手紙
返事が来ない。
いや、来ている。送ったら、必ず返事は来る。
“求めている返事”が来ない。
約1ヶ月前婚約者の少女に酷い言葉を浴びせた。言うつもりはなかった。あんなことを言ったら、相手がどんな反応をするか分からない愚か者じゃない。何度も母に、父に注意され続けた。
初対面で相手の印象を決め付けるな、自分の物差しで相手を計るな、相手と相手の周囲をもっとよく観察しろ、と。
しなかったのはではない、出来なかった。
きっと皆知らない。
誰も知らないから、どんな思いを抱いているか気付いてくれない。
『ベルンハルド様っ!』
縋りつくような目が嫌いだった。
『どうしてお母様やお父様の言うことが聞けないの! 部屋にいなさいって何度言われれば気が済むの!』
実の妹を平気で傷付け、追い出し、自分が正しいと思い込む態度が嫌いだった。
『聞いてください! 今日は、400年前ローゼンアリア王国と和平を結んだクイントゥス王と――』
聞いてもいないのに王妃教育で教わった内容を話してくるのが嫌いだった。
女神の生まれ変わりが生まれれば、必ず王族に嫁ぐ。大昔、王家と姉妹神が結んだ誓約に則り、同じ年に生まれたベルンハルドと女神の生まれ変わりであるファウスティーナ=ヴィトケンシュタインは婚約が結ばれた。
今よりも幼い頃から王太子としての教育を受け、将来の伴侶となる相手に出会うのを楽しみにしていたベルンハルドにとって、女神の生まれ変わりという特別な存在なのに我儘で自分勝手、平気で妹を虐げる少女の正体に深く絶望した。
何故同じ年に生まれてしまったのか。
女神の生まれ変わりは特別じゃないのか。
何故あんな最低な相手と夫婦にならないといけない。
互いを想い、支え合う両親のような関係はきっと築けない。
母に、父に、時に周囲に注意されてもファウスティーナを受け入れることは出来なかった。
仕方なしに行く定期訪問。回数が増す毎にファウスティーナへの好意は下がる一方。毎回ファウスティーナに追い出され、泣いて走り去るエルヴィラが可哀想で追い掛け慰めていた。彼女自身に特別な感情は抱いていない。1歳下に弟のネージュがいる。彼がこのような扱いを受ければ、当然兄であるベルンハルドは怒る。両親も同じに怒り、悲しむ。
血の繋がった妹を平気で邪険にし、言葉の暴力を浴びせるファウスティーナを理解出来る日はきっと来ない。
ファウスティーナの1歳上に兄ケインがいる。彼も彼で冷たい。
何度か泣いているエルヴィラを慰めているとケインは来て。エルヴィラが泣いている理由をベルンハルドが代わりに話すと――
『そんなの、追い出されて当然ではありませんか。ファウスティーナに落ち度はありませんよ』
『ひ、酷いですっお兄様! お姉様は、とても怖くてっ』
『妹を怖がる情けない兄になった覚えはないよ。もし俺がファウスティーナの立場でも同じことをする。第一、部屋にいなさいって言い付けられて外に出るエルヴィラが叱られる立場なんだ。泣いてないでさっさと部屋に戻りなさい』
『お前といい、ファウスティーナといい、どうしてそうエルヴィラ嬢を傷付けることばかり……』
『……殿下は、婚約者に放置されて惨めな思いをしているファウスティーナより、泣く以外特別な取り柄のないエルヴィラが可愛いのですね』
『っ!!』
強烈な侮辱だった。感じたことのない怒りが体のどこかから沸き上がる感覚だった。火が付いたように泣き出したエルヴィラの大声にハッとなると、対峙していた相手の紅玉色の瞳を覗いたら、底のない暗闇に落とされた錯覚を覚えた。一瞬ふらっと足が揺れた。いるのはヴィトケンシュタイン公爵邸の廊下なのに、本物の底無し沼に入った手応えがあった。
言葉を無くし、顔から血の気が失せると興味が失せたというようにケインは一礼して通り過ぎた。
ケインとは1歳しか離れてない。たった1つしか歳は離れていないのに、あんな瞳を見せられるものなのか……。
「殿下……ファウスティーナ様から、お手紙が届いています……」
気まずげなヒスイの声がベルンハルドの思考を現実に戻した。きっと同じだと思いながら、心の隅では今度こそはと期待する自分がいる。ペーパーナイフで慎重に封を切り、中の手紙を取り出したベルンハルドは目に見えて落胆した。内容はやはり同じ。
多忙な王太子に無駄な時間を取らせる訳にはいかない、謝罪はきちんと受け取った。そういう旨の返事しか来ない。
ベルンハルドを気遣っての返事だが、明らかに拒絶している。
「殿下……」
あんな酷い暴言を吐いて簡単に許されるとは思っていない。
ただ、あの時も、王妃教育が終わるとしつこく会いに来るファウスティーナに対し、1年前からある苛立ちを抱いていたベルンハルドは軽い言い合いをしてしまった。ファウスティーナがエルヴィラの名前を出してきたのでこう言い放った。
『しつこいぞ! 僕が誰と仲良くしようが僕の勝手だ! それに、妹を泣くまで追い詰めるお前と関わる僕の身にもなれ!』
違う、違う、そうじゃない、こんなことを言いたいんじゃないと誰かが訴える。悔しげに、憎々しげにベルンハルドを睨んだファウスティーナは叫び返した。
『どうせ殿下もお涙頂戴しか取り柄のないエルヴィラが可愛いですものね! エルヴィラと殿下、お似合いですわよ!』
『っっ!!』
何時かケインに言われた言葉が蘇った。
“……殿下は、婚約者に放置されて惨めな思いをしているファウスティーナより、泣く以外特別な取り柄のないエルヴィラが可愛いのですね”
兄妹揃って王太子である自分を馬鹿にしていると瞬時に怒りが爆発した。誰かが叫ぶ、これ以上は駄目だ、抑えろと――だが。
『お前のような底意地の悪い相手が婚約者となった僕の気持ちにもなれ! お前は僕の唯一の汚点だ!』
僅かな時間。分すら経っていない。気付いた時には遅かった。
幾らか冷静さを取り戻した理性が急激に働いた。どう考えても他人に向けて言い放っていい言葉じゃない。それも、嫌々結ばれた婚約者でも。あ、とファウスティーナを見れば、全身を震わせ見る見る内に顔を青く染めて堰を切るように涙を流していた。
――後悔する瞬間すら手遅れだった。
「ヒスイ……叔父上の所にファウスティーナはいるんだよね?」
「は、はい。そのように聞いております」
「ファウスティーナに、会いに」
「いけません」
言わせまいとヒスイに言葉を遮られた。
「それはなりません。陛下や王妃殿下からは、厳重に言い付けられた筈です。勝手な行動はするな、王太子としての責務を果たせと」
「ファウスティーナに、ファウスティーナに会いたいんだ……っ」
「殿下。今はファウスティーナ様の回復を待ちましょう。きっとまた、元気になられたら殿下に会いに来ますよ」
読んでいた手紙を握り潰した。どうしてファウスティーナが教会の司祭シエルに保護されたかを知る者は一部だけ。ファウスティーナに起きた異変。真っ先に疑われたのはベルンハルドだった。母である王妃の、実の息子でさえ容赦しない冷たい尋問に幼い王子はまだ耐えられなかった。起きたこと、言ってしまった言葉をそのまま証言した。
そして――今まで受けた覚えのない、静かで冷気に満ちた怒りを受けた。強烈に怒鳴られ、罵られた方がずっとましだった。生きている心地がしない氷の世界に1人放り出されたら、きっと動くことも思考が働くこともなく、ただ寒さに震えるしか出来ないのだろう。話は当然父である王の耳にも入った。すぐに接触はなかった。……が、10日後に王シリウスは告げた。
王太子の婚約者をファウスティーナからエルヴィラに変えると。
そこから先はあまり覚えてない。ただ、必死にシリウスに縋りつき訴え続けた。声が枯れ喉が傷ついても……ファウスティーナ以外嫌だと。今更だと吐き捨てられても、お前の望み通りだと突き放されても、仕方のないことだと頭では理解していても……手遅れでも、一欠片の希望があるなら。
ヒスイの励ましは真実を知らないから。知らないから、落ち込むベルンハルドを励ます。
頼りない声でヒスイにお礼を言い、部屋から出したベルンハルドは受け取った手紙を長方形の木箱に入れた。
ベルンハルドの誕生日に毎年届くファウスティーナの枚数が多く長い手紙が鬱陶しくて読んでもすぐに捨てていた。それが今では、たった数行しか書かれてない手紙を大事に仕舞っている。
何度会いたい、会って謝りたいと送っても、返ってくるのは遠回しの拒絶だけ。
覚束ない足取りで窓に近付いた。下を見ると自然に溢れながらも人通りの少ない庭があり、子供1人隠れるのに十分な太さの木がある。
「ネージュには……あんな風に笑うくせに……僕には……」
ベルンハルドを好きだと言いながら、泣きながらもネージュに見せていた笑顔は、ベルンハルドが向けられたことのない最高の価値がある宝石や花も劣る――純美な笑顔だった。
婚約はまだ変更されてない。きっとファウスティーナに会える機会がある。何時か巡る日を待つよりも、自分で手繰り寄せて会いたいベルンハルドは窓から離れた。
ファウスティーナに対する気持ちに素直になっていたら、無駄な意地を張らずに済んだのなら。
送られてくる返事が全てファウスティーナ自身が書いた文字じゃないと気付けたかもしれない……。
「兄上が“運命の恋人”と結ばれるに必要な準備を仕掛ける建国祭がそろそろ来るね」
苦い薬を朝食の後飲まされ、ここ最近ベッドに寝かされ続けているネージュは誰もいない部屋1人呟いた。
「叔父上は怖い人だ。父上とは違う意味で怖い。でもファウスティーナに関してだけ、叔父上は絶対的な味方だ。間近で兄上とファウスティーナの関係を見続けてきたぼくが入れば、叔父上はぼくを信用する。
エルヴィラ嬢のことを話す兄上は、見たことないくらい生き生きとして楽しそうだって」
――苦しいのは今だけ。すぐに解放してあげるからね、兄上。
天使の微笑みを浮かべながらも、内に秘める思いは果たして天使と悪魔どちらか。
ネージュは枕の下から1通の手紙を引っ張り出した。
「……ぼくは兄上が大好きだから、兄上の幸せも願ってる。3回目の時、ぼくは君に協力した。兄上にファウスティーナを好きになってもらうように。けど駄目だった。なら、もう遠慮しないよ。兄上は運命で結ばれた愛しい人と一緒になればいい。……ぼくが頑張って今までよりも早く結ばれるようにするから、待っててね」
手紙を持ったまま毛布の中に潜った。瞳は開けたまま、温かい中じっとする。
「そうしたら、“捨てられる王太子妃と愛に狂う王太子”は生まれない」
――同時刻のファウスティーナはというと……
「はーい。出来ましたよ。炙りたてなので気を付けて食べてくださいね」
「とても美味しそう!」
焚き火にはまったらしく、今日は炙って溶けたマシュマロをクッキーに挟んで食べていた。食べたことのない新しいマシュマロは、甘い食べ物が大好物なファウスティーナをしっかり魅了した。あっという間に食べ終わるとメルセスから新しいマシュマロサンドクッキーを貰う。元気を取り戻すと甘い食事が多くなった。なので運動もちゃんとしている。
「シエル様はもう少ししたら来られますので今日はこれで終わりにしましょう」
「うん!」
この後は、教会の司祭直々にファウスティーナの勉強を見る。メルセスが家庭教師役を担ったと聞かされたのに。深い理由は気にせずとシエルに微笑まれるとつい微笑み返してしまったのだ。
メルセス本人も気にした様子はなく、彼女は彼女でファウスティーナの苦手なダンスレッスンに付き合ってくれている。
今日の夕食後に建国祭についての話をすると言われている。きっと昨日シエルが話したアレと関係している。気を引き締めるのと同時に、差し出されたオレンジジュースのグラスを受け取った。