危機は脱した
膝から崩れ落ちたシエルの手が触れる柄。それが何を意味しているのか、分からない無知じゃない。高笑いを上げていたグリマーが突然前方へ倒れた。後ろには大層な焦りを浮かべたヴェレッドがいて。余裕のない罵倒をシエルに放った。ハッとなったファウスティーナがシエルに駆け寄った時、頭にシエルの手が置かれた。柄に触れている手とは違う手。青褪めた表情でシエルを呼ぶとポンポン頭を撫でられる。
「君が来たってことは、向こうは片付いたのかな?」
「ああ片付いたよっ、多分全部始末した。いい加減その悪趣味な演技止めろって」
「悪趣味ねえ」
軽快な声と共に立ち上がったシエル。手に触れていた柄を腹から離した。刀身には確かに血が付着しているものの、刃の先だけで刀身自体もかなり短い。
「今回ばかりは覚悟したよ。彼女が折れた剣を持って来てくれたお陰で大事には至らずに済んだけれど」
「し、司祭様、け、怪我は?」
「ああ。掠り傷みたいなものだよ。心配無用さ」
「よ、良かった」
てっきりシエルが刺されたのだとばかり思っていたファウスティーナは腰を抜かして地面にへたり込んだ。声を上げたケインを一瞥すると彼も力が抜けたように座り込んでいた。誰の目から見てもシエルが刺されたと最悪の展開を予期した。実際は刀身がかなり短くなっていたお陰で無事で済んだ。
短刀を捨てたシエルの手には小さな傷があった。グリマーの手を押さえる際に短刀を握り怪我をしたのだ。シエルが握っていた柄の部分にも血が付着していた。自身の司祭服を千切って器用に結ぶと未だ不機嫌なヴェレッドに苦笑した。
「珍しいね、君が慌てるなんて」
「俺だって慌てるよ。王様だったら、もっと慌てたかもね」
「あーはいはい、どうでもいい」
「あっそ」
普段と変わらない2人のやり取りが多大な安心感を齎す日が来ると誰が思うか。ふと、クラウドの姿がないとケインが漏らすと「ここだよ」と本人の声が間近に。視線を動かしているとケインの側にいた。気配を隠すのが上手である。
多少衣服や顔は汚れていても無傷な姿に安心した。
「ファウスティーナ様とケインが無事で良かった」
「クラウドも無事みたいだね」
「僕はね。怖い人達は、皆僕を怖がって向かって来なかったから」
「そう」
「無力な子供を怖がるって不思議な大人達だよ」
「無力、ね……」
微妙な顔をするケインの気持ちが分かる。無力と言いながら、簡単に他人の運命を閉ざせるクラウドの能力を“女神の狂信者”達は非常に恐れている。近付けば死を招く死糸に触れられる。距離が遠くても己の運命の糸を見つけられてしまえばそれで終わり。遠距離から射殺を試みても同じ。同じ場にフリューリングがいれば更に困難となる。
フリューリング家の当主が率いる救援がもうじき到着すると涼しい声でクラウドが告げると一気に緊張がなくなっていった。
「やっと帰れますね……」
「はあ……さすがに疲れたよ」
「お願いが通るなら、湯浴みをさせていただきたいです……全身汚れて汗だくで着替えるだけじゃ気持ち悪いですから」
「同感。早く帰りたいよ」
こうやって他愛もない会話を出来るのも無事に帰れるという確証が出来上がったからだ。何度か命の危機に陥るもその度に救われ脱出した。前回の人生でここまでの危険があったかと問われると――分からない、しか出ない。自分よりも詳しいアエリアに今度聞いてみよう。彼女の場合は知っていても「自分で思い出しなさい」で終わりそうだが。
ケインと笑い合っていると突然呻き声がした。瞬時に緊張するも声の主がヴェレッドに転ばされたグリマーだと知る。既にメルディアスが体を拘束していたので、目を覚ましても再び襲い掛かって来る心配はない。
暫し待ってもグリマーは起きず、また眠ってしまった。ホッとした息を吐き、哀れみの目をグリマーへやるメルディアスに今後どうなるかを訊ねた。
「まあ、爵位剥奪は免れないでしょう。フワーリン、ヴィトケンシュタイン、公爵家の子供達に危害を加えたばかりじゃなく王族にまで手を出した。グリマー様の精神状態と母君の立場から処刑は免れても爵位剥奪に加え国外追放でしょうね。これでも軽い方ですよ」
「夫人の母君?」
「……城に戻ったら分かりますよ。きっと、その辺りは陛下達が既に動いているでしょうから」
「……」
未だにグリマーの家名を聞いていない。シエルへ聞きたそうに視線を送っても微笑まれるだけで教えられなかった。つまり、聞けば誰か瞬時に分かってしまう家名なのだ。
グリマーくらいの母親となると……。……不意に王妃宮で侍女長を務めるアレッシアが頭に浮かんだ。きっと、アレッシアくらいの年代の女性だ。何故アレッシアが頭に浮かんだかは不明だがそうであってほしくないと頭から消した。
「一旦屋敷に戻ろう」シエルの提案でこの場を離れた。腰を抜かしていたファウスティーナとケインは立てるようになり、2人手を繋いで歩いた。最初に手を繋いだのはファウスティーナ。どうしたの? と怪訝なケインに何となくと笑って誤魔化すと柔らかく笑まれた。滅多に見ない兄の表情に吃驚しつつも、とても嬉しかった。
「――あ」
屋敷の外観が見えた辺りまで来ると幾つもの馬と人がいた。彼等が着ているのは騎士の衣装。特に、黒の布地に金色の刺繍がされた上級騎士の衣服に身を包むリオニーはかなり目立っていた。多数の騎士へ指示を飛ばすリオニーの青の瞳が森から出てきた一行を捉えた。ファウスティーナを見るなり瞠目して駆け寄り、膝を折って目線を合わせ頬に触れた。手から伝える微かな震え。常に凛としたリオニーとは思えない姿に違う意味で吃驚すると強く抱き締められた。手を繋いでいるケインも巻き込んで。
「あ、あの、リオニー様」
「……怪我は、してないな」
「わ、私もお兄様も無事です」
「……」
手だけじゃない、声も些か震えていた。リオニー達には余程恐ろしい報告でもされていたのか。父の従姉であるリオニーに頭を撫でられた事はあっても、こうして抱き締められた事はあまりない。年に何度か顔を合わせてもどこか一線を引いた態度。子供が苦手、という風でもなかった。時折、青の瞳が酷く懐かしげで寂しそうなのが印象的だった。
今なら解せる。屋敷で見たアーヴァを描いた絵が語っている。
体を離したリオニーに問うてみた。
「リオニー様。私はアーヴァ様に見えますか?」
「いや……見えない。アーヴァはアーヴァ、ファウスティーナはファウスティーナだ」
初めてフルネームで呼ばれた。
「アーヴァは私の妹で、ファウスティーナは……、……」
従弟の娘だと言うだけなのをリオニーはかなり躊躇していた。声を発そうとしても唇を噛み締め口を閉ざした。言いたくないと、様子が語っている。リオニーを呼ぶと誤魔化されるように頭を撫でられ、立ち上がったリオニーは拘束されたグリマーや“女神の狂信者”の男を見るなりメルディアスへ生存確認を取った。
「息は?」
「ありますよ」
「男の方は地下牢へ運び自白剤を打たせろ。……夫人の方は」
何とも言えないと、苦虫を嚙み潰した表情を浮かべたリオニーだが間を空けて医務室に運べと騎士に命じた。その際、医師と見張りの女性騎士の手配も忘れず。
「来るのが随分と遅かったですね」とメルディアス。
「中々口を割らなくてな。先王妃の狂気に憑りつかれたのかと疑ったがそうでもなかった。……自分の子供可愛さで、限界まで口を割らなかったんだ」
「リオニー様が?」
「いや。王妃殿下が自ら。私よりも王妃殿下の方が適役だったろう。先王妃の狂気を知る王妃殿下の言葉は頑なな意思を解し、此処の場所を吐き出させた」
「あの、リオニー様」
人の会話に途中で割って入るのはマナー違反という自覚を持ちつつも、黒幕の話をしているメルディアスとリオニーにダメ元で誰の話をしているのか訊ねた。
今回巻き込まれた被害者たるファウスティーナ達には知る権利がある。
また、間を空けてリオニーはその名を紡いだ。
「アレッシア=アグニス殿。先王妃の時代から侍女長を務める方がほぼ黒幕だ」
読んでいただきありがとうございます。
漸くサブタイも変わりました。




