最後にわらったのは――31
屋敷に戻ったファウスティーナとケインを出迎えたのは執事のクラッカー。
「お帰りなさいませ、ファウスティーナお嬢様、ケイン様」
「ただいま、クラッカーさん」
「ただいま」
声色はいつもと同じ。なのに、些か顔色が暗い。顔を見合わせたファウスティーナとケインに書斎でシトリンが待っているとクラッカーが告げ、此方ですと案内をされた。前を歩く姿も心なしか落ち込んでいる風に見える。
「何かあったのでしょうか……?」
「さあ……父上に会えば分かるよ」
小声でケインに話し掛け、適当な返事を貰ったファウスティーナはシトリンに会うまで緊張と不安で心が一杯となる。
「……」
対してケインの方は平常通り。見た目も、内心も。己の予想する以外の出来事ならば表情に出るだろうが、きっと……。
「旦那様。ファウスティーナお嬢様とケイン様をお連れしました」
「入ってくれ」
書斎の前に着き、扉をノックしたクラッカーが入室の許可を求めると室内からシトリンの声が届いた。扉を開けたクラッカーに促され、入室した2人はシトリンに勧められるがまま小休憩で使う隣室に向かい、大人1人が横になれる簡易ベッドに並んで座った。シトリンがファウスティーナの横に座るとクラッカーとは比にならない落ち込んだ表情を浮かべられた。
「お帰りファナ、ケイン。帰って来たばかりなのに、呼び出して済まないね」
「いえ……私もお兄様も気にしていません。お父様、何かあったのですか?」
「……ああ。とても大事な話がある。特にファナに」
「……」
声色も暗く、いつもの優しい笑みがあっても落ち着けない。人に心配を掛けられるのが好きじゃない父が隠そうともしない、若しくは隠し切れないのは余程の事があったからだとファウスティーナは次の言葉を待ち、ケインも静かに待つ。
「実は……」
「……」
「ファウスティーナと王太子殿下の婚約について……今日決定した事があるんだ……」
暗い表情と声。口を開くのを躊躇する父の姿はある予想をファウスティーナに抱かせた。うるさく鳴る心臓の音が誰かに聞かれるのではと抱かせる室内の静けさを他所に、漸く言う気になったシトリンが真っ直ぐな眼をファウスティーナにやり。そして。
「よく聞いて。ファナ、君と……殿下の婚約破棄が決まった」
「——」
重く、言葉を発するのが嫌なのに、それでも伝えなければならなかった父の心情は想像を絶する。
シトリンは視線を迷わせた後瞼を閉じた。
4年前の自分が待っていた婚約破棄。あの時の自分なら両手を挙げて喜んだ。これで前の自分が迎えた結末にはならない。ベルンハルドは、最初の時点から愛する人と結ばれる。そうでなくても心の底から嫌っていたファウスティーナと離れられる、ベルンハルドは幸せになれると本気で喜んだ。
だが素直に喜べないのは、4年という歳月は短く捉える人もいれば長く捉える人もいる。ファウスティーナの場合は長い。長く時間を掛けてしまったせいで婚約破棄をしたいという願いが薄くなった。エルヴィラと結ばれてこそベルンハルドは幸福になると信じる気持ちがあってもだ。
前の自分を反面教師にし、同じ過ちを犯さないと
誓った気持ちは今もある。
“運命の輪”に触れ、今まで自分自身が忘れていた記憶を取り戻してしまい、全く素直に喜べない。
何も言えないファウスティーナを痛まし気に見つめ、空色の頭を撫でるシトリンの手は記憶を取り戻してからも一切変わっていないと実感する。何を言えばいいのか、言葉を発しないと不安を募らせるのに。
「父上」
ファウスティーナの心情を察してか、代わりにケインが何故婚約破棄になったかの経緯を求めた。
「王太子殿下とエルヴィラが姉妹神によって“運命の恋人たち”に選ばれた以上、ファナと殿下の婚約に影響が出るとは俺やファナだって知っています。ただ、それがどうして婚約破棄となるのです」
「うん……陛下やシエル様、オルトリウス様達と何度も話し合った。姉妹神の決定を否とする場合、相応の代償を支払わないとならないとなったんだ」
「それがファナと殿下の婚約破棄、ですか」
溜め息と共にケインはエルヴィラに負担が何もないと吐き出した。
運命を否としたいのはベルンハルドだけであり、エルヴィラは運命を肯定している。代償を支払うのはベルンハルドのみとなる。
「お父様……」とやっと声を出したファウスティーナは、運命を否とした場合、ベルンハルドやエルヴィラに影響が出ないかを心配した。否としているベルンハルドが特に心配だと訴えると「安心しなさい。その点については、フワーリン公爵やリオニーがなんとかする」と伝えられた。
「ごめんねファナ……1番ファナが傷付いたのに僕は何も出来なくて……」
「お父様……」
本当の父親がシエルと知らされて最初に思ったのは、皆口を揃えて言っていたファウスティーナにだけ優しい理由を知れたということ。血の繋がりがない訳じゃないが、ずっと父だと思っていたシトリンが父親ではないと知っても、ファウスティーナにとってシトリンはやっぱり父なのだ。
「お父様のせいではありません。誰のせいでもありません。フォルトゥナ神やリンナモラート神が決定した事です。女神への信仰心を疑われかねないのに、運命を否としようとしてくれたお父様達を責める筈がありません」
「ファナ……」
空色の頭を撫で続けるシトリンは薄黄色の瞳を潤ませ、小さな声でもう1度ファウスティーナに謝った。
「どうしても、分からない事がある。ベルンハルド殿下の運命の相手はファナであるのは間違いない筈なんだ。殿下が赤子の頃、教会で洗礼を受けた時、姉妹神の像が光ったと聞いたんだ。初代国王ルイスと同じ髪や瞳の色を持った殿下の運命の相手は、リンナモラート神の生まれ変わりしかいない。なのに……どうしてエルヴィラと……」
「……」
シトリンの疑問に対する答えをファウスティーナは持っていない。今までの記憶を取り戻しても分からない事があるとしてもだ。
「……父上」
不意にケインがとある旨を訊ねた。
「ファナと殿下の婚約破棄について、母上やエルヴィラには伝えたのですか?」
「2人にはまだ話していない。リュドミーラには話すよ。エルヴィラには……当面は話さない」
ファウスティーナとベルンハルドの婚約は幸いにも正式には公表されておらず、婚約破棄をしたとしても徹底的な情報操作をする為、外部に漏れる可能性は低い。とはいえ、口の軽い者に教えうっかり漏らされては堪らない。エルヴィラに話さないのはファウスティーナとケインも賛成で、ケインは母についても話すべきではないと口にした。
「母上はエルヴィラのように何でも話すという事はありませんが……何かの拍子にうっかり漏らしてしまう危険があるかと」
「その点については母上を信じてあげてケイン。僕の方からも、固く口止めをしておくから」
多少不満げではあるもののケインは「分かりました」と了承。
長居してはリュドミーラやエルヴィラに気付かれてしまうと言ったシトリンに2人は小休憩室を出て、書斎も出た。扉が閉まる前に「お母様とエルヴィラはどうしていますか?」とファウスティーナが訊ね、2人ともそれぞれの部屋にいると教えられる。
書斎を離れたファウスティーナは無言でケインと邸内を歩く。ファウスティーナが無言であるからか、ケインも無言でいる。何を言うべきか、どんな言葉を選ぶべきか、頭の中が渦のように回り思考は落ち着かない。気が付くと自身の部屋の前に着いていて「じゃあね、ファナ」とケインは何かを言う訳でもなく私室へ戻って行った。
ケインが消えた扉を暫し見つめた後ファウスティーナも私室に戻った。
ベッドに飛び込み仰向けに体勢を変え、見慣れ続けた天井を見上げた。
「婚約破棄に……なっちゃったんだ」
婚約破棄になったのは何時だってエルヴィラ殺害計画(仮)を企て、それをベルンハルドが気付き断罪された後。11歳の時点で婚約破棄になった試しは1度もない。
ベルンハルドも恐らく婚約破棄の件について伝えられている筈。婚約破棄が決定された以上、個人的な連絡はもう取れない。
「殿下は……どう思ってるんだろう……」
最初を間違えず、以降もエルヴィラ関連に関してだけ対応を間違えずにきたお陰でベルンハルドと険悪な関係にならなかった。繰り返しをしていた当時から願っていた事が叶えられた。瞼を閉じても眠る気にはなれず、何かをしたい気持ちもない。時間が過ぎていくのを感じるだけなのも嫌。面倒臭いと自分自身で苦笑いを零し、ベッドを降りたファウスティーナは部屋を出ると庭へ向かった。こんな時こそ、花壇に咲く花を眺め気持ちを整理するのが1番。
誰とも会いたくない願いは叶った。庭には誰もいない。誰かが来ても話をしたい気分ではなく、奥の方へ足を運んだ。
小さな蕾達が生えている花壇の前を選んだ。白い蕾をしているなら、開花したら美しい真っ白な花を見せてくれる。咲いたところも見てみたいなと蕾に顔を近付けた時だ。
方向は邸内で間違いない。小さいがエルヴィラの泣き声が届いた。蕾から顔を離したファウスティーナは庭を離れ邸内に戻った。エルヴィラは何処にいるのかと探し、血縁者の部屋が集中する2階に来るとある光景が視界に入った。
母リュドミーラと手を繋いで泣きながら私室へと入って行ったエルヴィラ。侍女のトリシャもいた。
「何があったの……?」
「気にしなくていいよ」
「お兄様」
疑問を含んだ独り言はいつの間にか側にいたケインに拾われていた。横に立ったケインの横顔を見て――すぐに目を逸らしたファウスティーナは何故エルヴィラが泣いていたか薄々察した。
普段の無表情に絶対零度の冷気を纏い、静かな怒気が乗せられた声色を浴びせられたエルヴィラはすぐに泣き出し、泣き声を聞き付けたリュドミーラやトリシャに後を任せたと見た。
「またお兄様を怒らせるような事を言ったんですね……何を言ったかは大体想像はつきます」
「まあ、その通りだと言っておくよ。ねえ、ファナ」
気分転換に読書をしようと書庫室へ誘われ、お互い近い場所で本を探し始めた。
「殿下と婚約破棄になってしまったけど、前に俺が言った領地運営でもする?」
「私に出来ますか?」
「やってみなきゃ分からない。何事も経験さ」
今を合わせて5度も繰り返しているケインが言うと言葉の重みが違う。
「表向きエルヴィラは王太子妃候補になった。本人は、王太子妃になる気満々みたいだけどどのループでもエルヴィラが真面目に勉学に励んだ事なんてない。ファナの時は?」
「私も思い出した限りありません」
「だろうね」
1冊の本を選び、ページを捲って本を閉じたケインは元の位置に戻し次の本を探した。ファウスティーナは1冊本を選ぶと書庫室に入った時に運んだカートに載せた。
「俺が経験している5度目の今はイレギュラーな事ばかり起きている。が……エルヴィラに関してだけはイレギュラーは起きないと思ってる。王太子妃になると意気込んだところで結局逃げ回っていたツケが回り、シエル様や周囲のゴリ押しによって王太子妃になれたに過ぎない」
王太子妃になれてもお飾り。王太子の側で微笑み、仲睦まじい夫婦を見せればいいだけの。
「知らない方が幸せとは言うけれど、エルヴィラを見ていると強ち間違ってはいないと実感させられる。知らないだけで幸福の頂点に立てるのも恵まれた運命の持ち主かもしれないね」
皮肉が込められた言葉であるがケインの複雑な心情が混ぜられている。そう思わずにはいられない。
――その日の夜。ケインと書庫室で本を見繕った後、夕食の時刻までファウスティーナの部屋で2人読書をした。今日はエルヴィラと一緒の食事は遠慮したい気分であったものの、エルヴィラがケインと顔を合わせたくないと言い張って食堂に来なかった。リュドミーラはエルヴィラ1人で食事をさせられないとエルヴィラの部屋で夕食を摂る事となった。これ幸いとファウスティーナは食堂で食事を摂り、食べ終わると入浴を済ませ、後は眠るだけとなった。
ベッドに入って目を閉じた。意識が眠りの底へ落ちていくのを期待するが眠気がないせいで眠れない。
「はあ」
平常心、平常心を心掛けようと身体は正直なもので全く眠れない。
「お兄様まだ起きてるかな」
時計を見る。後1時間で日付が変わる。書庫室で選んだ本を読んでいるかもしれないという淡い期待を抱いてベッドを降りようとすると――扉がノックされた。
「ファナ。起きてる?」
「お兄様? 起きてます」
訪問者は会いに行こうと決めたケイン。部屋に入ってもらうとケインは片手に持つ子豚のピギーちゃんランタンをサイドテーブルに置いた。
「お兄様って、リュンに貰ったピギーちゃん道具を律儀に使ってますよね」
「使わないとリュンがうるさくてね。使い心地をよく聞かれる」
ランタンだけではなく、マグカップやハンカチ、時にピギーちゃんの顔をしたクッションまで贈られる始末。何処で購入しているのか知りたくなってしまう。
「お兄様も眠れませんか?」
隣に腰掛けたケインに問うと頷かれた。
「ファナも同じかなって思ったんだ。眠れない?」
「寝ようと目を閉じていましたが全く」
「仕方ないさ。事が事だ。それともう1つ」
「他に理由が?」
「多分、ファナのところに来るんじゃないかって期待してみた」
何の期待か訊ねた。ら――
「それって俺が来るのを待ってたって意味?」
よく知っている男性の声。真夜中、状況が状況だけに来ても不思議じゃないと内心ファウスティーナも予想していた。
声のした方へ振り向くと予想通りの人ともう1人予想外な人がいた。
「え」
頭に巻いていたスカーフを外し、落ち着きがなさそうに瑠璃色の瞳の視線を動かすのは――ベルンハルド。
「妹君と“運命の恋人たち”に選ばれたせいでお嬢様と婚約破棄をさせられちゃった王太子様が可哀想でさ。連れて来ちゃった」
ファウスティーナとケインの想像通りの人――ヴェレッドは悪びれもなく告げ、固まっているファウスティーナの前まで椅子を持って来るとそこにベルンハルドを座らせた。
「婚約破棄してしまった以上、王太子様とお嬢様は気兼ねなく会えなくなるんだ。今夜が最後だと思って自分の言いたい事を全て出し切っちゃいな」
読んでいただきありがとうございます。




