もう嫌だ
王国が崇拝する姉妹神。
運命の女神フォルトゥナと魅力と愛の女神リンナモラート。2人の女神と同じ空色の髪と薄黄色の瞳を受け継ぐ唯一の女の子ファウスティーナ=ヴィトケンシュタイン。
生まれた時から未来の王妃になると決められていた。
――本人の意思は関係なく……。
「ひぐ……うう……ああああぁ……」
王城の人気のない裏庭で蹲って震えているのはファウスティーナ。フリルの沢山ついたピンク色のドレスは皺になり、頭に結ばれた白いリボンも緩くなって解けそうになっていた。
王妃教育が7歳の頃から始まると毎日のように王城に通い、終わると必ず婚約者の王太子の元へ会いに行った。彼に可愛いと思ってほしくて、自分を見てほしくて、毎日ドレスや髪型を気にした。侍女達に昨日よりも可愛くなるようにと毎日命じてお洒落をしても……1度も王太子ベルンハルドが微笑んでくれたことはない。
彼は何時だって、ファウスティーナの顔を見ると嫌悪を滲ませる。毛虫を見るような目で見られ、ベルンハルド様と呼ぼうものなら震え上がりそうな程冷たい声で拒絶された。
原因は初めての顔合わせが原因。肖像画でしか知らなかった婚約者にファウスティーナは期待してしまった。未来の夫となる人なら、自分だけを見てくれると。
ヴィトケンシュタイン公爵家の家族構成は、公爵である父と夫人である母。1歳離れた兄と妹。
父シトリンは子供達を平等に愛し、日々忙しくしても子供の為に時間を割いて遊んだり、時に勉強を見てくれる優しい父親である。
対して母リュドミーラは、自分の黒髪と紅玉の瞳を持った兄と妹を溺愛し、夫に似たファウスティーナには常に厳しさしかなかった。兄ケインも未来の公爵ということでファウスティーナと同じ歳から公爵としての教育が始まった。非常に優秀で他に類を見ない才能の持ち主であるケインをリュドミーラは誇りに思い。妹エルヴィラは、ケインやファウスティーナと違い、将来が決まってないからとのんびりとした教育方針を取っている。家庭教師との授業を嫌がっても許し、出来て当たり前のことが出来ると大きなことをやり遂げたようにとても誉めた。これがファウスティーナになると出来て当たり前だと突き放すのに。
ファウスティーナは王妃になる子。甘えてはいけないと、ずっと突き放され続けた。時にエルヴィラとお茶をしていたリュドミーラに自分もしたいと頼んでも、時に毎日の勉強が嫌になって家庭教師との勉強を休みたいと頼んでも、……全て甘えるなと叱られるだけ。
ちょっとミスをすれば、何故出来ないのかと延々と説教をされた。エルヴィラが出来なくても叱らないのに。
「あああああっ……あ……あああぁ…………」
叱られている最中、これがエルヴィラなら何も言わないくせにと反論したことがあった。図星を突かれたからか、リュドミーラからは強烈な平手打ちを食らった。側にいた家庭教師や侍女達が驚くほどの。叩かれた痛みと衝撃で呆然とするファウスティーナに怒鳴り付けるこの女の何処が母親なのかと何度も言いたくなった。
自分そっくりなエルヴィラにだけ甘くて、ケインは完璧な息子だから何も言わなくて。必死に母が求める公爵令嬢になろうと、王妃になろうと努力するファウスティーナには怒声と冷たさと時には暴力を振るうだけ。
何をしても許されるエルヴィラを好きになれる筈がない。向こうもリュドミーラに叱られ続ける姉を毎日見ているせいか、少し下に見ている節もあった。
それが顕著に出たのが……ベルンハルドが公爵邸を訪れた時だろう。
ベルンハルドに自分を知ってほしくて、庭師自慢の庭園に案内すると自分の話ばかりをした。自分がどれだけ公爵令嬢として、王太子の婚約者として相応しいかを。好意的な笑みを浮かべていたベルンハルドの表情が段々と面倒で嫌悪の滲むものに変化するのに時間は掛からなかった。焦ったファウスティーナが話題を探している時、何食わぬ顔でエルヴィラが来た。その日は王太子一行が訪れる日だから、彼等が帰るまで部屋にいるよう両親に言い付けられていたのに。
「ふえ……もっ……もう……嫌だああぁ……」
……ここからが全ての間違いだったのだろう。
冷静に対処すれば良かったのに。ファウスティーナは邪魔だからと追い払った。当然、普段から甘やかされ厳しい言葉に慣れていないエルヴィラは泣いて邸内へ走って行った。邪魔者がいなくなって安堵したのがいけなかった。改めてベルンハルドを見ると、彼は明らかな敵意が籠った瞳でファウスティーナを睨んでいた。実の妹を相手に何故そんな態度が取れるのかと詰められた。空気も読まずやって来たエルヴィラが悪いと弁解しても、既に与えてしまった印象はもう拭えなかった。
この一件のせいで完全にベルンハルドに嫌われてしまった。いくら王妃教育に励もうと、ベルンハルドに会いに行こうと。彼が心を開いてくれることはなかった。
ファウスティーナ自身の性格は王妃によって段々矯正されていった。何が善か悪かを教えられ、目の前の出来事をスルーする方法も教わった。王妃はとても厳しい人ではあるが王妃教育を終えると必ずこう言ってくれる。
『今日もよく頑張ったわね、ファウスティーナ』
特別な言葉でも声でもないのにファウスティーナは最初涙を流す程嬉しかった。王妃を困惑させてしまっても。リュドミーラなら、誉めてくれない、頭を撫でてくれない。
何度も心挫け、涙を流しそうになったこともある。乗り越えられたのは王妃のお陰。温かい声と手の温もりを求めてしまっていた。
「ああああああああっ……! えぐ……っ……あ……あああ……」
――青空の下、人気のない裏庭で泣き続けるファウスティーナの声を聞き付けて来たのだろう……
「――ファウスティーナっ!!」
絶世の美貌と謳っても可笑しくない若い銀髪の男性が必死な形相で現れた。彼の後ろには見事な薔薇色の髪を左襟足だけ肩に届く程伸ばした、こちらも美貌の男性がいた。彼も泣きじゃくるファウスティーナを発見し、言葉を失っていた。
小さな身体を蹲って尋常じゃなく泣き続けるファウスティーナを銀髪の男性は抱き上げた。
強く抱き締め、何度も何度も背中を擦ってあげても泣き止む気配がない。するり、とリボンが落ちた。
抱き上げられたと分かったのか、泣きながらもファウスティーナは顔を上げた。
「っ……」
大きな薄黄色の瞳からは大粒の涙が止めなく溢れ出ている。見ているだけで胸が苦しくなる痛々しい表情に男性は顔を歪めた。
「ううっ……うああああああああっ」
「どうしたのっ、何があったの」
ファウスティーナを泣き止ませようとしている男性の声は震えている。
衣服の汚れを気にせず、地面に座りファウスティーナを膝に乗せて泣き止むのを待つ。
時間にすると数分かもしれない。長く感じた時間が過ぎ去り、漸くファウスティーナは男性を司祭様と、途切れ途切れに呼んだ。
「し……さいさま……っ」
「うん、うん。落ち着いて。ゆっくりでいいから」
「わた、し……私……もういやです……」
「うん」
「ひん……もういやですっ……もう会いたくない……顔も見たくない……帰りたくない……!」
「……うん」
「ずっとっ……頑張ったって……! どうせエルヴィラには劣るもん……! 殿下もお母様も、私よりエルヴィラが大事なの……!」
「…………うん」
「何を……しても、見てくれないっ、認めてくれない殿下の婚約者から解放されたいっ! そんなにエルヴィラが好きならエルヴィラを王太子妃にしたらいいじゃない……!!!」
ファウスティーナが思いの丈を放つ分、男性の周囲から温度が消えていく。最後には氷点下に達した気がする。
「お母様だってっ、私にはいつも怒鳴って、叩いて、強要するだけなのに……ふええ……ひく……、エルヴィラには何も言わなくて、勉強が出来なくても怒らなくて、休んでも何も――」
「……あーあ……」
ファウスティーナが話し続ける分だけ、銀髪の男性の気配が冷徹な殺意と憎悪に染まっていく。薔薇色の男性はファウスティーナを痛々しく見守り、ずっと背を撫で続ける男性がこの後取る行動を何パターンにも分けてシミュレーションした。
読んでいただきありがとうございます。
お昼にもう一話更新します。