出発④
少しだけ冷静さを取り戻したのか、形相に憤怒の色は潜め、深く息を吐いたリュドミーラに取り敢えず安心する。エルヴィラの事になるといつも冷静さを失うのは、母という立場が我が子を守ろうとする一種の防衛反応によるものなら、ケインにはそれが起きないのは何故か。年相応には見えない冷静さと知識の深さ、相手を畏怖させる冷徹な声や瞳については致し方ないにしても。
領地で暮らす件をエルヴィラに話さないのはやはり不公平だと言うリュドミーラに2人は顔を見合わせ、ファウスティーナが1つ提案をした。
「今日の夕食時、エルヴィラに私とお兄様が暫く領地で暮らす旨を話します。そこでエルヴィラが領地行を拒否してもお母様には了承していただきます」
本人に言ったところで長く王都を離れるのは絶対に嫌がると解していてファウスティーナもケインも話さなかった。実際にエルヴィラが嫌がるようならリュドミーラとてこれ以上は何も言えない。表情に些かの不満はあれど、ファウスティーナの提案を受け入れた。一先ずホッとしたファウスティーナは不意に前に出たケインに気付く。
「俺とファナが領地で暮らす間、エルヴィラの今後をどうするか父上と母上にははっきり決めていただきます」
「ケイン」
「女神によって王太子殿下と“運命の恋人たち”に選ばれたのに、王太子妃になれないなら結局別の嫁ぎ先を見つけるしかありません。若しくはエルヴィラ一人でも生きていける術を身に付けるか」
それこそ本人が自信を持っているピアノの腕をそれ1つで食べていける技術を身に付けさせるかだ。今後王家がどう動くか不明ながら、エルヴィラをベルンハルドの婚約者にするのは王家も公爵家も拒否の姿勢を見せるなら、エルヴィラの未来を早急に決めないとならない。
「公爵家の支援を受けさせながらでもいい。エルヴィラの今後を3人できちんと話し合ってください」
「そんな事を言うのなら、ケインやファウスティーナもエルヴィラの為に考えてちょうだい。特にケイン、貴方はエルヴィラに対して厳しすぎるっ」
ファウスティーナには優しく、エルヴィラには厳しい。
エルヴィラは過去に何度も言っていた。お姉様のことしか妹としてお兄様は愛していないと。
同じ台詞を母であるリュドミーラにも言われるとは……心の中で深い溜め息を吐いたケインは喉から込み上がる言葉を抑え、肩を竦めて見せた。
「俺とファナが領地へ移るなら、エルヴィラだって本望では? 俺は別にエルヴィラを嫌っている訳ではありませんよ」
「でもっ」
嘘か真かの区別がケインでは見分けがつきにくく、ケインの心情を分かっているようでまだまだ分からない事だらけのファウスティーナも判別のしようがない。詰るリュドミーラの言葉を横へ流し、父と母2人に一礼をしたケインに連れられ部屋を出た。部屋を出る間際リュドミーラが呼び止めるがケインは聞かなかった。
「お兄様……」
手を繋いで前を歩くケインの後姿は普段と何ら変わらないのだが、心の奥底に芽生える不安の正体が分からない。エルヴィラを嫌っていないとケインは言うが本心が見えない。血の繋がった妹よりも、血の繋がらない妹を大切にしてくれるケインの心情についてはある程度理解をしている。
甘やかされ、駄々を捏ね、自制心を保てず、自分の思い通りにならないと気が済まない妹。
何をしても駄目出しを食らい、将来人の上に立つ者になるのならと失敗が許されず、愛されるだけの妹に劣等感と嫉妬を抱いていた妹。
ケインが手を差し伸べたのは後者。ただ、ただ、とファウスティーナは抱く。
「お兄様。もしも私がエルヴィラと同じだったらどうしていましたか?」
ピタリと足を止め、振り向いたケインはいつも通りの無表情であるが、微かに呆れが出ている。
「急に何」
「私がエルヴィラのようだったら、お兄様は今のように助けてくれていましたか?」
「ファナがエルヴィラのようにっては多分無理」
ファウスティーナがエルヴィラのように振る舞えば、却ってリュドミーラの怒りを誘い、激怒の嵐に晒されていた。
想像してごらん、と言葉通り想像して——すぐに止めたファウスティーナに苦笑交じりの笑みがあった。
「母上がなんと言おうとエルヴィラは領地には来ない。俺とファナは領地へ行く。俺達がいない間に、真剣にエルヴィラの今後を話し合ってほしいものだよ」
過去の繰り返しでエルヴィラに婚約者はいない。エルヴィラに婚約者をとシトリンやリュドミーラが考えた事がない訳ではないが、今までケインが止めていた。社交界ではエルヴィラが姉の婚約者に懸想し、挙句仲睦まじいとは有名だった。そんなエルヴィラを婚約者にしたい相手がいたとしても訳アリの男性くらい。まともな人間性を持つなら選ばない。バッサリと断言したケインに驚きながらも納得しかないファウスティーナは頷くだけ。
書庫室に入った2人は本を探すのではなく、本棚に凭れた。此処なら人は滅多に入って来ないので聞かれたくない会話がしやすい。
「領地へは何時頃向かう事になりますか?」
「王家とのやり取りもある。まあ、司祭様と一緒にいる人が上手く話をつけてくれるよ」
「そうですね。お母様には夕食の席でエルヴィラに領地行の件を話しますと言いましたが、もしもエルヴィラも一緒に行くと言ったら吃驚しますね」
「あったとしても、数日で飽きて王都に帰りたいって泣き喚くさ」
お兄様の言う通りな気がしますとファウスティーナは小さく笑う。
「領地に行ったら、ファナは何がしたい?」
「そうですね……あ!」
「何か浮かんだ?」
「お兄様。私が8歳の誕生日でお父様にコールダックの人形を頂いた事を覚えてますか?」
「うん」
「絵本に出て来るコールダックが大好きで何時か一緒に暮らしたいなと考えていました。領地に行ったら、コールダックのお世話をしたいです」
丸くて小さな身体に真っ白な羽根と愛嬌のある顔と黄色い嘴。絵本の「コールダックのダックちゃん」に登場するコールダックは、子供に好かれやすくする為とても可愛く描かれている。実際のコールダックを見ていると言えど、幻想は消えない。
ウキウキでコールダックとの生活を思い描いていたファウスティーナだが、ふとこんな言葉を呟いた。
「『建国祭』の露店で……」
「うん?」
「飴屋の主人に扮していたフォルトゥナ神の側にもコールダックはいましたね」
「そうだね」
「お兄様はフォルトゥナ神といるコールダックについて何か知っていますか?」
「いや。知ら——」
途中で言葉を切ったケインは口を噤んだ。
訝しむファウスティーナが顔を覗くと深く考え込んでいる。
「お兄様?」
3度ケインを呼ぶが反応はなかった。
——夕食の時刻を迎え、自身を呼びに部屋を訪れたリンスーと共に食堂へと足を踏み入れファウスティーナ。ファウスティーナ以外は既に揃っていた為、ファウスティーナが座ると食事が運ばれ全て揃うとシトリンの掛け声で夕食は始まった。
「エルヴィラ」
嫌いな野菜を見るなりエルヴィラは顔を顰めていたものの、シトリンに呼ばれた事で消した。
「ケインとファウスティーナの2人が近日中に領地へ行く事になったんだ」
事前に話をする役目を任せてほしいとシトリンに言われ、ファウスティーナは了解した。自分が切り出すより、父の方が聞く耳を持ってくれると期待して。
「お兄様とお姉様が?」
「うん。2人は貴族学院入学までには戻るけど、長く過ごす事になる。エルヴィラはどうする? 2人と一緒に領地で暮らしてみるかい?」
「貴族学院入学って……そ、その間王都には?」
「年に何度かは戻ってもらうけれど、基本領地で過ごす事になる」
「そんなの嫌です!!」
やっぱり、とはファウスティーナとケイン、どちらの台詞か。
案の定エルヴィラは領地行を嫌がった。強制ではなく、あくまで希望を聞いただけだとシトリンが窘めると少しだけ勢いを弱くし、絶対に領地へは行かないと首を振った。
「ベルンハルド様の婚約者になるわたしが長く領地で生活を送れる筈ないではありませんか!!」
「エルヴィラが王太子殿下の婚約者になるとは決まっていないともう何度も言っているじゃないか」
「いいえ! 絶対にわたしがベルンハルド様の婚約者になるんです! わたしはベルンハルド様の運命の相手なんです! 運命の相手であるわたし以外、誰がベルンハルド様に相応しいと言うのですか!」
“運命の恋人たち”に選ばれたということは、自分だけがベルンハルドの運命の相手である。信じ込むエルヴィラを強く否定できないのはシトリンもリュドミーラも同じだ。シトリンが勢いに押されたのを良い事にエルヴィラは主張を続ける。
「どうしてお兄様とお姉様は領地に、しかも貴族学院入学まで過ごす事になったのです。2人が勝手に決めた事なら、無関係なわたしを巻き込まないでください!」
「エルヴィラは本当に行かなくていいの? ケインやファウスティーナとは、暫く会えなくなるのよ?」
「全っ然構いません。寧ろ、お兄様とお姉様の顔を見なくて済むなら清々しますわ!」
「エルヴィラ!」
説得を試みたリュドミーラに少しキツイ口調で呼ばれ、ビクリと震えたエルヴィラは微かに涙目になるも虚勢を張って王都を出る気はないと再度言い張り、そっぽを向いた。
「お兄様もお姉様も大嫌いなんです! 会えなくなったって寂しくなんてありません!」
ここまで言うなら説得は無理だと悟り、肩を落としたリュドミーラは気遣わし気に声を掛けたシトリンに「大丈夫です……」と無理に笑んだ。
「大体、お兄様もお姉様も領地で過ごして何をする気ですか」
「したい事を見つけるのよ。エルヴィラの言う通り、殿下の運命の相手がエルヴィラと決まった以上、私は今のままではいられない。婚約破棄になってしまってもいいように自分のしたい事やなりたいものを見つける。その為には、1度大きく環境を変える必要があると考えたのよ」
婚約破棄は既に決定しているけどね……と内心で呟きつつ、意味が分からないと眉を寄せるエルヴィラに苦笑する。
分かってもらおう等と思わない。何をしたいのだと聞かれても領地で見つけるとだけ教え、食事を始めた。
「お、お兄様が領地へ行きたいのはどうしてですか」
ファウスティーナが食事を始めてしまい、質問をしても答えてくれなくなってエルヴィラの対象はケインへ移された。
「俺もファナと同じ」
「でもお兄様は公爵家を継ぐのならしたい事なんてっ」
「さあ、どうかな。別の誰かが継ぐ可能性が今出てきているんだ。必ずしも俺がヴィトケンシュタイン家を継ぐとは限らない」
「なっ」
絶句するエルヴィラを無感情な紅玉色の瞳が一瞥し、何でもないように食事を進めていく。エルヴィラが王太子妃になるなら、後継者の座を降りるとケインに宣言されてしまっているが、本気で後継者の座を降りる気でいるとエルヴィラは考えていなかった。領地で暮らす理由が身の振り方を考える為であると察し、顔を青褪めると俯いて静かになったのだった。
夕食の席の雰囲気はどんよりと重たいものなってしまうが静かなままで食事は終わった。
——侍女に渡されたケインの手紙の封を切り、内容を読んだクラウドは良い事を思い付いた。
「僕も交ざろう」
読んでいただきありがとうございます。




