最後にわらったのは――⑲
心の中でケインの帰りを絶叫するリュンの頬から、一筋の冷や汗が流れていった。毎朝、ほぼ決まった時間に起こしに行くとケインは既に着替えを済ませていた。いつもは起きているだけで寝間着のままなのに珍しいと抱いた瞬間、此方に向いたケインは信じられない発言をした。
『リュン。悪いけど、今から外へ出るから父上達には上手く誤魔化しておいて』
『え、はい!? 外へって一体何処へ』
『内緒。俺は明け方近くまで本を読んでいたせいでまだ寝てるって言ってくれたら、少しは時間稼ぎになる。一応、ベッドは俺が寝ている風を装った』
言われて見るとデューベイが膨らんでいる。中をクッションで埋めてケインがあたかも寝ているように偽装した。行先も理由も言ってくれず、頼んだよ、とだけ言ってリュンの主は部屋を出て行ってしまった。残されたリュンは馬鹿正直にケインが出掛けてしまって今はいない、とは言えず結局ケインの言った通りの策で誤魔化した。
珍しいと言いながら、リュンの言葉を信じたシトリンの合図で朝食が始まった。
――ケイン様~! 早く帰って来て下さいよ~!
●○●○●○
一頻り笑うとやっと落ち着きを見せ始めたヴェレッド。空を見上げていたケインは笑い過ぎて過呼吸になっていないかと横を見やった。涙目どころか、雫が頬を伝って零れ落ちた。よほど面白かったと見える。当事者からすると全く面白くない。
「は~……はあーあ。やっと収まった。待たせてごめんね」
「いえ。そんなに面白いですか」
「面白いよ。現実に起きていた事なら尚更。今の王太子様と全然違うのは、お嬢様のお陰?」
「ええ」
今までのファウスティーナなら見過ごせなかった事は、現在のファウスティーナはスルースキルを身に付けてしまい放置する傾向にある。ベルンハルドとエルヴィラが良い例だ。前の2人が愛し合い、王国で最も幸福とされる“運命の恋人たち”になると知っているから、今回は早々に婚約破棄をしてあの2人が結ばれればいいと考えている。
あの時から3年経過しているお陰でちょっとは考えを変え始めている。良い傾向だ。まだまだ油断ならない物事は多くても。
「1つ聞いていい? 王太子様はさ、お嬢様が王太子様に見直してもらおうと努力している姿を知ってたのに妹君ばかり見ていたのかな?」
「……これについては殿下が教えてくださいましたよ」
聞いた時は心底呆れ果て特大の溜め息が出た。相手がベルンハルドであろうと関係ない。
ベルンハルドとてファウスティーナが必死に努力をして王妃教育に励んでいたのは知っていた。母である王妃がファウスティーナを何度も誉めていたからだ。また、王妃によって性格の悪い部分を矯正され、初めて会った時より格段に変わっていった。けれどどうしてもエルヴィラが絡むとファウスティーナは冷静さを失い、泣いて逃げて行くエルヴィラが可哀想だったと語られた。
ケインとしては面白くなくてもヴェレッドからすれば面白さしかなく、また笑い出しそうな雰囲気を察知した。隣を一瞥するとまた手で顔を覆っている。
「場所移します?」
「うっ、うんっ。ちょっと、立って、られないかも。俺に付いて来て」
あまりにも笑うから歩行は大丈夫かと心配になるも足取りはしっかりしており、黙ってヴェレッドの後を付いて行った。辿り着いたのは王宮から離れた大きな建物。過去の記憶から照らし合わせると此処は離宮。裏側から入ろうと言うヴェレッドに付いて行き、部屋が幾つか連なる場所に来た。その内の1つに入った。
テーブル、ベッド、椅子しかない質素な部屋。
「此処、俺が期間限定で使ってるんだ」
「何もない部屋ですね」
「離宮にいる間は、殆ど前の王様と一緒にいるからさ。此処へは寝に来るだけ」
「先王陛下……」
「そう。まあ、前の王様は話に関係ないし、続きを聞かせて」
椅子に座ったヴェレッドに促され、自分は何処へ座ろうかと思ってもベッドしかない為、端に腰掛けて続きを話した。
「殿下がファナとやり直したいと願った時には既に何もかもが遅かった。主にシエル様がファナに知恵を授け、周囲にベルンハルド殿下はエルヴィラが好きでエルヴィラが側にいるのがお似合いだと噂を流しました。どこかで1度でも、殿下がファナに歩み寄っていればそんな事は起こらなかったのかもしれない」
「シエル様ならやりそうだ。王様はどうしていたの」
「陛下は何度か婚約者をエルヴィラにしてやると殿下に言ったみたいですよ。その度に殿下は拒否していたとか。ファウスティーナと関係改善も謝罪も出来ないのにどうして拒否するのかと言い捨てられていたようです」
決定的な言葉を放つ前までベルンハルド自身もファウスティーナに歩み寄ろうとした時はあった。王妃教育を学びに登城すると偶にベルンハルドはファウスティーナの好きなスイーツとジュースを従者に用意させていた。が、どれもファウスティーナに振る舞われずに終わった。
どうして? と問われ、深い溜め息を吐いたケインは「ネージュ殿下に笑っていたから、だそうです」と淡々と答えた。
意味が分からないとニヤついた面で言われようがケインだって最初聞いた時は頭から疑問符が溢れた。聞けば、大きな木の後ろに隠れて泣いているファウスティーナをネージュが見つけ出す場面を何度か見ているのだとか。その度にファウスティーナは泣いてはいるがネージュに向けて笑っていた。
純粋な親切に対する感謝した笑み。自分には向けてくれないのに、ネージュには向けるのかと苛立ちを覚え用意したスイーツもジュースも片付けられた。
ここでまた大笑いが起きるか、とヴェレッドを見やればニヤついているだけで大笑いは起きなかった。
「なあに? また俺が笑い死にそうになると思った?」
「はい」
「はは。大笑いしてやりたいけど我慢してあげる。俺が大笑いする度に坊ちゃんの話を止めるのは悪いから」
実際は続きを聞きたくて仕方ないだけだろう。
「王太子様のそれを聞いた坊ちゃんはどう思ったの?」
「自業自得だと言いました」
「容赦ないねえ」
自分でもそう思う。直接ベルンハルドに言い放ったら、若干苛ついた表情をされたが他者を不気味な感情にさせる無の表情を出せば顔を青褪めた。ケインに言われずとも自分勝手な感情が自業自得へ追い込んだのと自覚していたからだ。
「貴族学院では、エルヴィラが入学したら余計あの2人の関係は悪くなりました。殿下は卒業までに関係改善が出来たら婚約を継続させる約束を陛下としていたみたいなんです。ファナの側に行きたくても、ファナの方は逃げるかエルヴィラを押し付けて殿下から逃げてばかり」
「王様がねえ……それ多分、無理だって分かってたからじゃない」
「と、言うと?」
「シエル様が過剰なくらいにお嬢様を守り、王太子様と妹君がお似合いだって周りに吹き込ませたのなら、もう2人の関係改善は不可能だって悟っている筈なんだ。王太子様と約束をしたのも、王太子様がしつこかったからじゃない」
有り得る話だ。散々周りからファウスティーナをよく見ろ、初対面での印象で勝手に人を決め付けるなと言われていたにも関わらず考えを改めず、逆に自分が見捨てられそうになるとファウスティーナに縋り始めた。シエルが動いたのも大きな理由の1つであっても、シリウスからしてもベルンハルドは既に切り捨てられていた。ただ王太子としての役目を実直に熟し、国内外からの評判も良かったから王太子のままでい続けた。
女神の生まれ変わりは必ず王族に嫁ぐ。ベルンハルドでなくても王子は他にもいる。成し遂げられない課題を態と与えたのもベルンハルドを諦めさせる為であった。
「メルディアス様が教師をしながら、ファナと殿下の様子を逐一報告していたのも頷けます」
「あいつ教師なんてしてたの? ああ、そういえば教員免許持ってるんだっけ……」
「それとファナが誘拐されたのは、今までだと2年生の時だったんです。今回は8歳になった直後でしたが」
「へえ」
誘拐の実行犯は此処にいる彼。既に実行犯は自分と知られていると感付いていそうなヴェレッドであるが、敢えてケインは触れず、誘拐されたファウスティーナを助けに行ったのがベルンハルドだと語る。けれど誘拐犯の1人に頭を強く殴打され気を失ってしまったが。
「そうなんだ」
「貴方も一緒に捕まっていたようですよ。ファナから聞きました」
「俺も偶にはドジを踏んじゃうの」
「そうですか」
嘘に触れず、納得したフリをする。偽りを述べるのも演じるのも2人揃って完璧に熟してしまう。
「そこで何があったか知りませんがファナと殿下の関係は急激に悪化しました。自分から態々エルヴィラを迎えに来てファナの前で特別扱いを始めました。はあ」
「お嬢様に本気で嫌われちゃったんじゃない。自棄になって妹君を愛でたってことは」
「既にこのタイミングで2人は“運命の恋人たち”になっています。当然、一緒の馬車で登校すれば周囲は女神が認めた恋人たちが愛し合っていると思うでしょう」
実際、そうなった。
唯一変わったのはベルンハルドとエルヴィラが一緒にいてもファウスティーナが何もしなくなった点。2人がどれだけお似合いか、自分はベルンハルドに嫌われているという印象付けを周囲にさせる為に2人が一緒にいて且つ、周りに人が多い時だけ絡んだ。その他についてはベルンハルドに挨拶をするくらいでファウスティーナが立ち去っている。
人が多くてももう絡む理由がなくなった。ファウスティーナは人があまり来ない静かな場所にいるのが好きなのに、ベルンハルドの方が態々エルヴィラを連れてファウスティーナの前に姿を見せだした。
耐えきれず吹き出したヴェレッドが天を仰いで両手で顔を覆い、微かに肩を震わせている。待つか、と見ていたら割と早く手を離した。
「お嬢様仕返しされたんだ」
「見方によってはそうかもしれません。お陰でエルヴィラは早く婚約者の座から降りろとファナに強気でしたし」
口では何でも言える。王太子妃になれる令嬢に相応しくなれと大量の問題集や本を与えたら大泣きされ、自分の部屋へと逃げられた。ベルンハルドが側にいる時にも言ってやると泣いてベルンハルドに助けを求めていた。ファウスティーナがいる時もあった。その時は泣いているエルヴィラを無下に出来ず、かと言ってケインを非難することも出来ずにいるベルンハルドや泣くしかしないエルヴィラに冷めた目を投げ付けファウスティーナを連れて行った。
「エルヴィラを側に置く方が状況が悪くなるとどうして殿下は分からなかったのか……」
「単純だよ。お嬢様の気を引きたい。これだけ。自分に無関心な相手の気を引くってさ、全然簡単じゃない。効果の強いものを考えれば、妹君を側に置くのが1番効果があるって王太子様は判断したんじゃない」
「でしょうね」
「ねえ坊ちゃん。お嬢様と王太子様は結局結婚したの? してないの」
「卒業間近でファナがエルヴィラを殺す計画を企てていると殿下が気付いて婚約破棄と公爵家の追放が決まりました」
殺害計画を練ったのは貴方ですよ、と告げれば、愉快そうに嗤うだけ。
「ファナはあくまであたかも自分で計画した風を装っただけです」
「うん。お嬢様は人を殺す計画なんて思いつかないよ。俺かシエル様かのどっちかだとは思ったよ」
「態と殿下に知られ、逮捕された。ただ、ファナが計画したんじゃないと知っている人はいます」
先ずは国王夫妻。計画書の文字はファウスティーナに似せられているが所々素の文字を紛れ込ませた為、計画の立案者はヴェレッドだとシリウスがすぐに気付いた。かまをかけられたファウスティーナはまんまと嵌まってしまって知られたのもある。リオニーやシエルもそう。シエルに至ってはヴェレッドが話をしていたから初めの内に知らされている。シトリンも。
「へえ。妹君や公爵夫人は信じなさそう」
「疲れるので母上とエルヴィラの説明は無しにしても?」
「あ、はは。いいよ」
実際に疲れるのだ。
「ファナはシエル様の所に送りました。俺が考える中で最も安全で幸せに暮らせるのがシエル様の側だと考えたからです」
「っていう事は……坊ちゃんは、お嬢様がシエル様の娘だって知ってるんだ」
「知ってます」
初めて知った時、大した驚きはなかった。
自分に似た娘と何事も完璧にやってしまう息子しか愛さない母。女神の生まれ変わりの時点でヴィトケンシュタイン家の血は引いているから、父が外で作った子、という考えも一時期あった。だが母一筋の父が不貞をするだろうか。もっと違う理由があると探った結果、ファウスティーナがシエルとアーヴァの娘だと知った。
本当の子供じゃないから、ファウスティーナが嫌いだったんでしょう?
何度目かの時、母に投げかけた言葉。即座に否定され、泣きながらファウスティーナの為だとしか言われなかった。ただその中にシエルとアーヴァの娘が嫉妬くらいで妹を傷付ける心の狭い人間になってほしくなかったという言葉があった。
『ご自分がファナの立場に立って嫉妬もせず、聖母のように微笑んでいられるなら俺に見せてください。自分に出来もしない事をファウスティーナに押し付けている時点で母上は心底ファウスティーナが嫌いだったんですよ』
『違うわ!! 私はっ、心の底から、ファウスティーナの為に、あの子の為に心を厳しくていたの……! 信じて……!!』
母の言う信じてほしいという言葉ほど、信用に値しない言葉はないと当時のケインは言い捨てた。
息子に拒絶され、見捨てられた母は泣いているだけだった。
「……時々、俺が女の子に生まれていたらどんな風になっていたのかって思うんです。母上やエルヴィラと同じだったら、ゾッとする」
「どうかな。坊ちゃんがお嬢様でもきっと変わらなかったんじゃない。変わらず、正しい側にいた。ファウスティーナお嬢様が1番信頼する人」
「俺はファナが思うような良いお兄ちゃんでも人間でもありません」
悪夢に苦しむエルヴィラを見捨てている。いや、もう何度も見捨てている。
「そう? でもさ、シエル様と坊ちゃんを天秤に掛けてどちらを信じる? ってなれば、お嬢様は坊ちゃんを選ぶよ」
椅子から降り、ベッドの端に座るケインの足元に跪いたヴェレッドの瑠璃色の瞳が自分を見上げる。
「お嬢様の坊ちゃんへの信頼は絶対で絶大なんだ。たとえ、君自身がそう思っていてもお嬢様からすれば良いお兄ちゃんで良い人なの」
「……」
こういう時は揶揄ってきそうなのに、笑みは見せても揶揄いの色はない。
瑠璃色の瞳から逸らさず、次に語ったのはエルヴィラの悪夢についてだ。心当たりがあると言い、地下に封印されている元王太子の所に投げ込まれたからだと話すとヴェレッドの顔色が変わった。
「ファナが追放された後、殿下とエルヴィラは結婚し、エルヴィラが王太子妃になりました。側妃になった女性に対して、いつも王太子の子を産むのは自分だと豪語するものだから、なら王太子の子を孕めと俺の協力者がエルヴィラを元王太子のいる牢の中に入れたんです」
「は……よっぽど、妹君が嫌いなんだねえ。坊ちゃんの言う協力者ってさ……」
敢えて先は言わず、ケインの口から出るのを待たれる。
今の5度目を無事に終わらせるには、彼の協力が必要不可欠だ。幾分か無言を貫いた後――
「ネージュ殿下です」
ネージュの名を出した。




