38 2つの香り
8歳の誕生日を迎えた夜、就寝中に誘拐され。
起きると自分の部屋ではない別の場所で寝かされ、一緒に捕まっていたらしいヴェレッドの説明で誘拐された上に2日間眠りっぱなしと聞き。
これからどうなることかと不安一杯になっている所に助けが来た。
「濃い1日だったわ……」
明かりが消えた客室のベッドの上――
ベルンハルドと遅い夕食を取り、食後のジュースを貰って会話をした所まで覚えている。ふと目が覚めると質のいいベッドに寝かされていた。
2日間眠り続けた反動か、ずっと瞼を閉じていても眠れないファウスティーナは今日の出来事を頭の中で繰り返し思い出していた。
貴族の子が誘拐されれば、大抵の未来はろくでもないものばかり。その中でスピード救出されたファウスティーナは奇跡に近いレベルで運が良い。誰かに言われなくても自分自身そう思う。ファウスティーナは上体を起こしてベッドから降りた。暗闇の中苦戦しながらも靴を履き、両手を前方へ突き出し確認しながら歩いた。
壁に手が触れた。ゆっくり、両手を上にして歩いていくと手が固い物に触れた。握って下ろすと扉が開いた。
「……」
「……」
外への扉を開くと、キャンドルランタンを持ったシエルが目を丸くしてファウスティーナを見下ろしていた。揺れる赤い光に照らされたシエルの銀髪は水分を含んでいた。凝視すると肌も若干赤い。着ている服も眠る前見た白と青を基調とした衣装ではなく、黒いスラックスと白いシャツを着ている。ボタンを外し過ぎやしないとかと抱いたのはスルー。
(お風呂に入ってたのかな)
呼吸をした拍子に入った花の甘い香り。間違いなくお風呂に入っていた。きょとんと見上げるファウスティーナと目線が合うようにシエルは膝を折った。肌蹴たシャツの間から窺える肌が白いなーと感想を抱くもこれも置いておく。
「どうしたの? 眠れない?」
こくりと頷く。
「ヴェレッドによれば2日間眠り続けていたと言っていたしね、十分眠って睡眠は必要とされていないようだ」
「どうしたら眠れますか?」
「人間、疲れていないと案外眠れないものだよ」
外はまだ真っ暗。昼間みたいに外で遊び回って体力を使用する術がない。
シエルと距離が近いからか、甘い香りは更に強くなった。とても良い香り。ファウスティーナが言うとシエルは「あげようか?」と訊ねた。
「え」
「特別高価な物でもないから、あげるよ」
「で、でも、私に香水はまだ」
「ああこれ、入浴剤だから好きな時に使ったらいいよ」
「入浴剤……」
やっぱりお風呂に入っていた。銀糸の先から雫がぽたりと落ちる。タオルできちんと拭かれてないのか。
「風邪引きませんか?」
「うん? ああ、髪が濡れてるから? これくらいで風邪を引く程繊細な身体じゃないよ。そうだファウスティーナ様。眠れないなら、私と一緒に来るかい? どうせ後1、2時間で朝日は昇る」
朝がくるまで遊ぼうと誘われた。瞼を閉じて横になっても眠れないなら起きていようと、ファウスティーナは差し出された手を握った。
シエルは立ってファウスティーナの手を引いて、キャンドルランタンの灯りを頼りに屋敷内を歩き出した。
「あの、司祭様はずっと起きていらしたのですか?」
「2時間程前に目が覚めたんだ。目を閉じても寝れないから、ヴェレッドを起こして遊び相手になってもらっていたんだ」
「……起こしたんですか?」
「起こしたよ」
寝ていたのを叩き起こされたヴェレッドが気の毒になった。
キャンドルランタンを頼りに歩き、途中階段を降りて広間に出た。右の道へ進み、ある部屋の前に止まった。ファウスティーナの手を離したシエルが扉を開けた。
「あ」
室内は明かりがついていて、中央に置かれている二人掛けのソファーの肘掛けに頭を乗せてヴェレッドは寝ていた。王国でヴェレッドと同じ髪や瞳を持つ人は多分いない。魅惑的な薔薇色の髪に見入っていると白い瞼が震えた。重たい動きで開かれた奥には、髪と同じ色の瞳があった。ファウスティーナと寝惚けた眼で見つめ合い、視線が後ろへいくと面倒臭げに上体を起こした。小さな欠伸をしてシエルへ向いた。
「寝起きの人間になんて顔するの」
「うん? 何のことかな?」
「はあ、すっとぼけるならそれでいいよ。で、君は何?」
急に話題を振られ、心の準備をしていなかったファウスティーナは慌てた。必死に言葉を探せば「困らせないの」とシエルがヴェレッドを窘めた。はーいはい、とどうでも良さげに返事をし、自然の香りが漂いそうなウッドテーブルへ手を伸ばした。ガラスのポットを引き寄せ、蓋を開けて中のクッキーを摘んだ。
眠そうな顔でクッキーを食べるヴェレッドからは清潔な石鹸の香りがふわりと舞った。ヴェレッドと遊んでいたとシエルが話していたので、彼もそれでお風呂に入ったんだろうと納得した。
ヴェレッドにクッキーを差し出された。
「食べる?」
「うん」
クッキーを貰い、パクリと食べた。
甘さが控え目で普通のより固いクッキーだった。固い分サクサクとした食感が楽しめる。ファウスティーナの綻ぶ顔を美味しいと読み取ったヴェレッドは「はい」とまたクッキーをファウスティーナに差し出した。
部屋の隅で紅茶の準備をしていたシエルは、ティーポットとティーカップを3つ、トレイに乗せて2人の元に来た。
「気に入った?」
「はい! とても美味しいです」
「そう。良かった」
トレイをウッドテーブルに置き、ファウスティーナの背中をそっと押してヴェレッドの隣に座らせた。シエルは向かい側に座った。慣れた手付きで紅茶を注ぐシエルを不思議そうに見上げた。
「司祭様は自分で紅茶を淹れるのですか?」
「大抵のことは自分でやりたいからね。はい、ファウスティーナ様」
「ありがとうございます」
差し出されたティーカップをソーサーと共に受け取った。
何不自由なく育った公爵令嬢の自分が紅茶を淹れる機会はない。
ふと、こんな事を考えた。
(ベルンハルド殿下と婚約破棄をして、家を出たら自分で生活しなきゃいけないのよね? だったら私も紅茶くらい淹れれるようにならないといけないよね!)
屋敷に戻ったらリンスーに紅茶の淹れ方を教わろうと上機嫌で紅茶を飲んだ。
口に含んだ瞬間広がるフルーツの甘い味。深く味わうことでフルーツの甘さだけではなく花の仄かさな甘味も感じられた。
「美味しい! 口にお花畑が出来たみたい!」
何処の銘柄か聞いて、シトリンにお願いして取り寄せて貰おうと決めた時だった。
室内の空気が変わった気配を感じ、訝しげに前を向いて――ぎょっとした。
「……」
シエルはティーカップを持ち上げた体勢のまま、呆然とファウスティーナを見つめていた。蒼の瞳は固定されたように、ただ一点――ファウスティーナだけを見ていた。困惑するファウスティーナを助け、
「……シエル様」
シエルを我に返らせたのはヴェレッドの静かな声色。ハッと、意識が違う世界へ飛んでいたシエルはファウスティーナに困った笑みを浮かべ見せた。
「あー……何でもないよ。気にしないで」
「は、はい」
「そんなに気に入ったの? この紅茶」
「は、はい、屋敷でも飲んだことのない味だったので」
「そう……。……じゃあ、帰る時この紅茶も持たせよう」
「良いのですか?」
「いいよ」
先程の様子を気にしつつ、戻ってからも口内にお花畑が広がる紅茶が飲めて喜ぶ。
幸福な表情で紅茶を見つめ、味わうファウスティーナは、シエルの吃驚なクッキーの食べ方に目を剥いた。ガラスのポットから取り出したクッキーを半分に割り、それを紅茶につけて食べていた。
自分がしたら間違いなく叱られる。いる相手によって怒り方は様々だろうが怒られる。
瞬きを繰り返せば、隣の彼は「相変わらず変な食べ方」と少量の毒を吐いた。慣れているシエルは気にせず、もう半分のクッキーも紅茶につけて食べた。
「意外に美味しいんだよ、これ。子供の頃、何気なくやってみたら存外合うんだよ」
「お行儀が悪いって言われないの?」
「ふふ。こういうのは、目を盗んでやるのが良いのだよ」
「あっそ」
(確かに)
今よりももっと幼い頃から毎日厳しい淑女教育を受けているファウスティーナも、教育係や侍女達の目を盗んではちょっとした悪戯をしていた。バレては怒られていたが楽しいので止めなかった。その内、悪戯の話が母リュドミーラの耳にまで入り大説教をされた。自分が悪いと分かっていたので反論しなかったが、家庭教師が止めていなければ、大説教は長時間コースへと進んでいただろう。
その点、エルヴィラが家庭教師との勉強をサボっても黙認していたのだから、名前のない虚しさとどうでもいいという感情が芽生える。
嫌な予感を抱いた。
(今回の誘拐でベルンハルド殿下との婚約は解消されるだろうけど、そうなったら何を言われるだろう。私は寝てたのを誘拐されたから、お小言とかなしがいいなあ)
私室で寝てて、起きたら誘拐されていただけでベルンハルドとの婚約が消えたと怒り狂われないか心配になってきた。それだけじゃない。スピード救出されたとは言え、世間に知られてしまえばファウスティーナの経歴に傷がついて良縁が無くなる可能性だってある。
(情報操作とかは、お父様が抜け目なくやってくれそうだけど万が一があるもの。どうせ家を出る予定だから気にしないでおこうっと)
家は兄ケインが継ぐので心配は無用。アエリアから、ケインはファウスティーナがいなくなった後無事シトリンの跡を継いで公爵になったっと聞いている。ベルンハルドとの婚約が解消となったら、予想だが次の婚約者はアエリアになる可能性が高い。まだファウスティーナとベルンハルドの婚約は公に公表されておらず、王家とヴィトケンシュタイン家だけの話になっている。アエリアは王太子妃になるつもりはないと言っていても、だ。
ラリス侯爵家は、侯爵ながらも公爵家に匹敵する強い力を持つ貴族だ。また、ラリス侯爵夫人が防衛の要である辺境伯家の出身というのも大きい。王家と言えど無理強いは出来ない。
となると、前と同じでエルヴィラが王太子妃になるのは難しいのではと悩む。2人は“運命の恋人たち”なのだ。必ず結ばれないといけない。
(?)
自分で考えたのにファウスティーナは疑問を抱いた。
何故? 運命によって結ばれているから?
『――と――の間には“フォルトゥナの糸”によって結ばれた強固な絆があるからだよ』――頭の中で誰かが言う。知っている筈なのに、分からない誰か。
『だから最初から、君が入り込む隙間なんて無かった。言い方は悪いけど、――は体の良い当て馬だったのさ』――これも同じだが、分からない誰か。
当て馬……そうだろう。ファウスティーナという悪役令嬢がいたから、ベルンハルドとエルヴィラは結ばれた。“運命の恋人たち”と称される程に。
前の自分は絶対に見ていないであろう2人の結婚式が何故か脳裏に浮かんだ。特大の刃物が今かと今かとファウスティーナの心を刺そうと表面に先端を突き付けている。
これ以上思い出して、耐え難い痛みを感じるくらいなら、と紅茶を一気飲みした。温度は少し下がっていたのであまり熱くはなかった。だが、突然の行動にシエルとヴェレッドの視線はファウスティーナに向いた。
「どうしたの?」
「え、な、なんでもありません。えへへ」
笑って誤魔化し、紅茶のお代わりが欲しいとシエルにティーカップを渡した。
――約2時間後、朝日が昇り屋敷の使用人達が起き出す時間になった。サロンで早くから寛ぐ3人に執事は苦笑した。シエルは執事の後ろにいる侍女にファウスティーナの支度を命じた。ベルンハルドのことを聞くと、もう起きて支度しているとの事。
「そう。じゃあヴェレッド」
「行ってらっしゃい。俺は良い子にして寝てるよ」
「何言ってるの。君も行くに決まってるでしょう。私のお願いを聞いてくれる約束じゃない」
「あーはいはい、シエル様がズルして一本取ったあれね」
「失礼だな。ズルなんてしてない」
「俺が猫が好きだと知っていながら、猫だ、って気を逸らしたのは誰?」
「あっさり信じて負けたのは誰かな?」
「……」
口の争いならシエルが何枚も上手だ。幼い頃からの付き合いであるヴェレッドがよく理解している。こんなことなら、初めて会った時貧民街に迷い混んで浮浪者に襲われ掛けていたシエルを助けないでどうなるか眺めていたら良かったと過去の自分を恨んだ。
が。
「シエル様は無様にやられないからね」
「何の話?」
「独り言」
「大きな声で独り言を言うんだね」
「どうでもいいでしょう」
「はいはい。さあ、君も来るんだ。それ相応の格好をしてね。元々顔が良すぎるから、それっぽい格好をしたら、誰も君が貧民街の孤児とは気付かないだろうね」
「どうでもいいよ。シエル様に会ったのが俺の運の尽きだよ」
「酷いな」
言う程ショックを受けていない。軽口を叩き合いながら互いを熟知している2人ならではの会話なのだ。
それぞれ支度を終え、外に用意された馬車に乗り込んだ。侍女から朝食の入った大きめのバケットを受け取ったシエルは、御者に「城へ向かえ」と言い放った。
ファウスティーナもベルンハルドも急遽用意された子供用の服を着ている。服装だけなら、2人が公爵令嬢と王太子とは気付かない。漂う気品から貴族であることだけは窺えた。
――同じ頃、王宮では朝になったばかりだと言うのにシリウスが落ち着かない様子だった。寝室で窓を見ながら、左の頬を左手で触っているのを見ているシエラは「シエル様が絡むとこれだもの」と額に手を当てて呆れていたのであった。
読んで頂きありがとうございます(´∀`*)