなんてした事無いんだけど。
ミヨにとって俺は、そんな風に見えるのか?
いや待てよ、これは暗に『あなた以外の人にナンパされても嬉しくありませんよ』と言っているような物なのでは?
だとしたらお兄さん嬉しいな、って。
「......どうしたの? そんな顔ニヤつかせて」
「え、ああ。いや別に」
おっといかん、つい顔に出てしまっていた。
ミヨの表情はやや引いていたが、そんな顔も愛らしいのである。
あ、またニヤけそう。ヤバイヤバイ。
「とにかく、気にするような事じゃないから。心配しなくて大丈夫だって」
少しぎこちない笑みを浮かべるミヨ。
ホントカナー。とは言え、家族にも知られたくない事の一つや二つあるだろうし、今日は多めに見てやりますか。
何より悪そうにしている顔も可愛いしな。可愛いは正義!
「はいはい。もうご飯だし、早く手洗いと着替え済ませて来なさい」
「はーい」
口に手を当てて呼びかける母に返事した後、ミヨは手洗い場へと歩いて行った。
父も母も、強く責めるつもりは無いらしい。
≪先月発生した女子小学生の誘拐事件について、警察は容疑者と思われる26歳の男を逮捕しました≫
そんな話をしているとテレビが内容を合わて来たのか、どこかで起きた誘拐事件のニュースを流していた。
いやー、マジよく分からんよな。
年の離れた女の子を誘拐するとか、紳士の風上に置けない、けしからんヤツだぜ。
≪男は調べに対して、『自分を慰めてくれる、妹のような存在が欲しかった』などと供述しており――≫
いやー、分かりみあふれるわー。
やっぱり妹って最高だよな。辛い時に妹がいてくれたら、って思うその気持ち、良くない事だって分かっていてもつい同情しちゃうぜ。
「怖いわねぇ。ミヨもこんな犯罪に巻き込まれないか、お母さん心配なんだけど......」
「そうだなぁ......」
「ほんとに、妹は大切だな」
三人して頷いていると、着替え終わったミヨが部屋から出てきた。
「どーしたの?」
「いや、今テレビで女の子の誘拐事件のニュースが流れててさ。ミヨも心配だなー、って」
「ミヨ、夜中に出掛けるのを咎めはしないが、こういうのには気を付けなさい」
「お父さんまでそんなこと言わないでよ。大丈夫だって」
「あんまり大丈夫連呼すると、逆にフラグにしか聞こえなくなって来るんだが?」
「だーかーら......」
横からチャチャを入れてからかう俺に対して、ミヨは半笑いながら嫌そうな声を上げる。
「そうは言っても、最近は手口が巧妙だって聞くぞ?」
「ふーん? 例えば?」
いじられた事のお返しか、ミヨが意地悪な笑みを浮かべて俺に聞いてくる。
そういう一挙手一投足がポイント高いんですよ、我が妹よ。
「そうだな、例えば......」
「君、魔法の才能があるだろう? 迎えに来た。私と一緒に来てほしい」
「まあ、ここまでベタなのは流石に無いけど」
今しがたテレビから聞こえてきた肉声に対して、コメントする俺。
「――ん?」
ってちょい待ち。テレビから聞こえてきた肉声って、それただの肉声じゃないか! 一体どういう事だ――
「初めまして。いや、警戒しないで欲しい。私は怪しい者ではない」
視線を向けた先には、頭からフルフェイスのヘルメットをかぶり、変わった模様のマントを羽織った男が居た。
いや、どっからどう見ても怪しいだろ! なんだこのおっさん!?