過去ー彼女がいない後⑫ 人形の意義ー
長くなりそうなので区切りのいいところまで。
快晴が続いていた空は鉛色の雲に覆われ、その内雨でも降りだしそうな気配を漂わせていた。そんな空の下、城内を静かな足取りで歩くネージュの後ろについて回る侍女のラピスが『殿下』と発した。
『殿下に頼まれていました例のモノは、明日には出来上がると連絡を頂いております』
『そう。なら、明日届き次第出発するよ』
『畏まりました』
『後は部屋に戻るだけだから、ラピスは下がっていいよ』
『何か、お飲み物を届けましょうか?』
『いや、喉は乾いてないからいらない。必要になったらまた呼ぶよ』
じゃあね、と前を向きながら手を振るネージュに立ち止まったラピスは頭を垂れた。1人でいたいと遠回しに告げたネージュの意思を汲み取ったのだ。
ネージュは物分かりの良いラピスに感謝しつつ、自室に戻った。更に奥の寝室に入ると寝台に腰掛けている存在の元の傍へ行った。貼り付けた微笑みを浮かべ、瞬きすらしないソレの隣に腰掛け抱き締めた。
『ねえ、聞いてよ。君の妹君はこの間の誕生日パーティーがあってからずっと泣いていたんだ』
手入れが行き届いた空色の髪を指で梳きながら語り掛けた。
『ぼくは兄上にエルヴィラ嬢を好きになってほしくて、パーティーの最中薬を盛った。時間が経つと発情して、何度果てても情欲が止まらない薬を。可愛いお姫様の恋愛しか知らないエルヴィラ嬢には、酷だったみたいでね』
王太子妃の誕生日パーティーの翌日。
いつもなら、朝決まった時間に起きて寝室を出て来るのに、昼前になっても夫妻は出て来なかった。大変仲の宜しいことだと、世話役を担う侍女達は顔を赤らめていた。
昼になった辺りで漸くベルンハルドが出て来たらしいのだが……。
ラピスに話を聞いたネージュは、興味のない様子でそう、としか返事をしなかったが内心予想以上の薬の効果に驚いた。
『兄上はずっとエルヴィラ嬢を抱いていたみたい。それもビックリなことに初めて抱いたんだって』
周囲から見ても“運命の恋人たち”は互いを愛し合っている。初夜で身体を繋げたとばかり思っていた。実際、ベッドシーツには夫婦の契りの証が染まっていた。聞くとベルンハルドが自身の手を切って演出しただけらしかった。真相は、緊張と疲労でエルヴィラはすぐに眠ってしまったらしい。ベルンハルドはそれを咎めず、初夜を済ませたと嘘の証拠を残した。何も知らない者なら、愛しい妻を庇ったと済ませるのだろう。が……
ネージュは馬鹿だと吐き捨てた。
抱いている最中、きっとベルンハルドはファウスティーナの名を出してしまうと恐れたのだろう。エルヴィラとファウスティーナは外見も身体付きも全然違う。声だって似ていない。重ねる要素は何1つない。ベルンハルドが何を思ってエルヴィラを抱かなかったか知らない、多少の興味はあれど聞く程じゃない。
しかし、今回ネージュが薬を盛ったお陰で改めて夫婦となれた。ラピスによると、寝室から出て来たベルンハルドは虚ろな相貌でエルヴィラの世話をするよう侍女に言い付けると、自身はそのまま出て行ったらしい。
ネージュは誕生日パーティー翌日のベルンハルドと昼過ぎに出会っていたが、特別変わった様子は何もなかったように見えた。
エルヴィラはそうではなかった。侍女が寝室に入ると殆ど気絶した状態でベッドにいたらしく。長年働いている侍女ですら、顔を赤らめる程激しい行為の後があったとか。
『目を覚ましたエルヴィラ嬢は泣いたんだ。とても怖かったって。優しい兄上が何処にもいなかったって』
薬で理性の鎖を切られた男なんて、皆そんなものだ。
どれだけ高潔で清廉だとしても。
だからネージュは慰めてやった。無理をさせたからと数日部屋を訪れない夫を待ちながらも、恐怖が消えないエルヴィラの部屋を訪れて告げた。
――ねえ、君は王太子妃なんだよ? 何でも仕事をアエリア嬢がすると思ってるの? 王太子妃にしか出来ないことなんだよ、王太子の子を生むのはね
そんなことはないのだがアエリアが断固拒否しているし、ベルンハルド本人もアエリアを抱く気はない。以前、夜に部屋を訪れると報せたがそれはアエリアと夜を共にする為じゃない。自身が断罪し、婚約破棄を突き付けた元婚約者について聞き出そうとしただけ。
シーツにくるまって泣いていたエルヴィラがそっと顔を出した時無理矢理シーツを剥がした。悲鳴を上げエルヴィラや非難の声を上げた侍女達を睨んで黙らせた。
――それとも君はいいの? “運命の恋人たち”、“祝福された花嫁”と周囲に認められている王太子妃が王太子の子を生めず、側妃が子を生んでしまうのは
――そ、そんな……っ、嫌ですっ!
――なら、部屋に閉じ籠ってないで、泣いてばかりいないで外に出なよ。第一、一緒に寝ていながら初夜で何もしていない方が問題だよ。ほら、君達も。王太子妃を兄上好みに仕立ててあげてよ
ネージュに命令された侍女達は、エルヴィラが拒まないのもあって準備を始めた。ネージュは用はないとばかりに部屋を出た。
ラピスに次の日から情報収集を頼んだ。耳に入る情報は思い通りとなった。あれから毎晩ベルンハルドがエルヴィラを求めていると。ずっと隠し通し、守り続けていた最後の壁が呆気なく崩れ自棄を起こしているようにも見える。
それでいい。
『そのまま身体を好きになって、最後に本人を好きになったらいい。元婚約者のことなんか気にならなくなるくらい』
ネージュは抱き締めているソレ――ファウスティーナの人形を膝に乗せた。
精巧に作られた人形は一見するとファウスティーナ本人に見える。何故こんな人形を秘密裏に作らせたのか。
ネージュ本人、どうしてこんな人形を欲しがったのか分からない。4度繰り返した人生で初めてだった。
『最初の君は兄上に捕まってね……。ははっ、妻がいながら他の女を欲しがる。まるで、話にしか知らないお爺様みたいだと思った』
女性好きを除けば賢王と名高い先王。外見は紫がかった銀糸に蒼の瞳の、シリウスやベルンハルドとそっくりな美貌の王だったとか。
祖父は王妃を愛していなかった。愛していたのは、ネージュやベルンハルドの叔父にあたるシエルの母だけ。平民だったシエルの母が王のお手付きとなった。公爵令嬢であった王妃のプライドはとても高く、平民の娘に夫の寵愛を奪われたと激しい嫉妬に駆られたと聞く。
『叔父上の母君は、叔父上を生んだと同時にお爺様がお婆様の手が届かないよう城から逃がした。その代わり、叔父上を特に大切にしていたって聞いた』
これは全部、2度目や3度目の際シエルから聞かされた話だ。
祖母に同情の余地はある。幼い頃から王妃となるべく育てられたのに、想いを寄せる婚約者は一切自分を愛さず他の女性とばかり愛を育む。優秀な王子を生んでも見向きもされず、他の愛する女性との間に子を儲けたと聞いた時は、きっと怒りで発狂しても可笑しくなかった筈だ。
空色の頭にそっと口付けた。
『でもね、父上は蔑ろにされてはいなかったよ? お爺様は父上のこともちゃんと愛していたんだって。まあ、父上にとっては母を悲しませ、父の愛情を奪う叔父上が憎かったろうね。これはしょうがないよね。叔父上を拒絶するのもしょうがない』
ただ、これも聞いた。拒絶した後、すぐに接触して来ようと当時シエルがいた後宮に何度も足を運んだとか。
これについて、シエルは意味不明・理解不能と掲げ逃げ回っていたらしい。
『そういう所は、兄上が父上に似たんだね……』
後々になって執着するなら、最初から大事にすればいいものを。
例え最初の印象が悪くても、立場的に仕方なかったとしても、取り返しのつく態度と言動を貫けばいいものを。
出来るなら苦労しないか、とはあ、と特大の溜め息を吐いた。
ふと、ネージュは『1個だけ、4度繰り返しても分からないままなことがあるんだ』と語り掛けた。
シエルが幼少の頃、貧民街まで足を運んで浮浪者に襲われそうになった所を助けてくれたからと後宮に連れて来たヴェレッドのこと。ネージュは過去、興味本位で彼を調べようとした。しかし、すぐに気付かれてシエルと何故かシリウス2人に大目玉を食らった。調べられそうになっていたヴェレッドは逆にけらけら笑っていた。
特にシエルの、微笑みながら人の心臓を抉りそうな素敵な激怒の気配は忘れられない。思い出すだけで心臓が苦しく、胃が痛くなる。宰相のマイムが、困った異母兄弟が同席する度に胃を痛めている気持ちを身を以て思い知った。
『探っちゃいけない人なんだね。未だに、詳しい出自を全然知らない』
どの人生でも、調べようものならシエルとシリウスから大目玉を食らうのでやらない。
止めた止めた、と首を振ったネージュはぎゅっと人形を強く抱き締めた。
『ぼくは君が好きだよ。最初は兄上に捕まってしまった。だから2度目は、君を兄上の手が届かない場所まで連れて逃げた。とても幸せそうな君を見てぼくも幸せになれた』
しかし、ある時気付いたら幼少期に戻っていた。何故、どうして、と混乱した。
3度目も1度目、2度目と同じ婚約破棄までの流れでファウスティーナは公爵家を勘当された。何故戻ってしまったのか知りたくて、次はネージュは裏から手を回すだけで逃亡に手を貸さなかった。
ケインは薄々原因に気付いていたのだろう。3度目はシエル達の所に逃がし、ネージュはファウスティーナに会いに行きつつ城に残った。
そこで知った。兄が、ベルンハルドがエルヴィラといても全然幸せそうじゃないと。元から愛している振りをしていたのは知っていた。結婚してしまえばもう逃れられない。腹を括るどころの話じゃなかった。どうしたら良いかケインに相談しても、ベルンハルドがエルヴィラを好きにならないとどうしようもないと首を振られた。
ベルンハルドがファウスティーナを吹っ切れるように嘘の話をした。
『君は公爵家を勘当後、ケインの手配した宿で客を装っていた犯罪者に襲われて酷い方法で殺されたと言ったんだ』
話を真実と思わせる為に、それっぽく細工した服まで用意した。
結果――今4度目を迎えているのが結果だろうか。
『君はちゃんと叔父上の所で幸せにしていたよ。まあ、貴族学院入学前までは叔父上に保護されていたんだ。楽しくない筈がない』
2度、3度繰り返して知ったのは、ファウスティーナだけじゃなくベルンハルドにも幸福になってもらわないといけないということ。
ベルンハルドのことは決して嫌いじゃない。本心から言える気持ち。幸せになってほしい。
『……兄上を幸せにするには、エルヴィラ嬢を好きにならないといけない。心にファウスティーナがいても、それを埋めるようにエルヴィラ嬢を求め続けていたらきっとその内……』
人形の頬に手を添えた。人間の温もりはない。固い感触しかない。見目は同じでも中身は全く異なるもの。
例え本物じゃなくても、側に置いていくと心が落ち着く。
どうせ誰も来ないなら、暫くはこうやって人形を抱き締めていよう。
……そう抱いたのが間違いだった。
『――……ネージュ?』
『っ!?』
有り得ない声色が聴覚を刺激した。
弾かれたように顔を上げたネージュの視線の先には、信じられない物を見る瑠璃色の瞳が場違いな光を放っていた。
読んで頂きありがとうございます。
次回はちゃんとネージュとベルンハルドの回です。