拒絶されるだけの毎日でした
背中に感じる力強い温もりが誰のものなのか。ファウスティーナにはどうでも良かった。ただ、溢れて溢れて止まらない苦しみと悲しみを上塗りしてくれるこの温もりが消えないのなら、永遠に抱き締めてもらいたい。鼻孔を擽った香りに覚えがあり、涙で視界がぐちゃぐちゃになってよく見えないのに顔を上げた。瞬きをして涙を流すと痛ましい表情をして自分を見下ろす蒼と目が合った。ファウスティーナはこの瞳を知ってる。年に1度しか会う機会はないが何時だってファウスティーナを温かく迎えてくれる司祭の瞳。その司祭がどうして此処にいるのか、どうして自分を抱き締めてくれているのかはどうでもいい。
ただ、ただ、このままずっと抱き締めていてほしい。
心からの叫びを司祭にぶつけた。
背中を撫でてくれていた手の動きが止まった。急に襲った浮遊感を気にする余裕もない。
「……ヴェレッド」
「……なに」
「気が変わった。陛下には帰るって言っておいて」
「うん」
「それと――あの公爵夫妻に手紙を送っておいて。内容は君に任せる」
「……うん」
最後、一切の感情が消えた蒼に捉えられたヴェレッドは頷く。着ていた上着をファウスティーナの頭まで隠れるように覆い被せると来た道を早足で戻って行ったシエルを見届け、残ったヴェレッドは嘆息をし、同時に失望した。
「王様もだけど、公爵も何をやっているんだか……」
これから起こる騒動を何通りも脳内で予測しながらヴェレッドは王のいる執務室へと歩を進めようとする前に、地面に落ちている白いリボンが目に入った。ファウスティーナが頭に結んでいたリボン。それを無言で拾ったヴェレッドは無造作に懐に入れたのだった。
――一方、シエルに抱かれて移動するファウスティーナはシエルの服に顔を押し付け泣き声を必死で抑えていた。シエルに「ちょっとだけ我慢してねっ」と切羽詰まった声で言われると頷くしかない。扉の開く音がした。シエルが何処かの部屋に入ったのだ。
「ファウスティーナ様」
「……うう……あああっ…………」
「……沢山泣きなさい。辛い気持ちを涙で全て流しきるんだ」
白に統一された清潔だが、高級感のある部屋。真ん中に置かれている金の装飾がされたソファーに座ったシエルの膝に乗せられたファウスティーナは、悲しげに自分を見下ろすシエルの言葉に触発されまた声を上げて泣き始めた。
袖でファウスティーナの涙を拭っても、次から次へと大粒の雫が溢れる。
「ひんっ……う、ううぅ……!」
「よしよし、私がいるから思う存分泣いてしまいなさい」
「しざい……ざまああぁ……」
「うん。ずっと側にいてあげるから。今は泣いていなさい」
甘い薔薇の香りと司祭から伝わる、ファウスティーナを気遣う優しい温もり。止めたくてももう止まらなくなっていた。
「しさい、ざまっ」
「うん」
「わた、わたじ、家に、かえりたくありませんっ」
「帰らなくていい。もう2度と帰る必要はない」
「王太子、殿下の婚約者も、もういやです……!」
「……どうして」
「だって……っ、殿下は……殿下に……一生の汚点だって、お前は僕の一生の汚点って叫ばれて……っ、ずっと……殿下に好きになってほしくて、王太子妃になるために頑張ってきたのに……っ!!」
「――」
この場にヴェレッドがいれば、かけた言葉はシエルを落ち着かせるものだったろう。殺意と冷気を纏った気配が室内の温度を一気に下げていく。
唯一の救いは、王太子に投げられた言葉を思い出して服に顔を埋めたファウスティーナがシエルを見上げてないこと。
まだまだ上手に話せなくても司祭に、シエルに知ってほしくて嗚咽を交えながら話すファウスティーナはさっきよりもずっと強く抱き締められシエルを見た。
「……いい。今は泣いていなさい。ちゃんと聞くから。今は、君の心を守る為に辛いもの、要らないもの全部を流しきってしまいなさい」
「ぜんぶ……?」
「そう、全部」
「そう、したら、うう……、お家、に帰されますか……?」
「いいや。もう帰らなくていいよ。あそこは君のいる場所じゃないのさ、元々。君がいるべき場所へ帰ろう。そこには、君を苦しませ、悲しませる存在はいない」
苦しむ民を神の下へ導く司祭の声色がファウスティーナを包む。大きな安心感が生まれ、また泣き出してしまった。それでいい、とシエルは何度もファウスティーナの頭や背中を撫で続けた。
ーー時間にしてどれくらい経ったか。長く泣き続けていたファウスティーナは声は枯れ、目元や鼻は真っ赤に染まっていた。国王へ報告に行っているヴェレッドはまだ戻らない。それ以前にシエルが何処の部屋を使用してるかを知らないのでひょっとしたらしらみ潰しに部屋を探している可能性もある。彼ならその内行き着くだろうと心配していない。
シエルの膝に座ったままのファウスティーナは薔薇の甘い香りのするハンカチでそっと目元を拭かれていた。シエルの袖は涙を拭き過ぎて濡れて使えない。
「司祭……様……」
「うん」
話すなら今だとファウスティーナはゆっくり、ゆっくりと語り掛けるシエルに従って言葉を選んで話していった。
「私、小さい頃からずっと王妃になるのだからってお母様に言われて、お勉強もダンスもマナーレッスンも頑張りました」
「うん」
「難しいことを習っても、出来ても、お母様は『貴女は出来て当たり前なの。そんなことで誉められる筈がないでしょう』って……いつも……怒って……」
「……うん」
「……問題が分からなかったり……失敗したりすると、すごく怒るんです……」
誉める行為はしないのに、叱る行為だけは積極的に行われた。家庭教師に出された課題が分からなくて満足のいく点数を取らないと何故分からなかったのかと延々と問い詰められ、ダンスで失敗したら練習不足だと夕食の時間が過ぎても出来るまで練習させられた。
家庭教師が庇っても侍女が庇っても母リュドミーラの理不尽な怒りが鎮まったことはない。
しおらしく、大人しく言うことを聞くだけなら、リュドミーラも度が過ぎる怒声を発さなかっただろう。
「それで……エルヴィラはお勉強を休んだり、よく遊んだりしているのにお母様は何も言わなくて」
未来の王妃になるファウスティーナを極端なまでに厳しくする反面、末の娘エルヴィラにはとことん甘かった。砂糖菓子を与えるように甘やかしていた。きっとファウスティーナがお願いしたら怒り狂うであろう家庭教師との勉強を休む、お茶をしたいといった願いはエルヴィラ相手だと簡単に許していた。
何もしていない妹だけ可愛がられて、人の何倍も努力しているのに認めてくれないリュドミーラにファウスティーナが反抗するのは自然だった。
エルヴィラには何でも許すくせにと口答えした時の母の顔は忘れられない。図星を突かれ、顔を怒気で赤く染め普段の倍以上にファウスティーナを叱り付けた。怒りの母を周囲の使用人達が止められる筈もなく、また、ファウスティーナも更に反論したせいで余計火に油を注ぐ行為となった。途中、シトリンが来なければリュドミーラはまたファウスティーナを叩いていたであろう。
俯いて家に帰りたくない理由をゆっくりと語るファウスティーナは気付かない。背中を撫でてくれる手の持ち主が今どんな顔をして、気持ちで話を聞いてるかを。
「エルヴィラが羨ましかった……。だから、殿下が初めて来た時必死になって私を知ってもらおうとして……そこにエルヴィラが来たから追い払って……でもそれが失敗でした。私の自分勝手な話を聞いていく内、段々殿下の態度が変わっていっているのは気付いてました。焦っているところにエルヴィラが来たから……」
「そう……。私個人の意見だけど、責められるべきは君じゃない。公爵夫人だ」
「……」
「上を目指せと要求する割りには人一倍努力する君の頑張りを認めず、自分に似た末の娘をひたすら甘やかす光景を君に見せ続けていたんだ。当然、君の中に妹への嫉妬が生じる」
「嫉妬……」
「そう。どうして頑張る自分には何もくれないのに、何も出来ない、しない妹ばかりが可愛がられ愛されるのか、と。君がじゃない。誰にだって生まれる感情だ。決して間違った感情じゃない」
悪いのは公爵夫人であって君じゃない。
道に迷った幼子を優しい世界へ案内してくれる。そんな安心感のある声色で語るシエル。
大きな両手が小さな顔を包み、上へ向けた。男性なのに繊細な手肌。沁みも皺もない、雪のように白い天上人の如き美貌が慈しみの感情を浮かべている。
「私のところへおいで。君を傷付けるだけの場所にいなくていい」
「……本当に……帰らなくていいですか……?」
「いいよ。君が帰らなくても、あの公爵夫人は君の兄君……いいや、最悪妹君だけがいればいいのだから」
「でも……殿下は……?」
「……王太子のことは私に任せなさい。公爵夫人と同じで君の努力を認めようとせず、初めの印象だけを抱き続けて君を見ない王太子なんて――不要だよ。いらない」
「……」
最後の言葉を第三者が聞いたら卒倒していただろう。膨大な殺気と暗さが籠った声だったのにファウスティーナはこくり、と頷いた。
上着を頭に掛けられてから両脇を下から持ち上げられ、抱っこをされたファウスティーナはシエルの首に腕を回した。薔薇の甘い香りを嗅ぐだけで生まれる安堵は何か。何度も嗅ぎ続けていれば当然シエルに知れる。苦笑したシエルは空色の髪を撫でながら「気に入った?」と訊ねた。素直に安心する香りだと言うと「それは良かった」と笑って歩き出した。
しがみつくファウスティーナを上着越しから撫でながら城内を歩く。通り過ぎる人々はシエルに視線が釘付けとなる。
王国で最も美しいと謳われる天上人の如き美貌のシエルが大事に両手で何かを抱えて歩いている。誰であっても気にする。
教会の司祭であり、王弟である彼に声を掛ける者は誰もいない。
絡み付く視線を全くものともせず、内心荒れ狂って下手をしたら外に出て元凶にファウスティーナと同じ痛みと苦痛を味わわせてしまいたい感情を必死に抑えている。
馬車停に到着した。教会の紋章である姉妹の女神が描かれた馬車を目指す。
「早かったね」
馬車に凭れるようにして空を見上げていたヴェレッドはシエルへ向いた。
「うん。俺の好きなように言ったら、王様シブベリーを食べた時みたいな顔して頭抱えてたよ」
「そう。なら、教会へ帰るよ」
「はーいはい」
無駄口は中で聞くと遠回しに伝えたシエルに応えたヴェレッドは馬車に入った。シエルもファウスティーナを抱いたまま乗り込んだ。
「ジュード君。出発して」
「はい!」
馭者を務める神官ジュードは馬車を走らせた。
…城内が妙に騒がしくなってきていると思いつつ。
「――ふ、ふふ……ぼくの勝ちだね」
柱に隠れて様子を窺っていた蜂蜜色の少年は馬車が走り出すと姿を見せた。
「前はぼくが協力したんだから、今回はぼくの協力をしてね。運命に結ばれた相手を――心の底から愛せるように」
ね、と誰に向けたかは本人しか伝わらない同意を求めた少年――第2王子ネージュは、お付きの侍女が探しに来るまでずっと同じ方角を見続けていた。
「……出来るなら、ぼくが助けたかった」
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