過去―彼女がいない後⑫続 願うのは貴方の幸福―
過去回、ネージュとベルンハルドメインです。
何故?
どうして?
部屋の前に待機する見張りに、誰が来ても入れるなと忠告しておくのをすっかりと忘れていた。
呆然としたベルンハルドの瑠璃色の瞳は、一点に集中していた。ネージュが抱くファウスティーナの人形に。
頭の回転を最高速度で回す。
残る時間はたったの数秒。否、数秒すらあるのかさえ不明だ。ベルンハルドが次を発する前に何かを言わないと主導権は得られない。
ずば抜けた思考能力と冷静さを持つ父なら、叔父なら、どうこの場を捌ける?
ファウスティーナの人形を抱き締める手に更に力を込めたところで、激しい痛みを訴える心を最奥に封じ込め――第2王子は昏く嗤った。
『やあ兄上。どうしたの? ぼくに何か用?』
『ネージュ……ソレは、なんだ……?』
ソレとは、ファウスティーナの人形のこと。
『なんだ、と言われてもね。見たままだよ』
貴方が断罪し、婚約破棄を宣言した元婚約者だよ。そう告げたネージュは、信じられないものを見るような目をするベルンハルドへ冷たく吐き捨てた。
『で? 兄上はぼくにどんな用事?』
『ネージュ、ソレは本当にファウスティーナなのかっ?』
『ぼくは兄上の質問に答えたんだ。次は、兄上がぼくの質問に答える番だよ。それとも用もなく来たの?』
『答えろネージュっ、本当にファウスティーナなら、何故……』
『……何故、居場所を知っていながら言わなかった、とでも言うつもり?』
『っ』
図星を突かれ唇を噛み締めた。最奥に仕舞った心の痛みは毒のように全身に回って、とても痛い。
『逆に聞くよ。兄上は、ファウスティーナの居場所を知ってどうするつもりだったの?』
『……』
『……答えられないの? じゃあ、答えを持ってるぼくが言ってあげる。エルヴィラ嬢の不安を消してあげる為でしょう?』
“運命の恋人たち”と周囲に祝福されていたのだ。エルヴィラがベルンハルドの側にいると必ず危害を加え、寵愛を得ようと必死に足掻いていたファウスティーナのこと。公爵家を勘当され、追放されても王太子に執着して必ずエルヴィラを害そうとする。恐怖に怯える大切なエルヴィラの為にファウスティーナを見つけ、殺す為に探しているだけ。
可哀想に、と人形の髪を恋人を労るように優しく撫でた。ネージュが語ったのは全部出鱈目、妄想の吐き出し。エルヴィラはファウスティーナに怯えていない。そもそも、殺害計画が実行されるずっと前にベルンハルドが気付いて、あっという間にファウスティーナは公爵家を勘当後追放となったのだ。実感がないと言っても過言ではないだろう。
だが、王太子が元婚約者を執拗に捜索している理由は、何も知らない周囲ならこう考えるだろうという例えで語った。
ネージュに灯りのない紫紺色の瞳を向けられて、吐き捨てられたベルンハルドは『違う!!』と声を荒げた。
自分の心を更に無視してネージュは冷たい眼をぶつけた。
『何が違うの? あれだけ彼女の前でエルヴィラ嬢を好きだと、愛していると囁いて。彼女が来ると虫けらを見るような目で見て傷付けてきたくせに。兄上がファウスティーナを探し出して、見つけて、することなんてそれくらいしかないだろう!』
生まれて初めて声を荒げた。声を大きく出すというのは、想像以上に体力がいるのだと初めて知った。
『エルヴィラ嬢に夢中で彼女を1度たりとも見ようとしなかった兄上に、彼女を探す資格なんてない!』
『ならネージュっ、お前はファウスティーナをずっと見ていたと言うのか? なら、ファウスティーナが私をどう見ていたか知っている筈!』
『どうって……』
言われて貴族学院に在籍していた時の記憶が蘇った。
ベルンハルドの側にエルヴィラがいない時、ファウスティーナの薄黄色の瞳は……心底、どうでも良さそうな色でベルンハルドを一瞥すると会釈をし、その場を去る。
逆にエルヴィラがいたら、婚約者でもないくせに近付くなと喚き、身近に冷たい飲み物があれば遠慮なく浴びせていた。
学院ではなく、他はどうだっただろうか。
夜会でのエスコートは常に兄のケインが担当していた。ファーストダンスだってそうだ。デビュタントの日ですら、エスコートもファーストダンスの相手はケインが務めた。本来、婚約者のいる令嬢は婚約者がエスコートをし、ファーストダンスを踊るのが常。……ベルンハルドにエスコートをされているところも、ファーストダンスを踊っているところを1度も見たことがない。エルヴィラがいたらきつく当たって、……そしてベルンハルドが庇ってファウスティーナは悪役となって追い払われていた。
他の場所も同じ。
ベルンハルドだけなら、ファウスティーナは殆ど彼をいない者扱いをしていた。いても、最低限の礼儀しか見せなかった。
エルヴィラがいる時しか、ファウスティーナは一切反応を示さなくなった。
『はは……』乾いた笑みを零したネージュは人形の頭に口付けを落とした。余計ベルンハルドの癪に障ると確信しながらも。
『そうだね……彼女は、エルヴィラ嬢がいなければ兄上のことなんて透明人間も同然の態度だった。……当然だよ、彼女は態とそうしていたんだから』
『っ……』
『ぼくは何があったのか詳しくは知らない。ただ、叔父上に――教会に2度目の保護をされた時から、彼女は随分と変わっていた。これはね、ケインも言っていたんだ。まず、公爵夫人にも兄上と同じ態度を取っていたんだって。唯一の違いは、公爵夫人の側にエルヴィラ嬢がいても何の反応もしなくなった。必要なら挨拶もするし、会話もする。それだけになったって言ってた』
2度、3度と同じ生を繰り返しているネージュは知っている。ベルンハルドが何を言い放ってファウスティーナの心に深い傷を付けたかを。本当の父親であるシエルがどれだけ怒り狂っていたかを。
王太子でなければ、ネージュが病弱じゃなかったら、誰にもバレずに殺されていただろう。それを易々と実行出来る恐ろしい術をシエルは持っている、シエルの代わりに担える者もいる。
公爵夫妻はよく無事でいられると、何時だったかケインに漏らした。彼は、本気で殺されかけたことはありますよ、と普段通りの冷静な表情で言ってのけた。
その時の詳細を聞き、頬が引き攣った。
『兄上……兄上は、ケインに何度も言われていたよね? エルヴィラ嬢に近付くな、ちゃんとファウスティーナを見てって。ファウスティーナが公爵夫人にエルヴィラ嬢と常に比べられていたと知ってた?』
『……、……知ってる』
何拍か間を開け、苦しげに紡がれた言葉に紫紺色の瞳が軽蔑の色を宿した。
『知ってたの? 知ってて、妹を虐げる強欲で性悪令嬢だと言い続けていたの?』
『……お前には分からないだろうな、ネージュ。何度話そうとしても、機会を設けようとしても、頑なに拒み続け、私の話に一切耳を傾けないファウスティーナを』
『……』
『ファウスティーナは私を避け、逃げ続けた。エルヴィラがいて漸くファウスティーナは私を見た。……だがそれも、周囲に誰かがいる時だけだった』
『!』
強く握り締めた拳から血が少量だが流れていた。黒い絨毯に吸い込まれた血は軈て、同じ色になって染みを広げた。
意外なベルンハルドの言葉。こればかりはネージュも知らなかった。何故なら、常にエルヴィラがいる時だけベルンハルドに絡んでいたというのに。同時に納得した。そして、ファウスティーナに恐らく入れ知恵をしたであろう相手に戦慄する。
『私とエルヴィラ2人きりの時は、私だけ、いや、それ以上の無感情な瞳で見られた』
『……それはそうだろうね。周囲の目がないと、エルヴィラ嬢は姉に虐げられ、王太子に守られるか弱い妹の印象を植え付けられないから。それだけ嫌だったんだろうね……兄上の妃になるのは』
『っ、ケインやお前はファウスティーナを見ろと私に言っていたな。……見ていたさ。全部。
昼食は毎日人通りのない裏庭で、普段は1人なのにライバルの筈がアエリアが見兼ねて側にいた。徒歩で帰るのも多かったな。けど、その時は必ず教会の神官と一緒で……』
その他にも常に見続けていないと分からない日常部分を語られた。先程とは違う意味で戦慄した。
変わっていない。どんな時も変わらない。ファウスティーナが気になり出してから常に監視をさせているところは。これもあったので誘拐された時真っ先に駆け付けられたのだろうが……。
『兄上……今更ね、何を言った所で現実は変わらないよ。エルヴィラ嬢が王太子妃になった。これが全てだ』
『エルヴィラを王太子妃にするつもりは更々無かったっ。ファウスティーナのエルヴィラ殺害計画が全部を台無しにしたんだっ……!』
『台無し……?』
縋るような瞳がネージュと対峙する。
『正式に王太子妃になってしまえば、もう逃げられないと……そう思っていたのに』
『兄上はエルヴィラ嬢を愛しているんだよ? どうしてそんな話をするの』
『私が愛しているのは――……ファウスティーナだけだ……』
『――――』
体の何処から湧き上がるのか。
吹き出した後、盛大に笑いを上げた。止まらない。
突然の哄笑に驚くベルンハルドは『ネージュ……』と引き気味に呼ぶ。
笑いが止まると昏い瞳がベルンハルドを映した。
『愛していた? ふふふ、冗談は寝てから言ってよ。
ねえ兄上、とても面白いよ。
好きだった? 愛していたと今更どの口が言ってるんだか』
嗤っているのに、声色は愉しげなのに、言葉に全く温度が籠っていない。
ベルンハルドの気持ちも理解出来る。最初に悪かったのはファウスティーナだ。貴族令嬢特有の傲慢で我儘な性格を思う存分発揮してしまったが為にベルンハルドに嫌われてしまい、虐げているエルヴィラに愛情を持っていかれた。厳しい王妃教育を受けていく内、自分の何が悪かったかを素直に認め王太子の婚約者として相応しくあろうと努力し続けていた。何をしても妹優先な母親のせいで、初対面の印象でファウスティーナを嫌うベルンハルドのせいで、全て無駄になった。
見せ付けるように、人形の顔を見せるべく体の向きを変えた。
ベルンハルドが体を強張らせたのが見ただけで分かった。
『馬鹿な兄上。そんな兄上がぼくは大好きだよ。だって、最後はこうやって必ず兄上はぼくにくれるんだ』
無機質な薄黄色の瞳と見つめ合い、顔を青ざめていた。貼り付けた微笑みしか浮かべないファウスティーナのこの姿を、本物と勘違いしてもしょうがない。震える足で此方に歩き出した。『来ないで』と鋭い声で牽制した。
歩みを止めたベルンハルドにファウスティーナとの仲を見せ付けた。
『ほら、君も兄上に感謝しなきゃ。兄上が君を捨てたから、ぼく達はこうして愛し合えるんだ』
ファウスティーナは何も発しない。薄黄色の水晶玉を絶望に染まったベルンハルドに向けているだけ。
ネージュはファウスティーナの人形をベッドにそっと寝かせて、自身は立ち上がって青褪めた表情で立ち尽くすベルンハルドの側まで来た。ふわりと綺麗に微笑んで見せた。
『兄上のファウスティーナに対する気持ちは愛情じゃない。只の怒りだよ。今まで見向きもしなかった相手だけれど、下に見ていた相手に拒絶された怒りが兄上を支配しているんだ』
『違う……』
『ぼくは兄上が好きだよ。幼い頃から王太子として努力し続け、病弱で中々外に出られず退屈しているぼくの為に少ない時間を使って遊んでくれた。ぼくは兄上に幸せになってほしいんだ』
何度人生を繰り返しても偽りのない、ネージュの真っ白な願い。
『だから――ね?』
王妃譲りの美しい微笑を浮かべ、部屋の奥に向かって声を上げた。ネージュの声に応えた見張りが部屋に入って来た。ベルンハルドがハッとなった時にはもう遅かった。
『兄上の顔色が優れないんだ。すぐに部屋で休ませてあげて』
『はっ!』
『! 待て、私はっ』
護衛の騎士は誰が見ても具合の悪そうなベルンハルドの体を支え部屋を出ようとした。ネージュの名を叫んで拒むベルンハルドの耳元に顔を近付けた。
『ファウスティーナは、もう兄上のものにはならない。だって、ぼくの可愛いお人形さんになったのだから』
『っ!!』
『兄上にはエルヴィラ嬢がいる。ぼくにはファウスティーナしかいない。体から好きになるってあるでしょう? 今の調子でエルヴィラ嬢を抱き続けていたら、ファウスティーナのことなんてすぐに忘れるよ』
『ネージュ……!!』
『連れて行って。それと、侍女に鎮静作用のあるハーブティーを作らせて』
『はい!』
騎士に連れられたベルンハルドはずっとネージュの名を叫び続けた。外に出て、扉を閉めても声は暫く止まなかった。静かになった頃、隣室に移動し、真ん中のカウチに寝転んだ。
眦から頬へ流れ落ちた涙はカウチを濡らす。
無関心になれたら楽になれるか。ネージュにとってはただ1人の兄。不幸になってほしくない。ベルンハルドがファウスティーナを忘れて幸せにならないのはどうしてか、と何度も考えた。考えた末に導き出した、彼の幸せを。王太子としてエルヴィラを好きになったら良いのだ。
ファウスティーナに抱く恋心を完膚無きまでに叩きのめす。そうしてやっとベルンハルドはエルヴィラを愛し、幸福を得る。ネージュの言った通り体から始める関係、というのもある。殆どが不幸な結末で終わるが、あの2人はそうならない。エルヴィラはベルンハルドを慕い、好いている。国中を探してもエルヴィラ以上にベルンハルドを好きな女性はもういない。
『エルヴィラ嬢を好きになって兄上。そうしたら、兄上はこの国で最も幸福な男になれるんだから』
運命の女神フォルトゥナと魅力と愛の女神リンナモラートに祝福された、稀有な夫婦。
幸福にならない、筈がないのだ。
翌日、侍女のラピスから予約していたあるものを持ってネージュは昼前に王城をこっそりと馬車を使って出発した。
半年振りに会う、どんな宝石や花にも負けない魅力溢れる笑顔が似合う彼女に会う為に……。
*ー*ー*ー*ー*
読んで頂きありがとうございます。
次回本編に戻ります。お茶会も終わります。後3話か4話でこの章も終わります(多分)




