最後にわらったのは――⑭
眠るベルンハルドの顔色は一向に良くならない。側で見守るヒスイは魘され、顔に浮かぶ汗を拭ってやるしか手がない自分に歯がゆい思いを抱く。時折口から漏れるファウスティーナの名前。初代国王ルイス=セラ=ガルシアと魅力と愛の女神リンナモラートを祝福する運命の女神フォルトゥナの絵画からルビーレッドの光を注がれた。エルヴィラと共に。王国でルビーレッドは愛を示す。選ばれれば必ず幸福になれる“運命の恋人たち”にエルヴィラとなってしまった。
「殿下……」
主が心から好いているのは婚約者だけ。エルヴィラはあくまでファウスティーナの妹だから親しく接しているだけだ。ヒスイが知っている限り、確かにエルヴィラはベルンハルドを慕っている。というか、誰の目から見ても分かる程に。ベルンハルド自身も漸く気付き始めているようだがエルヴィラはファウスティーナの妹なのだ、ファウスティーナに抱く気持ち以上のものは持てない。
婚約が結ばれて4年。最初の頃と比べ随分と距離が縮まった気がする。現在は叔父のシエルがいる教会でファウスティーナが身を寄せているのもあり、月に1度の訪問はベルンハルドの大きな楽しみとなっていた。
どうして女神はファウスティーナではなく、エルヴィラを選んでしまったのか。必ず幸福になれるからと言って人の心は簡単に変われない。ベルンハルドがエルヴィラに対しファウスティーナと同じ気持ちを持てるとは到底考えられない。
――側でヒスイが見守り続けていると悪夢を見続けているベルンハルドは知らない。
“運命の恋人たち”に選ばれた。相手がエルヴィラでなかったら、ファウスティーナだったら嬉しかった。必ず幸福になれると言われるそれになれたら、ずっと一緒にいられると喜んだだろう。何故女神はファウスティーナではなくエルヴィラを選んだのだろう。自分にはファウスティーナではなく、エルヴィラがお似合いだというのだろうか。
するとベルンハルドの前にぼんやりと光が広がり始めた。大きくなっていくにつれ、光の中にある光景が映し出される。それは今よりも大きくなった自分とエルヴィラに先程と同じく絵画からルビーレッドの光が注がれていた。多分これも『建国祭』の最中。呆然と……青い顔で絵画を見上げる自分の表情の心情は、さっきと同じ。皆が呆然とする中、たた1人エルヴィラだけが感涙していた。異様に思える姿にベルンハルドが呆然と見ていれば、大きな自分が抱き付こうとしてきたエルヴィラを躱して壇上にいるシエルに縋りついた。
『お願いです……っ、叔父上、どうか、嘘だと……!』
『……残念だけれどベル……私が嘘と言おうと姉妹神が認めたという事実は覆らない』
死にそうな表情で声色でシエルに救いを求めるも、シエルの言う通り、決定権を持つのは姉妹神。シエルが嘘と言おうと変わらない。気休めにしかならない。
力無く手が垂れ、項が垂れるベルンハルド。
知らないのに、知っている。
悪夢を見ていると知らないのに、知っている気がする光景を何度も目にしてきた。
ふと、こんな予想を立てた。
「僕が見てきた悪夢は……もしかして現実になっていたかもしれないって事なのか……?」
ファウスティーナと言い合いをし、何かの言葉を放った直後泣き出しその場を去ったファウスティーナの姿。
仲睦まじくエルヴィラと腕を組み、幸せそうに歩く自分の姿。
そして今の光景。
「僕の運命の相手はエルヴィラ嬢って事……? だから……ファウスティーナを傷付ける悪夢を見るの……?」
極めつけは“運命の恋人たち”と決められた瞬間、倒れそうになった自分を支えようと触れた瞬間吹き飛んだファウスティーナ。エルヴィラが触れても何も起きなかった。ファウスティーナが触れた時だけ起きた。
つまり、そういう事なのだろう。
「……」
瑠璃色の瞳から透明な雫が零れ落ちる。光景がいつの間にか変わっていた。場所は以前、シエルに教会内を案内してもらった時ファウスティーナと一緒に見た。王族の婚姻の際使用される間には、姉妹神の像が建てられていた。そこで司祭から祝福の言葉を授けられる。いつかは此処で自分もファウスティーナと……と想像した際、つい花嫁衣装を着て美しく着飾った未来の彼女の姿を脳裏に浮かべてしまい赤面した。運が良かったのか、人を揶揄うタイミングを常に狙っているヴェレッドは不在だった為誰にも気付かれなかった。
姉妹神の像から注がれるルビーレッドの光。周りにいる者達から感嘆とした声が漏れ、花嫁衣装を着るエルヴィラは感極まって涙を溢れさせていた。……場にそぐわないのは自分だけ。呆然と姉妹神の像を見上げていた。
また光景が変わる。今度は恐らく王城で開催された夜会。中央で自分が踊る相手はやはりエルヴィラ。どうして大切な者を見る目でエルヴィラを見つめているのか、額に口付けるのか、有り得ないと叫びたい光景に吐き気を覚える。
周囲の誰もが祝福している。
王国で最も幸福な男女。
女神に認められた恋人たち。
ファウスティーナは何処にもいない。何度光景が変わってもファウスティーナの姿だけがない。
「……い…………ファウスティーナに……会いたい……」
常に隣にいてほしい女性はいなくて、別の女性——エルヴィラ——しかいない光景を見せられ続けるベルンハルドの足下が沈んでいく。ゆっくりと体は沈んでいき、胸の辺りまで浸かった辺りで誰かの声がした。
「どうして不幸な顔をしているの? 彼女を選んだのは●●だよ?」
「ファウスティーナを捨てて、エルヴィラ嬢を選んだのは●●自身」
「●●は捨てられたって、自分を被害者のように語るけど捨てられたのはファウスティーナだよ。間違っちゃいけない。よおく思い出して……●●がなんと言ってファウスティーナを捨てたのか——」
姿の見えない誰かの声に呼応するように以前見た光景が映し出された。エルヴィラが好むフリルやリボンが沢山ついた可愛らしいドレスを着たファウスティーナと言い合う自分の光景に。
『お前のような者が婚約者になった僕の身にもなれ! お前は僕の唯一の汚点だ!!』
今まで声は聞こえなかったのに絶望的状況で聞こえた。鈍器で頭を殴られた衝撃を受けた。誰に対しても放っていい言葉の限度を超えている。言い放って冷静さを取り戻した自分は、顔を青褪め小刻みに震え涙を流すファウスティーナを見て同じ顔色となり、逃げ出したファウスティーナを追い掛けもせず立ち尽くしていた。
首近くまで浸かり、衝撃の光景を見せられ唖然とするベルンハルドにまた声が囁く。
「ほらね? 捨てられたのはファウスティーナの方でしょう?」
「……」
「逆に教えてほしいなあ。あんな酷い言葉を投げ捨てたくせに後になってやり直しを迫るその図太い神経がどこから来るのか。でもファウスティーナには受け入れられなかったんだ」
また、光景が変わった。子供の自分は大人になってシエルの側にいる男性といた。場所は両親が偶に散歩をしている温室。
ベルンハルドのよく知る彼はいつもベルンハルドを揶揄い、愉快そうに薔薇色の瞳を細めていた。光景の中にいる彼の瞳も愉快そうに薔薇色の瞳が細められているが決定的な違いがあった。他者を震え上がらせる冷たく鋭利な雰囲気を纏い、尚且つベルンハルドへ向ける表情には明らかな軽蔑が滲んでいた。
『しつっこい。ほんっとうしつこい。いい加減にしろよ。王様から止められてるのに、シエル様もいい加減にしろって通告してるのに何で止めないの? 未だに自分は被害者だって思ってるわけ?』
声色や言葉もそう。シリウスにだってここまで攻撃的な言葉は使わない。苛立ちを隠そうともしない彼に怯まず、大きなベルンハルドは悔し気に唇を噛み締めながら頭を下げた。
『頼む……っ、もう、貴方しかいないんだっ。ファウスティーナが何処にいるか教えてほしいんだ、直接会いたいとは言わない、一目見られればもう2度とファウスティーナには会いに行かない。ファウスティーナについて何も聞いたりしない。だからっ』
『女神の選択で妹君が運命の相手だと王国、いや、近隣諸国の人だって知ってる。王太子様が未だに元婚約者を気に掛けていると知るのはこの国の限られた連中だけ。最も喜ばしい恋人がいるのに、他の女を気にしていると知られたら未来永劫王国は馬鹿にされ続けるよ? さすがの俺もそれは看過出来ない』
『一目、でいいんだっ。それ以降は絶対にファウスティーナの名前を出さないと誓う』
『王太子様の言葉ってさ、何にも信用出来ないんだ。お嬢様が王太子様の言葉を信用出来ないのがよく分かるよ。……シエル様がガチギレする前に王太子様。ちょっとだけ頭の中弄らせてもらうからね』
長らく浮かんでいなかった愉快な色が一瞬現れ、ハッと顔を上げたベルンハルドの腹に足を入れ後方へ飛ばした。もろに食らったベルンハルドは両手で腹を押さえ、湧き上がる吐き気と痛みに耐え上体を起こした。助けを呼ぼうと口を開き掛けたら彼は嗤った。
『ああそうだ、助けは来ないよ。王様が許可したからさ、多少手荒な真似をしてもいいから王太子様を諦めさせろって、さ。温室の周辺には今誰もいない。声を上げても誰も来ないよ』
『……』
大好きな叔父だけではなく、父にすら見捨てられていると知り、体は遂に鼻の上まで沈んでいく。その後を知りたくても光景は消えてしまい、次の光景は映されなかった。
どうしてファウスティーナにあんな酷い言葉を放ったのだ。誰に対しても向けていい言葉じゃない。
「●●、貴方が幸せになる為に必要なのはファウスティーナじゃなくてエルヴィラ嬢だってよく分かったでしょう? ファウスティーナに拘るから貴方はいつまで経っても不幸なままでいる」
“運命の恋人たち”は王国で最も幸福な男女。ファウスティーナを捨て、エルヴィラを選べば幸福な未来が待っている。4年間積み上げた信頼も絆も思い出も捨て……確定された幸福を選ぶ……。
頭の天辺まで体は沈み……かけた時……脳裏に浮かんだのは――運命の相手ではない、心の底から好きな人の姿。『リ・アマンティ祭』で手を繋ぎシエルの許へ駆け出した時に向けられたファウスティーナの笑顔。ずっと一緒にいたいと願う人の笑顔を向けられるだけで心を満たしてくれると教えてくれたのはファウスティーナであってエルヴィラじゃない。
暗闇の底へ完全に沈みかけていたベルンハルドの体が強い力で地上に引っ張られる。驚くベルンハルドの耳が拾う。
“殿下……ベルンハルド殿下”
真っ暗な天井から吊るされた1本の黄色い糸。
聞こえていた声の主はいない。
誰に言われる訳でもなくベルンハルドは糸を掴んだ。強く引っ張ったら切れてしまいそうなのに、いざ掴むと糸は頑丈でベルンハルドが強く引っ張っても千切れる心配がない。糸が上昇していき、ベルンハルドの体も上がっていく。下からエルヴィラの声が何重にもなってベルンハルドを呼ぶがベルンハルドは下を見ない。
糸の先に見える淡い光に近付くにつれ、自分を呼ぶファウスティーナの声が大きくなる。
ファウスティーナに会いたい。
ただ、その一心で。
●○●○●○
「ん……」
最初見ていた悪夢から脱出し、気付くと意識が浮上していたベルンハルドは重たい瞼を開いた。汗をかいていたから服が張り付いて気持ち悪い。誰かを呼ぼうと顔を横に向けたら、心配そうに自分の顔を覗き込むファウスティーナの薄黄色の瞳と合った。数秒沈黙が降り、舞踏会場での出来事を思い出すと勢いよく起き上がりファウスティーナから距離を取った。触れたらまたファウスティーナが吹き飛んでしまうと恐れて。
「だ、大丈夫ですか? 殿下」
「う……うんっ。そ、それよりファウスティーナはどうして此処に? 今、僕に近付いたら危険なのに」
「……多分もう大丈夫じゃないかな」
部屋にいるのはファウスティーナだけではなかった。よく見るとファウスティーナの後ろには、体のあちこちから煙が上がって疲れ果てているクラウドとクラウドを支えるケインがいた。
「クラウド? どうしたんだ、それ」
「あー……はは……ごめんねベル……。説明してあげたいけど、今日はもう限界」
「い、いや、それよりすぐに手当てをしてもらおう! 人は呼んだの?」
まだだと答えられるとサイドテーブルに置かれている呼び鈴を取ったベルンハルドに待ったが掛けられた。
クラウドだ。
「この後すぐに医務室に行くから。ねえベル、ファウスティーナ様に触れてみて。さっきも言った通り、もう大丈夫の筈だよ」
「だ、だけど」
顔を上げたクラウドに瞠目する。額から頬にかけて血が流れていた。折角の正装も煙が上がっている所が焦げているせいで台無し。一体、何をしたのかと問うても先にファウスティーナに触れるのが先だと急かされる。
もしもまたファウスティーナが吹き飛んだら、と躊躇するベルンハルドの目前にファウスティーナが迫った。吃驚するベルンハルドに構わずファウスティーナに手を握られた。
……何も起こらない。大きな静電気を発生させ、小さな体が吹き飛んだ光景は死ぬまでベルンハルドのトラウマになるだろう。2度目の吹き飛びは起きなかった。ホッと安堵するファウスティーナとベルンハルド。何も起こらないと解るとファウスティーナの手が離れていった。
「申し訳ありません殿下。突然握ってしまって」
「僕は大丈夫」
寧ろ、申し訳なくなったのはベルンハルドだ。悪夢を見ていた影響で全身汗だくで掌も汗に濡れていただろうに、嫌な顔をせず拒絶されないと判明し安心しているファウスティーナに何も言えなくなる。
「ファウスティーナ様が持っていた飴のお陰で何とかなったけど……間違いなくファウスティーナ様が会った飴の店主はフォルトゥナ神だ」
「先代司祭様が言った通りだったのですね……。飴は置いて来たのにどうして持っていたと思いますか」
「女神本人に聞いてみれば……はあ……この間といい、さすがにちょっと働ぎ過ぎたね。眠くなってきた……」
「はいはい。手当を受けてから寝てねクラウド」
1人だけ話の内容が掴めないベルンハルドであるが、大怪我を負っているクラウドの手当てが最優先だと告げ、今度こそ呼び鈴を鳴らし人を呼んだ。




