36 誰の為?
拒否権は一切存在しない。
澄んだ晴天は身を潜め、覗いた者を深淵へと突き落とす色がそこにあった。
互いが気を許した者同士でも、元々の身分は天と地程離れていた。
王族と貧民。
頂点と最底辺。
そんな2人が友人となったのは、20年以上前の話。平民の振りをして貧民街に迷い込んだシエルが浮浪者に襲われそうになった所を、眺めていたヴェレッドが気紛れで助けたのが切っ掛け。
ヴェレッドはシエルから目を逸らさず、表情も変えず、背凭れに体を預けた。
「可笑しな言い方。まるで、俺があの人身売買の商人と手を組んでいたみたい」
「そうだね。実際は、君が手を組んでいたのはカイン=フックスだね」
「……」
ヴェレッドは黙る。事実を言い当てられても何も変えない。
「ねえヴェレッド。君の口から、最初から話してくれないか」
「最初?」
「そう。君がカインと手を組んだ理由。抑々、どういった経緯でカインと会ったのかを」
「手を組んだと勝手に思い込んだのはあっち。あの令嬢を攫ったら、間違いなく公爵家だけじゃなく王家も動くと思った。カインもそれは分かってた。けど分かってないこともあった。
――貴方だよ、シエル様」
「……」
「教会が、いや、シエル様が動くとはきっと思わなかっただろうね。公爵家や王家には、王弟であるシエル様を崇拝しているのが紛れている。そいつらに常に情報を流させているから、いち早く誘拐事件を知って公爵邸か王城のどっちかに駆け付けると思った」
母親が平民でも、父親は紛れもなく本物の王族。
後ろ盾がないに等しいシエルを都合の良い傀儡にしようと企んだ貴族は大勢いた。面倒で無駄な継承争いに巻き込まれる前に、早々と王位継承権を放棄したのもその為。
その前は、王太子の予備として育てられた。王太子以上に厳しい教育を課せられながらも、予想を上回る速さで知識を吸収していくシエルに王太子派の貴族達は戦慄した。順調に育てば、何れ王太子を超える器となる。早急に手を打つ必要があると彼等が判断した頃には、シエルは彼等の思考が手に取るように解っていた。なので、王位継承権を自分の意思で放棄した。
この件に関して当時王太子であったシリウスから反応は無かった。冷たく澄ました表情で話を聞いていただけ。シリウスとシエルの仲は氷のように冷たかった。シリウスの母は公爵令嬢、シエルの母は平民。公爵令嬢としてのプライドが許さなかった当時の正妃は、繰り返しシリウスにシエルと関わりを持つなと言い聞かせた。
馬車での移動中、ベルンハルドの言った――
『父上は叔父上に中々会えなくて、時折寂しそうにしてますよ』
今更会って、何を話すというのか。元々無いに等しい会話を無理矢理行う必要性が見出せない。毎年毎年、何回か話合いの場を設けたいと使者が伝言をしに来るもシエルは一蹴している。
コンコン
ノック音のすぐ後に扉が開いた。使用人の女性が葡萄酒の肴をカートに乗せて運んで来た。数種類の品をテーブルに並べて退室した。シエルは葡萄酒を飲み、ヴェレッドはバゲットを1つ手に取り半分に千切った。中のふんわりとしたクラムを抜いて食べた。クラムがなくなったバゲットの皮を皿に置いた。
「君のパンの食べ方は独特だね。食パンでも、パンの耳だけ綺麗に残して食べるのだから」
「放っておいてよ。俺の好きな食べ方なんだから」
「はいはい。で、話の続きだ」
シエルの促しにクラムを飲み込んだヴェレッドは頷いた。
「公爵家が掴んでるカインの情報って、多分こんなんでしょう。両親がいない独り身で、恋人もいない、黒い髪を年中同じ髪型にして眼鏡をかけた仕事一筋で寡黙で真面目な執事」
「『ピッコリーノ』で捕えた一味に、カインの姿はなかった」
「なくて当然だよ。7年間公爵家に仕えたカインは――俺だよ」
「……」
驚きもしないシエルにやっぱり、とヴェレッドは納得した。目の前の男の冷静さは普通と違う。例え自身の命が狙われようとも、この男が冷静さを失って取り乱したことは一度だってない。
――たった一つの例外を除いて。
シエルは無言のまま、また葡萄酒を一口飲んだ。グラスを置くとヴェレッドは続きを話した。
「カインに会ったのは8年前。俺が変装が得意だっていう噂を何処で聞き付けて来たか知らないけど、俺にある話を持ってきた。ヴィトケンシュタイン公爵家の執事になってくれないか、って」
「……」
「手回しは全部こっちがする。お前は執事の振りをし続けろって」
「君はその話を受けたんだね。何の為に? その時点で彼の目的を知っていたのかい?」
「まあね。半年前に生まれた公爵令嬢を時を見て誘拐する、なんて聞いた時には頭のネジが飛んだ奴だと思った。実際、人身売買の商人に売りつける振りをして俺に連中の始末をさせ、余った金と連中が持っている金を奪って、令嬢を連れて国を出ようとしてる時点でイカれてる。更に、その令嬢を手籠めにしようとしてたんだから余計にね」
「……」
苦々しく眉間に皺を寄せたシエルは深い溜息を吐いた。どんな所にも特殊な性癖を持つ輩はいる。幼女を好む幼女趣味に目を付けられたファウスティーナが不憫でならない。ファウスティーナがカインに目を付けられたのはもっと別の理由がある。
「カインはアーヴァとかいうのにご執心だった」
ヴェレッドが口にしたアーヴァの名にシエルは「そうみたいだね」と肯定した。
「正確には、アーヴァの盲信者だ」
「……」
「内気で植物や動物が好きで外に出てよく花を眺める、普通の子だよ。ただ、アーヴァ本人にその気がなくても、彼女には魔性の魅力があった。当時は大勢の令息がアーヴァに夢中になった。私もそうだ」
記憶の中にしかいないアーヴァの姿が鮮明に蘇る。流麗で魅惑的な赤い髪、垂れ目がちな青水晶、いるだけで人を惑わせてしまう魔性の美貌を持ちながら性格は内気で常に姉の背に隠れている気の弱い令嬢だった。大きくなっていくにつれてアーヴァの魅力は増していき、デビュタントを迎える歳になると絶世の美少女とまで呼ばれた。婚約者のいる令息でさえアーヴァの魅力に夢中になり、当時は婚約破棄騒動が多発した。そこでアーヴァの両親は、娘を遠い領地へ送った。煌びやかで華やかな王都よりも、自然に囲まれた田舎でのんびりと過ごす方がアーヴァの精神的状態を見ても得策だと考えたからだ。
「貴族学院を中退することにはなっても、アーヴァに気にした様子はなかった。寧ろ、のびのびと過ごせると安心していた。……けどねえ」
アーヴァの盲信者、と呼ばれる者がいる程アーヴァの人気は異常だった。遠い領地にまで追い掛ける者がいた。大抵はアーヴァの両親が追い払ったが、中には巧妙に姿を隠してアーヴァに近付こうとする者もいた。貴族ともなるとその家々が処理したのである程度の問題は浮上しなかった。
しかし――
「貴族学院は、能力次第では平民も入学出来るようになっている。平民の盲信者の中にモルテ商会前会長の子息が1人いた。それがカイン=フックス。君が手を組んだあの男だよ」
「ああ、道理で金がある筈だ。けどさ、フックスって何処の名前?」
「フックスの名は母方の姓だ。モルテと名乗ったら、アーヴァの従兄である公爵が気付かない筈がない。因みにこれ『ピッコリーノ』にいた顔が残念なのから吐かせた」
「それ、本人だよ」
「うん。ぺらぺらと吐いてくれたからね。そうだとは思った」
テーブルにあるバゲット半分をクラムだけ食したヴェレッドは葡萄酒を一気に呷った。シエルも残り少なかった葡萄酒を飲み干すとワインクーラーに置かれているボトルを持つと、互いのグラスに葡萄酒を注いだ。
ヴェレッドは『ピッコリーノ』で抱いた、シエルの紡いだ言葉に疑問を放った。
「俺と令嬢が捕まってた部屋でシエル様はさ、駆け付けた騎士に何を聞かされたの?」
「君達がいる部屋に行く前に、一味を先に捕縛してね。自死させないよう、猿轡を噛ませていたんだが……カインが奥歯に仕込んでいた毒薬を噛んで死んだんだ」
「ああ、あれ」
「知ってたのかい?」
「仮死状態になる薬と偽って仕込ませたんだ。騒ぎが起きたら、落ち着くまで死んだ振りでもしてろってね」
「だが実際は毒薬、か」
「俺も執事の振りをするのは楽しかったし、衣食住に困ることなかったから不満はなかった。面白いものも沢山見られたしね」
仮に。
仮にである。
シエルに4歳からの話をしたら、どんな顔を見せて、どんな反応をするのか。想像しただけで得体の知れない快感が生まれ、全身がぞくぞくと震える。
8年前に接触し、7年前に公爵家の執事として潜り込んだ。1年の空白期間は謂わば準備期間。貴族に仕える者として必要な振る舞いを叩き込まれたのもある。
面白おかしく、思い出し笑いをしたいのを堪えるヴェレッドを呆れた眼で見やるシエル。
「1人笑いって、見てて不気味だよ」
「しょうがないでしょう。面白いんだから」
「そう。私に教えてくれないのは読めてるから聞かないよ」
「それがいいよ。ろくでもないから」
そう。ろくでもない。
「俺からも聞かせてよ」
「何かな」
「シエル様を崇拝している連中が情報を流したにしてもさ、来るのが早すぎるんだよ」
「……」
「俺の予想じゃ、もう1日掛かると践んでいた。それが今日だ」
「私が来た時、君に驚いた様子はなかったが?」
「来るのは予想出来てたから。問題なのは、その早さだよ。どうして?」
触れればヴェレッドが痛がるだろう薔薇色の瞳。
薔薇の花には棘がある。触れてはならないとはよく言う。
美しさの中に秘められた凶暴性がその奥から垣間見えていた。
シエルが予想を越えて早く駆け付けられたのは、朝王城で出会ったネージュの助言のお陰だ。当時の関係者しか知らない事実を子供の彼が知っているかがずっと疑問であった。戻ってネージュに訊ねてみようと考えている。素直に話してくれるかどうかだ。
苦悩して導き出した答えは――
「優秀な崇拝者がいるお陰だよ」だった。苦し紛れの言い訳だ。ヴェレッドも見抜いている。それ以上は追及してこなかった。長年の付き合いから、互いの性格は熟知している。
シエルはブルーチーズをフォークで切って口に運んだ。何気ない動作も無駄が一切ない。王子として育てられた教育は意識しなくても発揮される。
不意にシエルは呼び鈴を鳴らした。直ぐ様使用人が来ると「温かいスープってある?」と訊ねた。
「クリームスープでしたら」
「持って来て」
「畏まりました」
使用人が部屋を出て行くとヴェレッドに向いた。
「中身のなくなったパンの皮にスープを入れて食べるの好きだったよね」
「ブレッドボウルみたいになるでしょう」
「食べたいなら作らせるよ?」
「要らないよ。クリームスープがあるんでしょう? それで十分だよ」
「そう。今頃温め直してる最中だろうから、話の続きをしよう」
葡萄酒を飲み干し3杯目を注ぐ。
「今回の誘拐事件であの子とベルンハルドの婚約継続は難しくなった。何故か解るね?」
「さあ? 貴族の事情にはこれっぽっちも興味ないよ」
やれやれと肩を竦めたシエルは「婚約解消、だよ」と平淡な声で紡いだ。
非常に幸いな事にファウスティーナは極短期間で救出された。犯人から暴行も暴力も受けていない。綺麗なままだ。
綺麗なままでも、実際に証拠を見せられる物はない。ヴェレッドがいるが元々貧民街で育った孤児であり、一緒に捕まっていたといっても彼自身尊い人じゃない。証言をしても無いものと同等だ。
王家や公爵家が隠匿しても必ず何処かで漏れる。そこを突かれてしまえばあっという間に噂は広まり、ファウスティーナの公爵令嬢としての地位は崩壊する。事実を知っていながらファウスティーナを婚約者のままにした王家や公爵家にも不信は集まる。
幸か不幸か、ファウスティーナとベルンハルドの婚約は公にはされていない。今解消すれば、どちらも傷は浅く済む。
「ただねえ……」
シエルは苦々しい表情をした。
「陛下のことだ。どんな手段を用いても婚約を継続させるだろうね。王家が長年待ち続けた女神の生まれ代わりだ」
「それ」
「うん?」
「カインはアーヴァにそっくりだから、としか言わなかったけど、人身売買の商人も同じこと言ってた。お伽噺が現実になるのがこの国だけど、あの令嬢に拘り続ける必要はある?」
ヴィトケンシュタイン公爵家の令嬢はファウスティーナだけではない、妹のエルヴィラもいる。眺めてるだけなら将来愉しませてくれる性格であるが、彼女も女神の血は引いている。
うーん、と顎に手を当てて考え込むシエル。すると、ノックの後に使用人がクリームスープを持って入室した。スープボウルを2人の前に置くと静かに出て行った。
ヴェレッドは熱々のスープに皮をつけそのまま食べた。ブレッドボウルにするのではなかったのかと言いかけたシエルだが、底に近付くとスープを皮の中に入れ出したので何も言わなかった。
熱いブロッコリーを見て若干顔を歪めるも、文句を言わず口に入れた。
「分かりやすく言うとね、血の濃さだよ。王族が代々、瑠璃色の瞳を受け継ぐように、ヴィトケシュタイン家に生まれる娘は女神の血が濃ければ同じ容姿となるんだ。少量じゃ意味もない」
「女神の生まれ代わりは絶対に王族と婚姻を結ばなくてはならないって、公爵が言っていたけどさ、例外はないの?」
「女神の生まれ代わり自体、殆ど生まれないんだ。長い歴史の中でほんの一握りの数しか生まれてない。あの子で数百年振りなんだ。例外はあるにはあるよ。王女が降嫁した家とか、王子が婿入りした家とかね」
「要は、王家の血が必要ってこと?」
「そういうこと」
「ふーん」
王太子と婚姻を結ぶのが基本。王太子に婚約者がいた場合は下の王子と婚姻を結ぶ。どうしようもない事情がある場合に限り、王家の血が流れる貴族と婚姻を結ぶ。
ベルンハルドとは何時か婚約破棄になるとファウスティーナが信じていると、シエルに伝えて信じるだろうか。ヴェレッドは味の染み込んだジャガイモを皮の中に入れた。理由を問われるのは確実。相手をすっきりさせられる答えを持たないヴェレッドでは、この話は荷が重い。
黙っておこう、と口に入れた。
「さて、これを食べたら2人の様子でも見に行こうか」
「聞いていい?」
「なに」
「シエル様は俺を罰する?」
最終的にはファウスティーナを助ける気だったと言っても、誘拐が現実となったのは元を辿ればヴェレッドのせい。ヴェレッドが7年間執事と偽って公爵家を欺き続け、確実な日と時間でファウスティーナを拐った。
貴族令嬢――それも王太子の婚約者――を誘拐した罪は重い。良くて楽に殺されるくらいか。
ヴェレッドの発言で場の雰囲気が一変。重力が掛けられたと錯覚する程重く、苦しく、息をするのさえ忘れてしまう。
「いや、しないよ」シエルは空気を和らげあっけらかんと答えた。
「ヴェレッドを突き出しても私が得しない。ああ、でももう仕事の復帰は無理だね。もう此処にいなよ。ヴェレッドがいてくれた方が私も色々助かるから」
「俺に神様に仕えろって?」
「物臭司祭と自称している私の友人である君なら出来る。なんて嘘だよ。適当にしてくれたらいい。時折私の頼みを聞いてよ」
「はーいはい」
こき使われる未来しかない。
面倒臭そうに了承したヴェレッドに「最後にいいかな」とシエルは、真剣さが増した青の瞳で問い掛けた。
「もし、私が来なくて、君がカインや商人一味を殺したとしよう。君は、あの子をどうした?」
ヴェレッドはシエルの瞳と真っ向から向き合った。
これを言われたら、答える台詞は最初から決めていた。
「貴方に、シエル様の所へ届けていた。
だって、そうしたら……――」
「……」
シエルは黙った。天上人のような美貌に翳りができた。
「そうなっていたら、夢の続きを、見られていたかもしれないね」
誰に聞かせるでもない、自分自身に聞かせるように紡がれた声は……悲痛で、何かを切望していた。
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