あなたが死んでくれれば➆
綺麗で美しかろうが何色でもそこに濁りが生まれると瞬く間に美しさの面影は鳴りを潜める。嘗ては美しい人であったろう女性は、濁った瞳でファウスティーナを捉えると口の両端を吊り上げ満面の笑みを浮かべた。やっと見つけたと、そう言わんばかりに。
「ファウスティーナ!」
「!」
行かなきゃ。
足を前に踏み出さなきゃ。
願っても女性の視線に縛られたファウスティーナは自身の意思では体を動かせなかった。視界に映る女性がゆっくりと此方に迫って来る。
逃げなきゃ。
でも体は動かない。
呆然としていると側から飛ばされた大声で我に返った。体も動けるようになった。
再度呼ばれた。ケインに。
言われる前に被り物を頭に置いたままファウスティーナは空洞へと近付いた。
空洞を潜れば下でヴェレッドが待っていてくれる。
腰を下ろし空洞の縁に座り、いざ、潜ろうとした時。背後から届いた悲鳴はファウスティーナを即振り向かせた。
「お兄様!」
「ファナっ、こっちは気にしなくていいから、早く行くんだ」
口の両端を吊り上げ満面の笑みを浮かべた女性に胸倉を持ち上げられている兄がいて。首が締まっており、苦し気に顔を歪めていた。振り向いたファウスティーナへ先を行く様声を飛ばす。
命の危険に晒されているケインを放って自分だけ助かろうという考えは――残念ながらファウスティーナにはない。
厚い被り物を頭に置いたまま、空洞から離れ女性とケインの許へ駆け出した。再度ケインから声が飛ぶ。
逃げるなら、一緒ではないとダメだ。
「えーい」
気の抜けた声がしたのと女性が後ろに倒れたのはほぼ同時だった。
女性の手が離れケインは解放され、床に抛られた。
倒れた女性の付近にはクラウドがいて、手に板を持っていた。
「役に立つと思って隠し扉を外した板を回収していたんだ」
「いつの間に、げほっ」
「大丈夫ケイン」
「クラウドの緊張感のない声のお陰で気が楽になったよ」
「あはは、褒めてないよね」
板で女性の膝を強く打って後方に倒れさせたらしい。倒れた女性が動き出し、ケインとクラウドが距離を取ろうとする前にファウスティーナが到着。「ファナ!」と声が飛ぶ。振り向かず、上体を起こしかけた女性に馬乗りになり被り物を顔に押し付け「お兄様! クラウド様! なんでもいいですからこの人の動きを封じてください!」
藻掻く女性をファウスティーナだけで押さえているのには限界がある。すぐに意図を察したケインが自分のクラバットを解き、暴れる足をクラウドと2人がかりで押さえクラバットを足首にきつく巻き付けた。相手の体が健康的だったら、女性でも自分達子供だと厳しいものがあっただろう。
「うわ!」
女性の動きを封じられて一瞬力を緩めてしまったファウスティーナは横に飛ばされてしまった。口の両端を吊り上げたまま怒りの形相に染まった女性がファウスティーナに迫るも、足首をクラバットで縛られ立てないと知ると焦燥に駆られだした。「ファナ!」とケインに呼ばれ、厚い被り物を回収して空洞へ。「ファナ、先に行って」今度こそ空洞を潜った。長いと思ったのも一瞬、出口に出ると視界を大きな物体が横切った。がしゃん、と音を立てて倒れたそれは人間で。
「タイミング良いねお嬢様。こいつ片付けたら戻ろうと思ってた」
顔に血が付着しているヴェレッドが振り向いて相手と彼を交互に見てしまう。
「此処にも?」
「ああ。お嬢様達に何かあったのかなって戻ろうとした矢先にこいつが来た」
ケインとクラウドが到着すると「すぐに出るよ」との声に物置小屋を出た。外に待ち伏せはなく、周囲に人の気配はない。屋敷の方からも声はしない。メルディアスが大方片付けているだろうとヴェレッドが予想しても、相手が分かれてファウスティーナを探している限り敵の遭遇は避けられない。ファウスティーナが空洞を通り抜けた直後に視界を横切った相手が正にそう。物置小屋を出て向かうのはファウスティーナとヴェレッドを乗せた馬車の許。自分達の企みを終えた後の移動手段は残していると踏んで。
「屋敷の正面に回るにしても、連中がいないとは限らない。俺が前を歩くからお嬢様達は後ろを歩いてね。なるべく距離を空けないように」
3人共が頷くとヴェレッドの後ろをついて歩き出した。
「さっきの女の人はもう来ないですよね……」
「女?」
抑々、空洞を通って来るのが遅れたのは、アーヴァの魔性の魅力に当てられた夫に捨てられ、娘と無理心中を図って生き残った女性に襲われたからだとヴェレッドに話した。ファウスティーナと邸内を室内捜査をしていた際、誰1人いなかった。ファウスティーナも同様。
ケイン達が室内捜査をした際には現れたのだ。死んでしまった娘のマディソンを探していた。
「他に人っているの?」
「……夫人の夫が瀕死の状態で部屋にいます。転落事故で負った大怪我の上に薬を被せて半死人状態にしているのだとメルディアス様が」
あれ? とファウスティーナは違和感を感じた。愛する夫がアーヴァの魔性の魅力に当てられ、妻子への溺愛は消え暴言と暴力を振るうようになった。説得の声を聞き入れず、愛娘にまで暴力の手が伸びた夫に絶望した夫人は娘と無理心中を図るも夫人だけが生き残ってしまった。そして夫は病死した。とシエルに聞いた。もしも、例の女性と半死人の夫がシエルの話に出てきた妻と夫なら違う点がある。
「司祭様から聞いた話と違いますね。転落事故ではなく、病死と聞きました」
「人によって知る情報が違うってこと? 司祭様が嘘の情報を掴まされるとは思えないな」
「……予想だけど、シエル様すら嘘だと見抜かれない徹底的な情報操作がされたんじゃない?」
転落事故を病死と信じ込ませる情報操作をするべき理由があっても、その理由が何かまでは見当もつかない。ただ、徹底的な情報操作をしたのはシリウスだろうとヴェレッドは推測する。シエルに知られたくない理由があるのだと。
貴族の死は病死でも社交界で噂になるのだ、乗っていた馬車が崖から転落し死亡する等とあっては噂好きの人々の恰好の餌食。被害者がアーヴァの魔性の魅力に当てられていた内の1人となると、余計な噂が立たない筈がない。
「メルディアスが知っているのは、事故を調査したのがあいつだったってだけ。シエル様の耳に事実が入らないようにと王様に進言したのも多分あいつ」
「アーヴァ様の魅力に当てられた方が事故に遭ったから、ですか?」
「さあ。その辺は、後で本人に聞いたら」
話している間にも馬車が停車していた場所に到着。
しかし――
鋭い舌打ちをしたヴェレッドや落胆するファウスティーナの前には、馬のいない馬車だけが残されていた。
「馬は野に放たれたか……」
「どうしましょう……リオニー様や司祭様達が助けに来るのを待ちますか?」
「いや……フワーリンの坊ちゃん。お嬢様と坊ちゃんの死ぬ確率はまだ高い?」
馬車の周辺を回っていたクラウドは肯定し、魔術師の力を持つリオニー様が来ないと大幅な死の運命回避は不可能だと告げた。
「リオニー様が来てくれるのを待つしかないか」とケイン。
「馬車の中に隠れていても、誰かが来たら意味がないですよね……」
「メルディアス様が後から来た連中を1人残らず屠ってくれていたら安心して待っていられるけど」
途中で言葉を切ったケインがヴェレッドへ視線を変えた。嫌な予感がしたファウスティーナも同じ方向に目をやると項垂れたくなった。周辺に全身黒ずくめで顔に仮面をつけた人間が3人いた。
手には剣が握られていて。
矛先は全てファウスティーナに。
被り物をギュッと握った直後、3人の人間が前触れもなく苦しみ出した。胸を押さえる者、頭を抱える者、喉を押さえのたうち回る者。似た光景をちょっと前に見たばかり。
クラウドの方を見ると見えない何かを放っていた。
敵の死糸を無理矢理引き千切り今の危険を脱した。
「ありがとうクラウド」
「どういたしまして」
「何度も使って大丈夫なの?」
「うん」
「そう」
「隠れられる場所も限られているし、逃げる場所もない。絶体絶命ってこういうのを言うのかな」
「冷静に話せる辺り、まだ絶体絶命って言うには早いよ」
「君といるからかな」
「同じ言葉を返すよ」
危険極まりないのは現実問題としても、2人の落ち着き過ぎる会話を耳にしていると不安や恐怖に振り回される自分の心に少しだけ余裕が芽生える。
前の人生の時だって、クラウドは兎も角1番長くいたケインが冷静さを欠いたところを見た試しがない。何時だって冷静で決して取り乱さず、間違った判断はしない。ケインに言っても買い被りすぎだと叱られてしまってもファウスティーナにとったら、兄は絶対に間違えない人だと強い自信がある。
「さっきの物置小屋に戻ろう。お嬢様達を隠せる吃驚な仕掛けがあるかもしれない」とヴェレッドの案で一行は物置小屋に戻った。近くまで戻ると一斉に顔を引き攣らせた。
「ああぁっ、見つけたあぁ」
顔から胸辺りまで垂らした白髪の隙間から覗く見開かれた目と口の両端を吊り上げた女性がファウスティーナを目に映すとにんまりと嗤う。足首を固く縛ったクラバットは解かれてしまっている。大した時間稼ぎにはならなかったのだ。
ケインの背に隠されると女性は嗤ったままアーヴァの名を繰り返す。ファウスティーナがアーヴァに見えている。ファウスティーナを凝視したまま、ひたすらアーヴァ様アーヴァ様と繰り返す。
「アーヴァ様が私とそっくりなのは、あの絵のお陰で分かりました。でもそっくりでも髪や瞳の色は違うのに」
「正気を失った人間に色を問うたって無意味なんだ。似ている、ただこれだけで十分。あの夫人には、赤髪でもない青い瞳でもない、ましてや子供姿であってもファナはアーヴァ様に見えるんだ」
正気を取り戻す方法など、娘を無理心中で死なせた時点で彼女にはない。
「死糸見つけたけど、どうする?」とクラウドは何時でも千切れると示した。
「なんとか、気絶させる方法は……っ」
「殺す方が楽だよ。ああいう、失うものは何もない人間の相手をする方がとっても怖いんだ。自分自身の命すら失ってもいいんだから。俺達の前にいるあの女は正にそれ」
「……」
危機的状況に於いて甘い考えは捨てないと危険に遭い死ぬのは自分になってしまう。会ったことのない人の死を受け入れなければ、逆に死ぬのは自分となる。他に手段がないと諦めたファウスティーナはケインの手を強く握り、俯いた。
頭上で気配がする。ケインがクラウドに促したところだろう。
「……あの騎士様来る気配ないけど無事なのかな」
「……無事であると信じよう。司祭様や陛下からの信頼が篤い方なんだから」
クラウドとケインの固い声に思わず顔を上げたファウスティーナは悲鳴を上げかけた口を塞いだ。
ヴェレッドが相手をしていた騎士が、顔全体血塗れになった姿で現れた。鼻が曲がり、歯は欠け、右の瞼が大きく腫れ上がっても尚消えない敵意がある。
深く不快な溜め息を吐いたヴェレッドは言葉も吐き捨てた。
「いい加減しつこい」
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