33 はぐるまは狂う
――ああ……時間軸が狂うのって愉しいなあ……
「兄上大丈夫?」
「あ、ああ……」
内心は、今までと出来事が起こる順番が狂って愉しくて仕方なくて、大声を上げて嗤って。
表面は、一昨日8歳の誕生日を迎えたばかりの婚約者が拐かされたと聞き、不安げな面持ちで1日を過ごす兄を心配している。
極端な感情を外と内で上手に使い分ける器用さは何時身に付けたかな。ああ、二度目の時か、とネージュは手が付けられていないスープに目を落とした。
「……冷めちゃうよ?」
「分かってる……ただ……喉を通らないんだ」
「公爵家が総出で捜してるって聞いてるよ」
「父上の方からも、秘密裏に捜索隊を出してファウスティーナを捜している」
ファウスティーナがいなくなったと判明したのは昨日の朝。侍女が起こしに部屋を訪れるともぬけの殻。屋敷中探し回ってもファウスティーナの姿はなく、大急ぎで公爵に報告した。
そこからは更にパニックとなった。
王城に報せが届いたのは昨日の午後。公爵家からの者が王に大至急手紙を見てほしいと駆け付けた。公爵からの緊急の手紙を持っていると。
丁度公務が一段落した所だったのと使者のただならぬ様子から王は許可を出した。
渡された手紙を読み、すぐに表情が驚愕に染まった。
王は使者を帰すと騎士団長を呼んだ。
極秘の任務を言い付けた。
「ぼく達が出来るのは、無事に戻って来ると祈るくらいだよ……」
「……」
貴族の子供、というのは狙われやすい。故に、常日頃から護衛が付けられる。時には傍に、時には遠くから。
基本屋敷の中で生活をしていても同じ。誰かしらは付いている。
ファウスティーナを最後に見たのは専属侍女。時刻は夜。なら、拐われたのは夜中から朝の間となる。その間の警備はどうなっていたのか。ベルンハルド達が父シリウスに聞いた。
夜間に交代で邸内を巡回する者、警備を担う者全員に聴取を行った。
不審者の目撃情報はなし。門や壁に細工をされた痕跡もなし。
但し――執事が1人、ファウスティーナがいなくなったと大騒ぎになっている日から姿がない。
執事の素性は公爵家から王家側に情報提供されている。いなくなっただけでは実際に拐ったという証拠にはならないのに、公爵家も王家も彼が誘拐犯だと決め付けた。
理由があるせいだ。
ネージュとベルンハルドは執事が誘拐犯としか聞いていない。
「父上が言っていたけど、姿を消した執事って7年前からヴィトケンシュタイン家に仕えてるんだって」
「聞いた。まさか、内通者がいるなんて公爵側も思わなかっただろう」
ベルンハルドはこの時、一つ引っ掛かりを覚えていた。
執事の話を終えたシリウスが去る間際こう呟いたのを聞き逃さなかった。
『アーヴァの盲信者め……』と。
(アーヴァとは誰なんだ)
聞いたことのない人物の名前。
しかし、そのアーヴァという人物とファウスティーナが繋がっているのは明白。そうでないなら、シリウスが忌々しい様子で口にはしない。
(ファウスティーナ……)
テーブルの下に隠している手をぎゅっと握り締めた。
子供のベルンハルドでは捜索の協力も出来なければ、他に手助け出来ることがない。
こうやって無事に戻ってくるのを待つしかない。
「……」
湯気は消え、温くなったスープに手を付けず、じっとコーン色の水面を見つめる瑠璃色の瞳に翳りが生じ始めた。グラスを傾けて水を飲むネージュは、さて、と思考を巡らせる。
(起きた時間に違いはあれど、状況は同じ。なら、誘拐犯も同じだ。違ってくるのは救出方法だけ、か)
(前は兄上が助けに行ったけど、さすがに今回は無理だ。あの時は17歳だったから。……ああでも、ファウスティーナを助けた時の兄上の顔は傑作だったな。……何をやっても手遅れなのに、今更感が満載だったもん)
――ファウスティーナの態度も問題だらけだったけどね。
ファウスティーナの空白の記憶と当時の感情を知っているネージュとしては、最後が近付くにつれ遠くなっていく2人を思い出すだけで笑いが抑えられなくなる。
誘拐犯に関する手掛かりはその執事だけ。が、行方不明。執事の交友関係や行動範囲を調べても問題は浮上しない。
ならどうするか?――ネージュは居場所を知っている。伝える方法はある。
結局、朝食を一度も手に付けなかったベルンハルドが従者と護衛の騎士を連れて出て行ったのを見届けた後、側に控える専属侍女ラピスに馬車の用意を言い付けた。極秘の捜索活動とは言え、王城内は緊張が溢れていた。
今日のネージュは体調が良い。行先を聞かれ、教会へ行きたいと告げた。
「王妃殿下に聞いて参りますね」
「うん。難しいかもしれないけど、ファウスティーナ嬢の無事を祈りたいって言えば、きっと母上は許可してくれるよ」
「はい」
ラピスと共に部屋を出たネージュは長い道を歩く。事情を知らない者でも、息がし辛い空気に顔が強ばっている。
あ、ネージュは声を出した。
前方からある男性が歩いて来る。
「あれは司祭様ですね」
ラピスがネージュの心を代弁した。
司祭の服装ではない、貴族然とした服装をした司祭はネージュの姿を捉えると会釈をした。
「ご機嫌如何ですか、ネージュ殿下」
「……丁度良かったよ、司祭様」
さらさらと流れる銀髪は少々乱れ、涼しい顔をしているのに皮膚にはうっすらと汗が滲んでいる。声色は穏やかで丁寧なのに、裏に隠されている感情がネージュには手に取るように解る。ラピスを下がらせ、司祭をしゃがませると耳打ちした。
瞠目し、絶句する司祭にだけ見えるように底無し沼の紫紺色の瞳をぶつけた。
「ぼくの言い分を信じるか、信じないかは司祭様次第だよ」
「……いいえ、信じましょう。当時の者しか知らないことを貴方は知っている。陛下や王妃様が貴方に漏らすことは決してない」
「信用してくれてありがとう」
ネージュは純粋な笑顔を浮かべた。
「……」
何とも言えない表情をした司祭は、踵を返して来た道を戻って行った。下がっていたラピスを呼んで教会へは行かないと告げた。
「行かないのですか?」
「うん。司祭様にお願いしたんだ。どうか、女神様にお祈りしてと」
「そうですか。では、お部屋に戻りましょう殿下」
「うん」
これでいい。
司祭にばらしても問題はない。
ネージュはラピスと共に部屋に戻った。
*ー*ー*ー*ー*
一方、ヴィトケンシュタイン公爵家では、ファウスティーナが拐かされた日から一睡もしていないシトリンが騎士団の秘密捜索部隊と情報を共有してファウスティーナの捜索を続けていた。
重要人物である執事の行方も未だ解らず。
「……」
書斎内を扉の隙間から覗き見しているケインの肩に手が乗った。反応もなく振り向くと一気に数年分老けた印象を抱かせる母がケインを扉から引き剥がした。
「ケイン。部屋に戻っていなさい」
「……カインの居所は?」
「ファウスティーナのことは旦那様や騎士団の方々が必死に捜しています。貴方がするのは待っていることです」
「……」
カインとは、姿を消した執事のこと。
真面目でそつなく仕事を熟す寡黙な男性というイメージしかなかった執事が、まさか仕える家の娘を拐う等と誰が思うだろうか。
今の所、カインがファウスティーナを拐ったという決定的証拠はない。しかし、ファウスティーナのいなくなった日に姿を消した。休暇を出した形跡も体の具合が悪いという話も聞いていない。間違いなく事情を知っている。
初めの感想はそうだ。
直後に発覚した事実に執事が誘拐犯だと断定した。
リュドミーラに部屋に戻されたケインはソファーに腰掛けた。
リュンは執事長と共にシトリンの補佐に回っている。というか、回した。睡眠を取るよう促してもファウスティーナが戻るまで無駄にする時間は1秒もないと断られるだけ。
それと、リュンを回したのはシトリンの補佐をさせる為だけじゃない。新しく入った情報を聞く為でもある。こんな状況なので子供のケインは何も出来ない。
「はあ」
大きな溜め息を吐くと勉強机に広げていた資料を手に取った。リュンに内緒で聞いた情報を纏めたのだ。
「大人の面倒事に子供を巻き込まないでほしいな」
資料にはカインのことが書かれている。
一通り目を通したケインは資料を机に置き、引き出しを開けて便箋を掴んだ。素早くペンを走らせて便箋を封筒に入れた。
呼び鈴を鳴らした。
音に呼ばれた使用人が部屋に入った。
手紙に封蝋を押して告げた場所へ届けてほしいと頼んだ。
使用人が手紙を受け取ったのと同時に、リンスーが駆け込んで来た。どうしたのかと問うとケイン宛に手紙が届いたのだとか。
非常事態ではあるが箝口令が敷かれている為、外部は誘拐の事実を知らない。
リンスーの赤い目元や濃い隈が目に入った。
「リンスー、ちゃんと寝てる? 目の下、酷いよ」
「私の心配は無用です。今はお嬢様を早く見つけることが最優先です!」
「リンスー。一度言ったけど、リンスーの侍女としての仕事に問題はないよ。夜間の警備や巡回は公爵家お抱えの騎士の仕事なのだから」
今はこうして動き回っているが発覚した当初は酷かった。最後にファウスティーナを見たのが彼女だったのもあり、取り乱し方が尋常ではなかった。ケインの言った通り、侍女としての仕事を熟したリンスーに問題はなかった。問題があるのは夜間の担当を担っている騎士達である。内通者がいた為気付けなかった、阻止出来なかった、では話にならない。
が、今責任を追及した所でファウスティーナは帰って来ない。
今はファウスティーナ捜索が第一。
ケインに諭され、ぐうの音も出ないリンスー。手紙を受け取ったケインは内容を見て微かに見張った。
「……さっきの手紙、やっぱり届けなくていいよ」
「は、はい」
使用人に渡した手紙を自分の手に戻して引き出しの中に仕舞った。
「リンスー」
「は……はい」
「部屋に戻って、仮眠でもいいから取るんだ。屋敷中がバタバタしてる最中に倒れられても余計な仕事が増えるだけだから」
「はい……」
「侍女長にも今朝怒られていたでしょう? 休めって」
「はい…………」
リンスーにちゃんと睡眠を取らせる為に突き放した言葉になってしまった。落ち込んだ様子でとぼとぼ歩いていく後ろ姿が、怒られてしょんぼりとなるエルヴィラと重なった。ファウスティーナも怒られて落ち込むとこんな感じになる。
使用人にも持ち場に戻るよう告げた。1人になった部屋でケインは手紙をソファーに座って改めて読んだ。
「やってくれたねネージュ殿下。今のベルンハルド殿下じゃ助けられないからって、あの司祭様に任せるなんて」
人選は間違ってはない。
「この状況で司祭様がファナを助けるのは不自然じゃない。事情を知ってる大人だったら、だけど」
手紙を置いたケインは天井を仰いだ。
ファウスティーナは多分今頃――……
「アップルパイが1つ……きのこパイが1つ……むにゃ……コールダックが1匹……」
「……よく効く睡眠薬でも飲ませてるのか?」
「まあね……」
2日間ずっと眠りっぱなしである。
読んで頂きありがとうございます。
誘拐された本人は寝続けているので修羅場という修羅場がありませんが、誘拐話にもう少しお付き合い下さい。