最後は聖母の微笑みで
カイン=フックスは、11年前からヴィトケンシュタイン公爵家に仕える優秀な執事だ。寡黙で仕事熱心。自身のことを深く話さないが家族や恋人はおらず、親しい友人も少ないと聞く。きっちりと黒髪をオールバックにし、度のきつい眼鏡をかけた男性。それがカイン。仕事の早さや正確さは同僚だけではなく、公爵家の面々からも厚く信頼されている。
故に誰も気付かない。
彼の……眼鏡の下に隠された、冷徹な薔薇色の瞳に。人工皮で覆われた素顔に。
ここ10日間、まともに眠れていないケインを眠らせる為に睡眠薬を混ぜたカステラを食べさせた。30分後に起こしに来ると告げたものの、3時間後に起きるよう量を調整した。ファウスティーナが教会の司祭、シエルに保護された当日から彼は酷く落胆していた。まるで知っていたような、でも起きてほしくなかった、そんな姿だった。
公爵家の部屋があるフロアを抜けたカインはエルヴィラの手を引いて庭へ向かうリュドミーラを見掛けた。
「さあ、もう泣かないで。可愛い顔が台無しよ」
「ぐすっ、お兄様があぁ……」
「ケインも言い過ぎていたけど、こればかりはエルヴィラも悪いのよ? お母様の言っている意味分かりますね?」
「だって……っ、ベルンハルド様に会いたくてっ」
「エルヴィラ。王太子殿下はエルヴィラではなく、ファウスティーナの婚約者なのよ? ファウスティーナが教会にいるのは10日前から。王太子殿下が知らない筈がないではありませんか」
「っ……うあああああああん……!!」
「ま、まあ泣かないで……!」
……良かった。ケインを睡眠薬で眠らせて。末娘の泣き声は屋敷全体に響き渡る高音だ。遠くにいてもリュドミーラは聞き付け、泣かせた元凶を叱責する。主にエルヴィラが泣く原因がファウスティーナだったせいで彼女だけをキツく叱り付けていた。叱っている最中、エルヴィラなら何でも許すくせにとファウスティーナが反論したら、みっともない嫉妬をするなとばかりに怒鳴り付け、最悪の場合頬を打つ場面は何度も目にした。助けてあげられる時は助けていたが、使用人が庇ってもリュドミーラの怒りが収まったことはない。
今日は王太子が婚約者であるファウスティーナに会いに来る月一の定期訪問の日。4年前顔合わせた日から始まったが王太子が真面目にファウスティーナと話している場面は1度も見ていない。全てにエルヴィラは何食わぬ顔で現れ、初日で悪くした印象を良くしようとアプローチするファウスティーナの怒りを買って追い出され、余計王太子はファウスティーナを嫌って泣いて走り去るエルヴィラを追い掛け慰めていた。
何度も現場に居合わせたカインも、ファウスティーナ付きの侍女リンスーも、執事長もシトリンやリュドミーラに報告した。そして、夫妻がエルヴィラに注意していることも知っている。何の意味も無いのはお察しである。リュドミーラが自分に似たエルヴィラに特に甘く、シトリンに似たファウスティーナには殊更厳しいのは公爵家に仕える者なら誰もが知っている。ケインの場合は、何をしても完璧に熟してしまうので何も言わないでいる。年相応には思えない冷静さと知識がケインをそう印象づけているのだろうか。
午前中ずっと部屋に籠り、侍女が慌ただしく動いているのは何故かと不思議だった。疑問は昼食の時間で判明した。食堂に現れたエルヴィラは、お茶会に行く予定もないのにお洒落をした姿で現れた。10歳の誕生日プレゼントでリュドミーラから贈られた白いレースがふんだんに使用されたピンク色の可愛いドレスを着て。髪型もお気に入りのハーフツインではなく下ろしており、頭に赤色のリボンを結んでいた。
愛らしい姿にリュドミーラは微笑んだ。ケインはその時、非常に険しい顔をしていたのが印象的だった。
『とても可愛いわエルヴィラ。でも、今日はお茶会もないのにどうして?』
『決まっているではありませんか! 今日はベルンハルド様が来られる日ですよ。これでも足りないくらいです!』
『え……!?』
王太子ベルンハルドはファウスティーナの婚約者であって、エルヴィラの婚約者ではない。今ファウスティーナは10日前から教会にいる。王太子がその事実を知らない筈がない。自信満々に言ってのけたエルヴィラに席から立ち上がり、慌てて駆け寄ったリュドミーラは目線を合わした。
『何を言っているのですエルヴィラっ。王太子殿下は来ません。第一、貴女が着飾ってどうするのです』
『ど、どうって……』
『王太子殿下はファウスティーナの婚約者なのよ? 着飾るならもっと別の日……』
言いながらエルヴィラがぼろぼろと大粒の涙を流し始めると、今度は違う意味で慌て始めた。声を上げて泣き出したエルヴィラは、端から見ると意地悪な母に虐められ泣いている可哀想な娘といった構図だ。
『お母様ぁ! お姉様を連れ戻してくださいぃ! ベルンハルド様に会いたいです!!』
『な、何を言っているのっ。ああ、困ったわ。ファウスティーナは勿論連れて帰るわ。でもそれは私達家族が側にいてあの子を助けるためよ。エルヴィラ、貴女のそのお願いは聞けないわ。分かるわね?』
『何でですかぁ……!』
『当然のことです。いいですか? エルヴィラは――――』
一体何の茶番を見せられているのか。普段から何度も、何度も、何度もベルンハルドが訪問しても来てはいけない、部屋にいなさいと言われているのにも関わらずエルヴィラは来る。その度にファウスティーナに追い出され、追い掛けて来たベルンハルドに慰められ、一行が帰るとリュドミーラにファウスティーナを叱らせる。リュドミーラもリュドミーラで、まともな理由も聞かずファウスティーナがエルヴィラを泣かせたからと度が過ぎる程怒鳴り付けていた。現場にいた者達が証言しても未来の王妃が妹を泣かせる意地悪な人間になってほしくない、厳しくても叱らないといけないと譲らず。
前提が可笑しい。王妃になるに相応しい子を育てたいのなら、余計な行為を引き起こす原因を遠ざけるのも母親の役目ではないのか。エルヴィラが言い付けを守らないことに関して、言い聞かせてはいるが全く効果はない。優しく、駄々を捏ねる幼子に語り掛けるように言うのでないのは当然である。
すると、背筋を冷たく鋭利な針で撫でられた感覚がカインを襲う。思い当たる方へ視線を変えた。
テーブルの端に置かれていた水差しを持ったケインは席を離れ、ベルンハルドに会いたいと泣き喚くエルヴィラに近付きそのまま――――全ての水を頭から浴びせた。
飛沫はリュドミーラまで飛んだ。普段なら絶対にしない暴挙を起こしたケインを皆呆然と見る。泣いていたエルヴィラも同じである。
カインが坊っちゃん、と辛うじて呼べた。
『……いい加減にしなさい。10歳になった公爵令嬢が何時まで言葉が理解出来ない赤ん坊のままでいるんだ。殿下に会いたい? どの口が言うの? 家庭教師との勉強を全部嫌がって母上を味方につけて逃げて、まともな知識やマナーすら出来てない出来損ないを王族に会わせると思う? まして王太子殿下はファナの婚約者。エルヴィラは婚約者の妹に過ぎないんだ。それを毎回ファナの邪魔をして殿下の同情を引いて更に母上にファナを叱らせて自分は慰めてもらう? 本来であれば叱られる立場なのはエルヴィラの方なんだよ? 父上や母上の言い付けも守らず、ファナの言い方がキツイにしても全部正論なんだ。自分の都合が悪いと泣いて、駄目なら更に泣いて……いい加減にしろ』
『あっ……ああっ……』
『ま、待ってケインっ、言い過ぎよ』
『は……』
真っ向から向けられたケインの嫌悪と怒気は、甘やかされ砂糖菓子に浸った生活をするエルヴィラでは受け止め切れないみたいで。顔を青ざめ恐怖で震え出すと、また違った意味で慌てたリュドミーラが間に入るも此方も軽蔑の眼を向けられ固まった。
『言い過ぎ? じゃあ、エルヴィラには許してファナには許さないくせにと反論して差し上げましょうか? そうしたら母上は頬を打つんでしょう? それで何度もファナを打っているんだから、当然俺も叩くでしょう?』
『なっ、そ、それは』
『叩かないのですか? ファナはあれだけ叩いていたくせに。直接の原因は不明にしろ、ファナが城で泣き叫んでいた根本的原因は母上でしょう』
『何を言っているの!?』
『何をしても努力と結果を求められ続け、納得がいかなければ出来るまでさせて、反抗されたら怒鳴り付けて。限界が来るのだって目に見えてる。母上みたいな人間がいる家に帰りたくないとファナも限界を迎えたんだ』
『ケインっ、お母様に向かってなんて……っ』
ケインの言う言葉が全部正論で、使用人達は黙って事の成り行きを見守る。息子に図星を突かれまくって顔が赤いリュドミーラだが、更に強い軽蔑の感情を見せられ絶句した。
『母親なら、将来王妃になる娘の邪魔をする妹をどうにかしようと思わないのですか。……ああ、それとも母上はファナじゃなく、エルヴィラに王妃になってほしいのですか?』
『ち、違うわ! 私はファウスティーナの為を思って……!』
『……母上の言うファウスティーナの為って、一切信用性がないんです。それが分からないなら、母上、母上は余程ファナが嫌いなんですね』
『違う! 違うのよ、あの子は、生まれた時から特別だったのっ! ファウスティーナを今までの王妃より立派な、女神様の生まれ変わりとして相応しい子にするために……! 私は、全部あの子の将来の為に――』
『母上もエルヴィラも、父上が戻るまで俺の視界に入らないでください』
人間の感情はどうすれば完全に消え去ることができるのか。片鱗を垣間見た気がする。
昏い紅玉色の瞳は実の母と妹を完全拒絶していた。威勢よくファウスティーナの為と力説しようとしていたリュドミーラとケインの底の知れない怒りに震えるだけのエルヴィラは同時に青くなった。
待って、とリュドミーラが手を伸ばすも早足で食堂を出て行かれた。
場を支配する、呼吸を許さない重圧。
小さく息を吸って、吐いたカインはそれぞれに指示を飛ばしていった。
『トリシャ。エルヴィラお嬢様を着替えさせて。このままだと風邪を引きます』
『は、はい!』
『リュンは坊っちゃんを追い掛けて。あと、昼食を坊っちゃんの部屋へ移動させてください』
『わ、分かりました』
『ミントはそこの2人と一緒に奥様をお部屋まで』
慌ただしく動き始めた彼等を尻目に、表に出したい感情を必死に抑えた。口角が吊り上がりそうになるのを堪えろ、声を発してしまうのを堪えろ、と。
約2時間程前の騒動を思い出していたがハッとなって軽く首を振った。前を見るとエルヴィラは泣き止んでおり、リュドミーラと手を繋いで庭へ行った。遠目から見てもまだリュドミーラの表情は優れない。息子にあそこまで言われたのだ。今まで自覚がなかったのが……嗤える。
シトリンが戻るまでもう暫くかかる。
(あーあ……シエル様に教えなくちゃ……)
カイン=フックス、改めヴェレッドは今日の騒動をシエルにどう面白可笑しく知らせようか、それだけで今日は乗り切れる。と嗤いたいのを必死に堪える。
ヴェレッドが変装をしてヴィトケンシュタイン公爵家の執事をするのは、ある理由があって。碌でもない理由だ。シエルに教えたら盛大に叱られたが、知っても利用価値が十分にあると判断する方も大概である。
「カインっ」
玄関ホールに来た辺りで焦った様子のトリシャが。訳を聞き、一緒に外に出た。
白金色の髪、垂れ目な紫水晶の瞳の、神官服を着た美女がそこに立っていた。後ろの方には教会の馬車が停められている。
今対応しているのはリンスー。2人で掃き掃除をしている所に馬車が来たのだとか。
女性が視線を後ろに向けた。リンスーも振り返り、安堵の表情を。
カインは女性の前に立つと軽く頭を垂れた。
「神官様で御座いますね。態々ご足労頂き、ありがとうございます」
「いいえ。大層な用事で来た訳ではありませんのでお気遣いなく。あ、私はメルセスと申します」
メルセスも綺麗に頭を下げた。
「只今、旦那様はご不在ですが……」
「いえいえ、私は公爵にも公爵夫人にも用はありません。ファウスティーナ様のお世話をしていた使用人の方を呼んでくださる?」
「あ、あの、私です」
神官が来るということはファウスティーナ絡みだとは薄々感付いていた。おずおずとリンスーが前に出た。
「ファウスティーナ様が教会にいる間、司祭様よりお世話を命じられまして。ファウスティーナ様の私物を幾つかお借りしたいと思い、本日参りましたの」
本来であれば留守を預かるリュドミーラにお伺いを立てるのが筋だ。しかし、ファウスティーナが教会にいることを快く思っていないリュドミーラを来させると厄介だ。となれば……
カインはリンスーに目配せをし、意図を受け取ったリンスーはメルセスを案内した。
2人が邸内に入って行くのを見つめるカインとトリシャ。
「トリシャ。この事を決して奥様に知られないように。旦那様が戻られた際は注意を払って報せるように」
「は、はい。それにしても……」
「どうしました」
「いえ……女性の神官様は珍しいなと思い」
「1人くらいいてもおかしくないのでは?」
「そうですね」
「トリシャは奥様とエルヴィラお嬢様のところへ。万が一、がありますので」
「はい」
庭でお茶会をしている最中なので可能性は低いがもしもがあるから油断ならない。
(……つうか)
メルセスと名乗った女性。カイン――ヴェレッドの記憶が正しければ、だが確か……。
(まあいいや。俺には関係ないし)
ヴェレッドの予想通りの人だろうがシエルが選んだのなら問題ない。
邸内に戻るか、と踵を返した時だ。
大慌てのトリシャが戻って来る。
口角が吊り上がるのを堪える。
――此処にいるだけで、無料の喜劇が観られるのだから退屈しない。
戻ったトリシャから事情を聞き、2人急ぎ足で現場へと向かう。
ファウスティーナの部屋の前。恐縮するリンスーの前に立つメルセスは、妖精姫と呼ばれる美貌を遠くへ置き去りにしたリュドミーラに臆することなく微笑んでいた。
「まあ、公爵夫人ってすごいですわね。司祭様は王弟殿下ですのよ? 王族の命令に従わないなんてすごいですわ。是非、司祭様に報告させて頂きますね。きっと司祭様。喜んで公爵夫人のお相手をして下さりますわ。
そうは思いません?」
道に迷い、苦しむ民に救いを差し伸べる聖母の微笑みがヴェレッドに向けられた。
(あーあ……)
――教会の庭――
燃えやすいものを退かして焚き火をするシエルと焼いているスイートポテトが食べたくてうずうずしているファウスティーナがいた。枝を集めて火を付け、燃えやすいよう要らない手紙が放り込まれた際ファウスティーナは王家の家紋に気付く。灰色になっていく手紙は封すら切られていない。聞いていいものか考えていると「気になる?」とシエルに思考を読まれた。
「は、はい。読まずに燃やしてしまっていいのかなと」
「いいのいいの。これ、毎年陛下が送ってくる登城要請の手紙だから」
「え!?」
国王直々の手紙を読まずに燃やすシエルの行動は仰天ものだ。
「向こうも私が読まないと知ってるから何も言わないよ。だからファウスティーナ様は気にしなくていいよ。焼き上がるまでもう少しかかるね」
「司祭様はお城に行きたくないのですか?」
「会う必要すらないからだよ。昔から意味不明な行動する人だからね」
「陛下が、ですか?」
「そう。気にするだけ面倒臭い。あ、そうだ。朝市で新鮮なオレンジを沢山買って来てもらったから、一緒に搾る?」
「はい!」
無邪気な姿を見せるファウスティーナは知らない。
燃やしている王家からの手紙が全て――ファウスティーナ宛に送られたベルンハルドからのものだと。
シエルには、教える気も悟らせる気も一切ない。