過去―彼女がいない後③―
今回はネージュとベルンハルドの回です。
教会の最奥。
圧倒的スケールのステンドグラスに囲まれた上層礼拝堂の中。
王国が崇拝する姉妹神、フォルトゥナとリンナモラートが描かれたステンドグラスに見下ろされるように、赤と白の薔薇の花弁に埋もれている男性が1人。蜂蜜色の髪は太陽の光を受けて一層輝き、日焼けを知らない肌は白い。
左手で花弁を鷲掴み、口元に手を持っていきそっと口付けた。
上層礼拝堂は王族、貴族しか入れない。故に、王国の第2王子である男性――ネージュ以外、此処には誰もいない。
『ねえ』
筈なのに、ネージュは話し掛けるようにそのままの体勢で声を発した。
『君は何を怒っているの?』
ネージュの声以外、何も聞こえない。
誰も声を発する者はいない。
『国中の人がお祝いしていたじゃないか。“運命の恋人たち”である、王太子と王太子妃の結婚を』
『“運命の恋人たち”を引き裂こうとした悪女は、王太子によって追放された。悪者は何処にもいない。なのに、何が不満なんだろうね。君も、兄上も』
『いや、君の怒りと兄上の怒りは種類が違うか。兄上の怒りの理由を君は知ってる?』
思い出し笑いをするネージュの声に応える者はやはりいない。
『エルヴィラ嬢と結婚して半年。兄上は未だに探し続けているんだ、捨てた元婚約者を。ん? 兄上が彼女を見つけたい理由? さあ? 兄上本人に聞いてよ。聞いても、怖い顔をするだけで教えてくれないだろうけど』
花弁を鷲掴んだ手をだらんと赤と白に埋め尽くされた床に投げた。
『ぼくの考え? 君はどう考えてるの? ……あ、はは。そうだねえ……兄上はきっと追放などせず、法に則って処罰したかったんだろうね。だって、裁判を待っている間、彼女は牢屋に入れられたままになるのだから』
『そうしたら……』
ネージュの言い放った言葉に、他に誰もいない筈の場内にその人は姿を現した。
ネージュは相手を見ず、姉妹神を描いたステンドグラスを見上げまま。
『心配? 誰の心配をしているの? 悲劇のヒロインであり続けたエルヴィラ嬢? 身代わり同然に王太子の側妃として嫁がされたアエリア嬢? それとも――』
やはりネージュは相手を見ず、ステンドグラスを見上げまま紡ぐ。
『今までの努力が実ることもなく捨てられたファウスティーナ?』
相手は何も言わず。
階段を降りて上層礼拝堂を去った。
無情の紫紺の瞳がステンドグラスから、相手がいた方を向いた。
そこにはもう、相手はいない。
――否、相手はいる。但し、先程までネージュが会話をしていた相手ではない。
ネージュの兄ベルンハルドがいた。
赤と白の薔薇の花弁に埋もれた最奥の床で寝転んでいるネージュを心配げな瑠璃色が見つめた。が、すぐに険しい色に変わった。ベルンハルドは大股でネージュの近くまで歩いた。
『さっき、何を話していた』
『兄上には関係のない話だよ。こんな所にいて良いの? 兄上の大事な奥方は、寂しくて泣いているんじゃないかな?』
『ネージュ、話を逸らすな』
『……ねえ兄上。ぼくはまだ怒っているんだよ。兄上は、ぼくの兄だから顔を合わせるし、話も一応するよ。でも、必要がある場合だよ。今はその必要性が感じられない』
『ネージュ……』
『ほら。早く戻って』
『……知っているんだろう』
『知らないよ』
何を、とは聞かない。
兄王子がずっと何を探しているのかは知っているから。ネージュは瞼を閉じた。これ以上は何も話すことはないと言わんばかりに。諦めたように溜め息を吐いたベルンハルドは踵を返し、下へ続く階段の前まで来ると足を止めた。
『ネージュ……私はお前が羨ましかった』
『……』
『偽りのない、素の感情を向けられていたお前が』
『……さあ? 何のことかな。ぼくには全く分からないよ。それより、早く戻りなよ。今頃、子供みたいに泣いているんじゃないかな』
『……そうだな』
靴音が消えていく。
この場にいるのはネージュだけになった。
瞼を開けるとファウスティーナと同じ、空色の髪と薄黄色の瞳の姉妹神がネージュを見下ろしていた。
また閉じた。
『……ぼくが羨ましかった、ね。体の弱いぼくの何が羨ましいって言うんだか』
ふふ……と口端を歪に吊り上げ、暗く静かに嗤った……。
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