最後にわらったのはーー30
不意にファウスティーナがエルヴィラが見る悪夢について改めてケインに訊ねた。
「お兄様。エルヴィラが見ている悪夢は、お兄様の言う4度目の時何かあったからですか?」
「うん? ……まあ……ある意味じゃあね」
「私が聞いても良いなら聞きたいです」
「……」
無表情のまま、どこか言い辛そうにするケイン。体調を悪くする程の悪夢は、4度目の際、エルヴィラに余程の出来事が起きたんだと改めて認識した。向かいに座るアエリアの顔色は些か悪い。アエリアの名を発しかけたファウスティーナを止めたのはアエリア自身。
「妹君の悪夢とファウスティーナ様や王太子殿下は関係ありません。可哀想ではあるけれど……誰にも助けることはできなかった。これだけはハッキリ言います」
「アエリア様……」
詳細は語らずともアエリアの強固な姿勢や声色を聞き、ファウスティーナもそれ以上は聞かなかった。
引き下がったファウスティーナがそろそろ王都に着くと声を掛けたヴェレッドと話す最中、アエリアはこっそりと安堵の息を吐いた。ファウスティーナが追及してこなくて良かった。
——ファウスティーナ様だって、エルヴィラ様がどんな目に遭わされたか聞けばきっと悲しむ。私でさえ、あんな目に遭えばいいと思っていなかったのに……
アエリアがその気になれば強引にでもエルヴィラを助けられた。両者無傷とはいかなくても。
あの時のネージュの姿が忘れられない。アエリアの知る、側妃を気に掛け、周囲の状況を的確に読んで動き、他者を自然と信頼させてしまう天使のような微笑みを浮かべていたネージュは何処にもいなかった。
昏い紫紺色の瞳が必死に助けを求めるエルヴィラを見下し、天使のようだと褒め称えられる微笑みは相手が不幸のどん底に堕とされようと変わらない色を纏っていた。
——あの時私がもしもエルヴィラ様を助け出していても、ネージュ殿下は止めなかったでしょう……
動こうと思えば身体は動かせた。長年地下に封印されている元王太子からエルヴィラを助け出せた筈。
怖かった。
恐怖に屈し身体が動かなかった。
『お勧めはしないけど、最後まで見ていたいなら此処にいるといい』
地下牢を去ったネージュが何をしようとしているのか、止めなければと考えた直後、氷の如く固まっていたアエリアの身体は動いた。エルヴィラの助けを求める声を音楽に地下牢を飛び出したのは現在でも鮮明に思い出せてしまう。待って、見捨てないで、助けてアエリア様と泣き叫ぶエルヴィラの声も同じように。
もしも、もしも、前のようにエルヴィラが元王太子に襲われ、現場に駆け付けられたら。
——今度は……助けられるの? 私に……。
自問自答の正解性を指摘してくれる人は——誰1人としていない。
王都に戻ったのは夕刻になる手前だった。
馬車からファウスティーナ達が下車するとヴェレッドは返却の手続きをしに行ってしまった。
「リュンはまだ眠っているのでしょうか?」
「時間が掛かるから、相応の対処はしてくれている筈」
「アエリア様のお付きの人も大丈夫ですか?」
「私の方は、戻るまでそこで待機していなさいと命じられれば必ず待ち続けます。ラリス家の使用人は皆辛抱強い者が多いのよ」
アエリアの使用人も心配はないと知るとヴェレッドが「お嬢様〜、坊ちゃん達〜」と戻った。側にはとぼとぼと後ろを歩くリュンもいる。
「ヴェレッド様。リュンはどうしたの?」
「どうしたもこうしたもありません……ケイン様やお嬢様達のお供を仰せつかったのに、どうしてかついさっきまでずっと眠ってしまっていて」
落ち込んでいる理由にリュンは一切の非はなく、かと言って事実は話せないのでファウスティーナとケインは疲労が知らない内に溜まってしまって身体が自衛機能を働かせてしまったのだと慰めた。
「さて、帰ろうかファナ」
「はい、お兄様。アエリア様、今日はお付き合い下さりありがとうございます」
「いいえ、私も非常に有意義な時間を過ごせました。また、お誘い下さるのを楽しみにしております」
全員当たり障りのない別れの言葉でこの場を解散した。
——城に戻ったヴェレッドが真っ先に向かったのはシリウスがいる執務室。ノックもなしに入るとオルトリウスやシエルもいて。「こらローゼちゃん! ちゃんとマナーを守りなさい!」とオルトリウスから小言が飛ばされるも右から左に聞き流し、険しい表情で机に肘を付き考え込むシリウスを見下ろした。
「怖い顔してるねえ王様。そんなんじゃ、歳を取った時怖い顔のお爺さんになっちゃうよ」
「……」
ヴェレッドの嫌味にいつもなら言い返すシリウスなのに、今日に限って何も言わず、顔すら上げない。オルトリウスも咎めず、シエルに至っても無言のまま。異様な雰囲気にヴェレッドも愉快気な笑みを消した。
「……大の大人が3人も揃ってなんなの? 悪い予感がぷんぷんする」
「ああ、的中してる」
「ねえシエル様。教えてよ、何があったの?」
幾許か間を置いたシエルはこう発した。
「——ベルンハルドとファウスティーナの婚約破棄が決定した」
ヴェレッドが入室した時以上に静まる室内。呼吸音がやけに大きく響く。薔薇色の瞳を瞠目し、盛大に口元を引き攣らせるヴェレッドはゆるゆると首を振った。
「今日って嘘を言ってもいい日だっけ?」
「年に1度の日でもお断りな嘘だよ。もう決定された。ベルンハルドにも伝えてある」
「……お嬢様には?」
「すでに公爵家の方に使いは出してある。後は、公爵が何時あの子に話すかだ」
王都に戻る道中に感じていた嫌な予感は的中してしまっていた。重たく紡がれたシエルの言葉をシリウスもオルトリウスも反論しない。
シエルが今し方告げた言葉は全て事実。
「どうしてそうなるの?」
険しさを増した薔薇色の瞳が困ったと言いたげに瞼を伏せたオルトリウスを睨め付ける。
「運命の女神が決定した運命を否とする場合、相応の代償を払わないとならない。ベルンハルドちゃんとエルヴィラちゃんが“運命の恋人たち”と認められない以上ね」
「王太子様にだけ負担が大きくない?」
「運命を否とする理由がエルヴィラちゃんにはなく、ベルンハルドちゃんにあるからさ」
ファウスティーナという婚約者がいる身で運命の相手は別にいるベルンハルドが代償を払うことで女神の決定を否としようと不興を買う確率が低くなる。ぼそりとヴェレッドが「フォルトゥナはこれくらいで人間を見捨てたりしないっつうの」とオルトリウスにしか届かない声量で呟き、ベルンハルドの居場所をシリウスに訊ねた。部屋にいるとだけ聞くと理由を話さず執務室を出て行った。
向かう先はベルンバルドの部屋。
ファウスティーナには、ベルンハルドと婚約破棄になることはないと言ったばかりなのに間が悪すぎる。
「11年前に的確に戻れるなら、俺が“運命の輪”を使いたいくらい」
自身の好奇心を抑えられていたら女神の像は反応せず、ベルンハルドはただの王子と認識された。女神の生まれ変わりが誕生していると王家や女神の狂信者に知られることはなかった。ファウスティーナがヴィトケンシュタイン家に引き取られることはなく、予定通りフリューリング侯爵夫妻の養女になれていた。
「……フリューリング家の娘になっていたら……あの坊ちゃんとは兄妹にならなかったのか……」
辛口で対応されようと凍える冷気を纏った声で叱られようと常に正しさを示すケインには絶対の信頼を置くファウスティーナ。見ているだけで面白いのは、エルヴィラとリュドミーラだけじゃない、ある意味であの兄妹のやり取りを見るのも好きだった。
過去のファウスティーナがエルヴィラに嫉妬し周囲への評判を悪化させ悉く失敗したのも、ベルンハルドがファウスティーナに嫌悪感を抱いたのも、11年前やらかしてしまった己のせい。
ベルンハルドの部屋付近に到着し、扉の前でオロオロとするヒスイを退け、強引に部屋に入ったヴェレッドは入る間際ヒスイから聞き出した寝室の扉を蹴破った。
ベッドの上で蹲っていたベルンハルドは突然の訪問に驚いて顔を上げた。
「……やっほー王太子様。なあに? 怖い夢でも見たの?」
「……今は……1人になりたいんです……放っておいてください」
目は涙で濡れ、目元は赤くなり、涙声で突き放したベルンハルドに片方の眉を下げてヴェレッドは笑う。そこにいつもある愉快な色は一切ない。
「シエル様から聞いた。妹君と“運命の恋人たち”に選ばれたせいでお嬢様と婚約破棄になったんだって?」
「……僕は……こんな運命望んでない。クラウドが僕とエルヴィラ嬢の運命の糸を千切った、もう“運命の恋人たち”じゃないって言ったんだっ」
「それは王様やシエル様に言った?」
ベルンハルドは言っていないとゆるりと頭を振った。オルトリウスは恐らく知っている筈。言っていないのはイエガーを気にしてのこと。
ヴェレッドはベルンハルドの両腕を掴んでベッドの上に座らせ、自身は目線が合うよう腰を低くした。
「王太子様。真面目な話をしよう。喋りたくないなら首を動かして。王太子様は、このまま妹君と婚約したい? ぶっちゃけ、妹君は王太子様を慕ってる。ワンチャン、王太子妃になれるって言われたら化ける可能性だってある」
「……エルヴィラ嬢には申し訳ないと思う……僕は……ファウスティーナとこれからも一緒がいい……」
「妹君が深く傷付いても? 優しい王太子様は、自分を慕ってくれる妹君が王太子様に受け入れてもらえず泣き叫ぶ様を見てもお嬢様を選べる覚悟はある?」
「僕も何度か悪夢を見た。とても酷いものだった。ファウスティーナをすごく傷付けて、エルヴィラ嬢と婚約者のような振る舞いをしていた。どうしてあんな悪夢を見たのか僕には分からないっ、ただ、ファウスティーナを傷付けたくない、一緒にいたいんだっ。仮令それでエルヴィラ嬢を悲しませてしまってもっ」
「そう」
エルヴィラへの申し訳なさを出しながらもファウスティーナを選ぶと選択した姿勢は一先ず安心の類に入れる。
「王太子様。幸いなことに、王太子様とお嬢様の婚約は4年前お嬢様が倒れたお陰でまだ公に発表されていない」
王国に住む貴族の誰もがファウスティーナは王太子の婚約者と認識していようと王家が公にしていない現状実際のところは関係者以外不明なまま。
「この国は運命を大切にする。王太子様と妹君は運命によって“運命の恋人たち”だと、多くの貴族が目撃した。運命を否とするには、王太子様の努力が必要だ。さっきも言ったように運命の相手を拒否することで運命は間違いだったと思わせないといけない。本気でお嬢様を選びたいと言うなら、俺が王太子様に協力する」
「運命を否に……そんなことをしてフォルトゥナ神の怒りを買ったりしたら……」
「怒らないよあの女神様は。……王太子様がお嬢様の婚約者になっている時点で何もしてきていないのが証拠だ」
「?」
何でもないとヴェレッドは誤魔化し、ベルンハルドをベッドから下ろし、床に立たせた。
「王太子様がお嬢様を選ぶなら、俺だけじゃない、王様やシエル様だって手を貸す」
「うん……」
「早速、行動を開始しよう王太子様。
——真夜中、散歩に出掛けるよ」
涙で濡れた瑠璃色の瞳が丸くなってヴェレッドの放った言葉を理解すると今度は意味が分からないと眉を寄せた。
「真夜中に散歩だなんて城の者達に迷惑をかけてしまう」
「当然、周りに秘密で出るんだ。王様やシエル様には内緒だよ? 先代様も誰にもね」
行き先は勿論……。
ファウスティーナとケインもリュンが馬を動かす馬車でヴィトケンシュタイン邸に戻った。出迎えたリンスーに声を掛けているとクラッカーがやって来た。
「ファウスティーナお嬢様、ケイン様、旦那様が書斎に来るようにと」
「お父様が? 分かりました。行きましょう、お兄様」
「ああ」
どんな用事なんだろうとケインと2人、クラッカーを先頭にシトリンの待つ書斎へ足を運んだ。
読んでいただきありがとうございます。




