30 王太子の見る悪夢
――……――だった? ――――と今更どの口が言っているんだか
誰か知っている筈の顔と声。見えていないのに、相手が地獄の底を表した冷徹な瞳を自分に向けていると感じられる。
何も言えない、発せられない。
ただ、目の前の光景を脳が受け入れない。
違う、違う、違う。
これは夢だ、夢、夢、夢だ。と。
――馬鹿な――。そんな――がぼくは大好きだよ。だって、最後はこうやって必ず――はぼくにくれるんだ
同じ色を保ちながら、昏く嗤う相手は最上級の礼を自分に言う。
――ほら、君も――に感謝しなきゃ。――が君を――たから、ぼく達はこうして――――だ
塗り固められた笑顔を浮かべる彼女が、絶望に染まった自分に水晶玉のような瞳を向けていた……。
*ー*ー*ー*ー*
「っ!!」
「うわっ」
ー王城の王太子の私室ー
がばり、と。
机に突っ伏して眠っていたベルンハルドが飛び起きた。
大量の汗を流し、呼吸が荒く、顔色も悪い。
暫く呆然と呼吸を整えていると、横からひょっこりとネージュが顔を見せた。ネージュ? と力なく呼ぶと顔を顰められた。
「大丈夫? 酷い汗だよ。あと、すごく魘されてた」
「あ、ああ、大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃないよ」
ネージュは真っ白なタオルでベルンハルドの汗を拭う。
ベルンハルドと3時のおやつを食べようと誘いに来た。珍しく机に突っ伏して寝ている兄を起こそうと近付くと、今のような状態で魘されていたらしい。ネージュがタオルを持って戻ると同時にベルンハルドは飛び起きたのだ。
汗を拭き終わったタオルを侍女に渡したネージュは兄上、と話し掛けた。
「どんな夢を見ていたの?」
「夢……」
ネージュの言葉を反芻する。
確かに見ていた。想像を絶する悪夢を。
なのに、いざ現実に戻ると内容を覚えていなかった。脳があまりの悪夢に記憶を強制削除してしまったのか。曖昧に微笑むベルンハルドにむすうっとネージュは頬を膨らませた。
「そうやって誤魔化す。普段はぼくが心配される側だけど、ぼくだって兄上に何かあったら心配するんだよ」
「う、うん。すまないネージュ。けど、大丈夫。大した夢じゃなかった」
「大した夢じゃないなら、兄上の今は可笑しいよ」
「本当に大丈夫だから。ああ、お茶をするんだったな。僕の部屋に用意させよう」
「しないよ」
キッパリと断言したネージュは、きょとんとするベルンハルドに向かって、ある方向を指指した。
ベッドだ。
「今から兄上がしなきゃいけないのは休息。疲れが溜まって可笑しな夢を見たんだ」
「辛いという程疲れてはないよ」
「知らない間に溜まっているんだ。ほら、早くベッドに行って」
「ネージュ。僕は」
「いいから! 早く!」
珍しく強引なネージュに腕を引っ張られ、ベッドに寝かせられた。ベッドの近くまで椅子を持ってきて座った。
「兄上が寝るまでぼくは此処を動かないからね」
「ネージュ……。でも、今日はまだやらないといけないことが沢山」
「1日休んでも平気だよ。無理をして、体を壊す方が問題だよ。兄上はぼくと違って健康な人だけど、無理をし続けて壊れない体を持つ人はいない。休める時に休まなきゃ何時休むの」
生まれた時から体が弱く、殆どをベッドの上で過ごすことの多いネージュだからこそ、言葉の重みが違う。今日は体調が良いようだが、何時崩すか分からない。
心配する側から、心配される側になってしまった。
ベルンハルドは拗ねた顔をする弟の頭を撫でた。
「そう……だな。今日はネージュの言う通りにしよう」
「そうして」
拗ね顔から、安堵した顔を見せたネージュは疲労回復に効く飲み物を持って入った侍女に顔を向けた。
「兄上が飲んでも寝るまで見ててね」
「分かりました」
「信頼されてないな」
「兄上は無理し過ぎなんだ。ファウスティーナ嬢だって、今は体調が安定してないから王妃教育をお休みしているんだから、兄上も良くなるまで休んだ方がいいよ。母上や父上にはぼくが話すから」
「いや、そこまでしなくていい。自分で話す」
「駄目。兄上はその辺信用出来ない」
ネージュは侍女にベルンハルドの見張りを任せると部屋を出て行ってしまった。ネージュを呼び止めるも、足は止まってくれなかった。残されたベルンハルドは苦笑し、侍女に上体を起こしてもらい飲み物が入ったマグカップを受け取った。口に含むと温かいミルクとハチミツの甘さが広がった。身も心も落ち着く優しい味。
(ファウスティーナは、あのリボンを気に入ってくれたかな……)
今日は婚約者の8歳の誕生日。ギリギリまで彼女への誕生日プレゼントで悩んでいた。ずっと唸っているベルンハルドにネージュは助言をした。リボンを贈ってはどうか、と。リボンは髪を結ぶ時に使える上、可愛い物が好きな令嬢には定番中の定番のプレゼントだ。それに、まだ幼いファウスティーナに贈るにはぴったりだと思った。
プレゼントをリボンに決め、次に悩んだのは色。これもまたベルンハルドを悩ませた。ファウスティーナに似合う色を考えた。普段彼女が着ているドレスの色は紺色といった地味で濃い色が多い。2ヵ月前のお茶会で着ていた青銀のドレスを思い出すも、髪に結ぶなら色が同じで目立たない。
空色の髪には濃い色が似合う。色までネージュに助けられる訳にはいかない。
ファウスティーナが似合う色を探していると、ふと、お茶会で身に着けていた髪飾りが頭に浮かんだ。紫色のアザレアの花。
紫色と口に出そうになったがネージュの瞳の色を見て思い止まった。ネージュの紫紺色と紫色は似ている。どうせなら、自分と同じ色を身に着けてほしい。
そこでベルンハルドが選んだのが――瑠璃色。自身の瞳の色だった。瑠璃色なら、青と白の中間である空色でも映える。そう決めると素早く手配をした。
リボンと一緒に手紙も送った。誕生日パーティーは、ファウスティーナの体調が不安定な為開催されないと連絡を貰っている。パーティーがなくても会いに行けたのに、ファウスティーナの体調が安定するまでは会わないでおこうと決めた。
飲み物を飲み干したベルンハルドはマグカップを侍女に返した。侍女に言われるがまま、ベッドに横になった。寝た振りをして、侍女が部屋を出たら起きる気でいたのに睡魔が襲う。
眠そうな瞳を天井へぶつける。
ファウスティーナは喜んでくれただろうか、身に着けてくれるだろうか。
不安と期待を抱いたまま、ベルンハルドは眠った。
寝息を立て始めたのを見届け、明かりを消して侍女は部屋を出て行った。
その頃、母と父にベルンハルドの調子が悪いと告げて私室に戻ったネージュ。心配した様子の両親に、彼も心配した面持ちを見せた。私室に戻っても同じ。
だって――
「兄上があんなにも前の記憶を夢に見るなんて。ぼくは兄上が大好きだから、そう何度も嘲笑うのは嫌だ」
魘されているベルンハルドは何度も口にした。
『かえ……せ……、…………を、返して……くれ……』
「返せ、だなんて。どの口が言っているんだか」
可愛い顔からは到底考えられない冷めた声色がネージュから紡がれた。
「捨てたくせに」
吐き捨てた言葉の裏に隠された事実を知るのはネージュとあとは……。
読んで頂きありがとうございます!
エルヴィラの見る悪夢よりかは、相手さん優しいかも……。