ナイフと共に握り締めた
カイン特製のホットココアは、他人が作るどのホットココアよりも格別だ。濃厚なカカオの香り、口当たりのよい滑らかな味、上品な甘さが疲れている時に飲むと薬以上の効果を発揮する。手間暇かけて作っているのかと聞いたことがある。本人は淡々と一工夫加えているだけと話す以外教えてくれない。瞳が見えない眼鏡を掛けている分、余計淡白に思える。
出来立てのホットココアをちょっとずつ飲む。10日前から蓄積している疲れは思った以上に堪えた。これも今で4度目。気のせいか、回数を重ねる毎に酷くなっていく。
カインが作るココアは、他にもマーマレードココアやティラミス風ココア、マシュマロベリーココアもある。ケインの個人的お気に入りはマーマレードココア。オランジェットがそうであるように、カカオと柑橘類の相性は抜群だ。今よりも疲れる日が来たら、マーマレードココアを頼もう。
「ホットココアを飲まれましたら、少しの間眠るのもよろしいかと。適度なシエスタも大事ですよ」
「知ってる。そうするよ。もし母上に会ったら、休んでるって伝えておいて」
「はい。しかし……私が休暇を取っている間にファウスティーナ様が大変なことになっているとは……」
「……何時かはなっていたよ」
「坊っちゃん……」
コクリ、とホットココアを飲む。
仮に。ファウスティーナが王城でベルンハルドに酷い言葉の暴力を受けずにいたとしても、何れは限界を突破して壊れていた。場所は同じか、それとも公爵家になるかの違い。
何故同じ生を4度も繰り返すのか。最初にネージュが女神に願った内容が原因だ。
でも彼は気付かない。気付かないから、こうして繰り返している。3度目にして漸く大方の理解はしたらしいが……今回はどうなるか。
ファウスティーナとベルンハルドの婚約が破棄されるまでは大体は同じだ。細かな違いはあっても、である。
「カイン。執事長や侍女長と協力して母上をちゃんと見張ってて。間の悪いことに父上は領地で起きた問題解決の為に暫く王都にはいないから」
10日前ファウスティーナが王城で泣き叫んでいた所を教会の司祭が発見し、保護したと国王自身が公爵家を訪れ告げた。国の頂点に座する支配者の圧倒的オーラと両親に対する軽蔑を籠めた瑠璃色の瞳は、向けられていないケインでも震え上がるものだった。壁に隠れて盗み聞きをしていたとばれていたらどうなっていたか。
詳細は後日知らせると言っていたがその後の連絡はない。すると教会の司祭から直接手紙が届いた。どんな内容かはケインは知らない。知るのは手紙を読んだ父シトリンだけ。暫くファウスティーナは教会で静養すると言われると真っ先に反対したのは母リュドミーラだった。
家族なのだから、ファウスティーナが泣き叫ぶ状態なら余計家族のいる公爵家にいた方が良いと訴えた。その時は丁度朝食を摂っている最中だった。サンドイッチを切っていたナイフを持つ手に力が入った。異様に。手が支配下にあって良かった。意思を持っていたら、素材がサンドイッチからリュドミーラへと変わっていた。
リュドミーラの訴えをシトリンは柔らかく首を振った。今はそっとしておこう。父も心配じゃない訳じゃない。心が不安定なままで帰って来たら、ファウスティーナの負担が大きくなると危惧して。自然に囲まれ、のびのびと暮らしやすい教会で休めばファウスティーナも良くなると優しく諭していた。
その場はそれで終わった。
間の悪いことは立て続けに起きる。ヴィトケンシュタイン領にある村で交通において非常に大事な橋の老朽化が思っていたよりもずっと早く進んですぐに修理をしないといけなくなった。報告書を読んだシトリンは、必要な作業と状況の確認をしに急いで現地へ赴いた。当主不在の間は妻であるリュドミーラが女主人として留守を預かる。執事長や侍女長、優秀な執事がいてくれるお陰でリュドミーラが独断でファウスティーナを迎えに行くのを阻止する以外の問題は起きていない。
毎回止めていた彼等には、要らない労働をさせて申し訳ないと思う。特にカインは、家族の助けが今のファウスティーナには必要だと譲らないリュドミーラを説得していた。下手に干渉するより、遠くから静かに見守るのも必要だと。
……ただ、今日は違う。
ホットココアをちびちび飲むケインの視界の端から、ス……とケーキ皿が現れた。
表面はキャラメル色、ふんわりとしたカスタード色のスポンジ。
「疲れている時は甘い物、ですよ」とカインが差し出したのはカステラ。一見質素な見た目のこのスイーツはケインの好物であった。
常に淡白な表情なのに、好物を目にすると感情が豊かになるのは彼がまだ子供、なのもある。珍しく瞳を輝かせる姿は年相応の少年だ。
マグカップをテーブルに置き、デザート皿に置かれていたフォークでスポンジを切った。柔らかなスポンジを抵抗なく切って口へ運んだ。
甘い物が大好物のファウスティーナなら、目を輝かせたまま満面の笑みを浮かべ、幸せそうな顔で食べる。エルヴィラも同様だ。ケインの場合は目を輝かせつつ、とてもゆっくり食べる。
「シエスタの後は如何致します?」
「家庭教師の先生との授業は終わってるからね……面白そうな本を見繕っておいて」
「畏まりました。しかし、坊っちゃん。坊っちゃんは“教える必要のない生徒”だと、家庭教師の方々は常々言っておられますよ」
「買い被り過ぎだよ。俺だってまだまだ学ぶことは多い。父上の跡を継いで公爵になるんだから。俺以上に毎日頑張っていたファナに怠けているところなんか見られたくないんだ」
「坊っちゃんが休んでもファウスティーナお嬢様はそうは思いませんが……」
「まあ……俺やファナよりも1番の問題はエルヴィラだ」
リュドミーラが庭でお茶のセッティングをしているのも、ケインが書庫室で隠れるように床に座って手紙を読んでいたのもエルヴィラが原因だった。
好物を与えられてキラキラと輝いていた瞳は消え去り……代わりに何も映さない昏い瞳を浮かべた。
「王太子殿下が来るってどうして思うかな……何処の国の王族が婚約者のいない家に定期訪問するんだか」
「エルヴィラお嬢様がお茶会に行く装いをしている時点で気付くべきでした。申し訳ありません」
「いや、いい。部屋にいなさいって言い付けても王太子殿下が来る度に抜け出してファナの邪魔をしていたのは知ってる。俺から父上や母上に訴えてもエルヴィラを叱っても何も効果がないのも……」
「……」
何食わぬ顔で2人のいる部屋を訪れ、必死にベルンハルドにアプローチするファウスティーナに邪険にされると泣いて走り去り。性格の悪い姉に虐められている可哀想な妹をベルンハルドは追い掛け慰めていた。放置されたファウスティーナがどれだけ惨めで悔しい思いをしたか、この2人が分かる日は……今は、否、片方は永遠にない。もう片方は今頃理解し、だが気付いても遅く、父である国王に縋りついているだろう。
「ふあ……寝るよ」
「はい。お休みください」
カステラを綺麗に食べ終え、最後にホットココアを飲み干したケインは小さな欠伸をした。急激な眠気に襲われた。新品のタオルに包まれたような心地好さはとても気持ちがいい。体が浮遊感を覚えたと思うとベッドに寝かされた。ぼんやりとカインを見上げていると瞼を閉ざされた。
「30分後に起こしに来ます。寝過ぎると夜眠れなくなるので」
意識が落ちる前頷いた気がする……最後に覚えているのはそこまでだった。
――ケインが眠ると首元まで布団を掛けたカインは度がとてもキツいと周囲に漏らしている眼鏡を外した。眼鏡の下から現れたのは見事な薔薇色の瞳。
「お休み……坊っちゃん」
意味ありげに微笑むと再び眼鏡を掛け、音もなく部屋を出た。
――その頃、王城では……
「嫌ですっ、嫌です父上!! 僕は、僕は……!!!」
王太子の部屋を訪れた父シリウスから告げられたある言葉を聞いた瞬間、周囲が驚く程の拒絶反応を見せたベルンハルド。しかし、シリウスのベルンハルドを見下ろす瞳は氷点下にまで達していた。
「拒むことはない。お前の望み通りにしてやるんだ。これからは一層、王太子としての自覚を持ち、励むといい」
「嫌ですっ、待って、待って下さい父上っ……!!」
部屋を出ようとするシリウスの外套を力一杯引っ張り、ちょっとでも力を抜くと部屋を出て行かれそうでベルンハルドは必死だった。
「僕は、僕は……ファウスティーナが――――婚約者はファウスティーナのままがいいです……!!!」
……婚約者をファウスティーナからエルヴィラに変えられない為に。