9 ミストレ湖
待ちに待ったミストレ湖。
漸く、父シトリンの仕事が一段落したので数人の使用人を連れて、ファウスティーナ・ケイン・シトリンの3人でピクニックをすることとなった。リュドミーラとエルヴィラはお留守番。昨日声は掛けたがエルヴィラは最初と同じ返事で、リュドミーラはエルヴィラを置いて行けないと今回は屋敷に残った。公爵家の家紋が入った専用馬車が屋敷の前に停まっている。今日は動きやすい菫色のワンピースに白いツバの大きい帽子を被っている。ツバの横から前方には空色の大きなリボンが結ばれている。靴もヒールのないブーツ。
執事長や侍女長達に見送りを受ける中、空を照らす太陽を見上げた。
とても眩しい太陽の光を沢山浴びて。ファウスティーナは隣にいるケインに微笑んだ。
「楽しみですね! お兄様!」
「そうだね。俺も初めてだから、とても楽しみにしていたんだ」
シトリンの手伝いとして領地へ行っても、その他の土地へは行かないケインも今日のピクニックは内心楽しみで仕方なかった。執事長と侍女長と言葉を交わしていたシトリンは、同じく見送りに来たリュドミーラに話し掛けた。
「では、夕刻前には戻るよ」
「はい。お気を付けて」
「うん。ケイン、ファナ、馬車に乗ろうか」
「「はい」」
その声を合図に2人は馬車に乗り込んだ。
ファウスティーナとケインは隣同士で座り、シトリンは前に座った。3人が乗ったのを確認して、御者は馬を走らせた。
速くもなく、遅くもない速度で走る馬車の中で窓越しから外を眺めるファウスティーナはケインへ顔を向けた。
「ミストレ湖にはどんな動物がいるんでしょう」
「着いてからのお楽しみだよ、そういうのは。父上、着いてからは自由行動ですか?」
「あまり遠くに行かないのならいいよ。でも、極力は一緒にいよう。大人しい動物が多いが絶対に人を襲わないとも限らない。それと此方からも不用意に近付かないこと。いいね? ファナ」
何で自分だけ。と、不満ありげに口を尖らせるとシトリンは苦笑した。
「ミストレ湖には、きっとファナが気に入るだろう動物が沢山いるからね。近付いて彼等を驚かせてはいけない。僕たちが不用意に近付かなければ、動物達も何もしてこないよ」
「はい。お父様」
ファウスティーナとて、不用心に野生の動物に近付きたいとは思わない。遠くから眺めるだけでいい。
過ぎていく光景を新鮮な気持ちで脳裏に焼き付けるようにじっと見つめた。以前はこんな風にゆったりと外の風景を気にする余裕がなかった。頭にあったのは、何時だってベルンハルドとエルヴィラの事だけだった。何をしたら殿下は自分を見てくれるのか、どんな言葉を掛けたらエルヴィラのように微笑んでくれるのか、そればかりを考えていた。
過去の不毛な恋心は今思い出す場面じゃないと頭を振って、早く到着してくれないかと再びケインと会話をしたのであった。
*ー*ー*ー*ー*
王国が管理する湖の中で最も透明度の高い湖と評判が高いのも頷けた。豊富な森林が囲う巨大な湖を生で初めて見たファウスティーナは薄黄色の瞳をキラキラと輝かせて、充分に気を付けて湖の中をそっと覗いた。
「すごい……水深はとっても深いって聞いたけど水底がすぐそこにあるみたい」
ミストレ湖が凄いのは透明度だけではない。豊富な湧水量にもある。王国の全国民の生活用水をこの湖だけで賄える程の巨大さだ。
「ファナ。近付きすぎちゃ危ないから離れなさい」
「はい」
後ろの方でシトリンに呼ばれ、名残惜しくてもまだまだ時間はあると自分に言い聞かせファウスティーナはその場を離れた。
シトリン達のいる所へ戻ったファウスティーナは、使用人達の広げたピクニック用のシートの上に座った。持ってきたバスケットには昼食のサンドイッチが入っていた。
「お兄様はどれにしますか?」
「何でもいいよ。先にファナが食べたいのを選んでいいよ」
「じゃあ、エッグサンドを頂きます!」
サンドイッチの中でエッグサンドがファウスティーナの大好物。食パンに焼いた甘いスクランブルエッグをレタスと挟んだだけの簡単な料理だがとても美味しい。パクりと一口齧ると「美味しい」と頬を綻ばせる。
エッグサンドの他にも、ストロベリーサンドにハムサンド、ドレッシング漬けにしたレタスサンドもある。ストロベリーサンドは、今日いないエルヴィラの好きなサンドイッチだ。綺麗な湖といい、ストロベリーサンドといい、やっぱりエルヴィラも来たら良かったのに、とても勿体ないとファウスティーナは二口目を食べた。
「食事が済んだら自由行動にしよう。ファナとケインは一緒に行動をしなさい」
「はい。ファナ、何処か行きたい所はある?」
「前にお父様が教えてくれた白鳥はいなさそうですね」
「待っていたら羽休みをしに湖に降りるかもしれないよ」
「それでしたら、湖の中をもう少し覗いても良いですか? あんなにも綺麗なので魚達が泳いでいる所を見ていたいです!」
手早く昼食を済ませるとケインと共に再び湖を覗いた。
「思わず飛び込んでみたくなりますね」
「本当にしちゃいけないよ? 目に見えても63メートルはあるんだから」
「え!? そんなに……」
深い先まで目視で覗ける程透明度の高い湖は、王国ではミストレ湖の他に4つある。その中でもミストレ湖は、飛び切り湧水量の多い湖である。透明度に限って言うと更に上をいく湖もある。
「また機会があるなら、今度はもっと綺麗な湖を見に行きたいですね」
「ミストレ湖も充分に綺麗だけど、それ以上と言われると気になるよね。次はエルヴィラと母上も来たらいいのに」
「お母様はエルヴィラがいれば来ると思いますよ」
否定はしないよ、とケインは苦笑した。次期公爵として周囲の大きな期待を背負っているケインに殊更期待しているのがリュドミーラ。エルヴィラとはまた違う意味で溺愛されているケインは、唯一父に似たファウスティーナに冷たい母の内心が読めない。ひょっとして、とある推測をしているがもしそうならファウスティーナが可哀想だ。大人達に何かあったとしてもファウスティーナが生まれる昔の話。
「重ねないでほしいな」
ケインの呟きは小魚に夢中なファウスティーナの耳には届いていない。2人はじっと眺めては歩き、またじっと眺めては歩くを繰り返した。広大な湖を時間をかけて一周するとスケッチをしていたシトリンが2人の所へ。
「面白い魚でもいたのかい?」
「湖がとても透明で水中にいる魚達が丸見えで夢中になっていました」
「そうかそうか。連れて来て良かったよ。今はシーズンじゃないからいるのは僕たちだけ。こうやってのんびりとするのも偶にはいいね」
「国王夫妻が隣国の式典から戻るまで後10日程掛かると聞いたからファナ。ちゃんと予習復習は怠ってない?」
「やってます!」
ベルンハルドの訪問から逃げていても王妃教育はきちんとしている。からかうケインに頬を膨らませて見せるとシトリンが軽快に笑った。
「ははは。王妃様からの評判もとても良いよ。この調子で頑張りなさいファウスティーナ」
「はい!」
再びスケッチをしに戻ったシトリンの大きな背中が前回と被った。最後に見たのは、公爵家を勘当される時。除名され、勘当となったファウスティーナに父が最後に掛けた言葉は今でも一句一句確りと記憶に刻まれていた。
『……済まなかったね。気付いてあげられなくて』
最後の最後で過ちを犯した娘を、父はどんな思いで叱責し、除名し、勘当したのだろう。
子供の頃はとても大きかった父の背中は、あの時はとても弱く、小さかった。
――もし……もし、前の私は死んでしまったのなら、最後くらいは誰の迷惑も掛けなかっただろうか。……ま、公爵家から勘当されたんだもの、誰の耳にも入らないでしょうね。
ぼんやりと父の背中を見つめているとケインに声を掛けられた。また過去に耽っていた。ファウスティーナは気を取り直し、今度は動物を探しに行こうと提案をした。
「もしかしたら、羽休みをしている白鳥を見られるかもしれませんし」
「ああ、ファナは白鳥が見たかったんだよね。でも、見渡す限り白鳥はいなさそうだよ」
広大な新緑が広がる湖周辺に白はない。比較的近い場所でシトリンがスケッチをしているのが見えるだけ。がっくりと肩を落とした妹に落ち込まないのと頬を撫でた。頭は帽子を被っているから無しにした。
「今度また、父上に連れて来てくれるようにお願いしておくから、今日は魚観察にしよう」
「そうですね。そうだ! お兄様。私と勝負しませんか?」
「勝負?」
「どちらが先に大きい魚を見つけられるか勝負です!」
「ふふ。いいよ。じゃあ、ペナルティは何にしよう?」
「え、ペナルティ?」
「あった方がやる気が出るでしょう。そうだな……じゃあ、最近おやつの食べ過ぎが目立つファナは暫くおやつを制限しよう」
「!?」
――おやつを制限!?
1日の中で最も楽しみにしているおやつ。それを制限されると言われてはファウスティーナも本気にならないといけない。
自分から持ち出した勝負と言えど、ペナルティにおやつ制限を出されてファウスティーナは絶対に負けられないと闘志を燃やした。
勝負は言わずもがな、ケインが勝った。
帰りの馬車の中で暫くおやつを制限されてしまったファウスティーナは、始めにあった喜びが一気に悲しみに変わってしまった。苦笑するシトリンは、糖分を控え目にしたデザートをコックに頼んであげると告げた。
が、力ない返事をしたファウスティーナでした。
読んで頂きありがとうございます!
あっさりと終わらせました。
国王夫妻は次回で戻ってます。削除前でもありましたベルンハルドの誕生日パーティーもそろそろです。