魔手は決して逃がそうとしない
縦に裂かれ、血吹雪が舞うと男が期待するも――現実は違った。
縛られたまま横に倒れた馭者は身軽な動作で立ち上がり、唖然とする男の顎を思い切り蹴り上げた。縄もフェイクであっさりと拘束を解いた。
「やれやれ、陛下とシエル様の言う通りになるなんて。ま、これで決定だ」
山高帽子を取った頭からプラチナブロンドが下ろされ、美しい紫水晶の瞳が足で踏み付けている男の顔を穏やかに見下ろした。
「な、なんだお前!」
ケインとクラウドの後ろを短剣で脅して歩かせていた男が声を荒げた。
男の顔から足を退けた彼は美しい微笑を携えたまま、クラウドの首根っこを掴んで人質にしようと企んだ男の顔目掛けて駆け出した。男の荒い制止の声が響いた。すると男の顔に素早く白いネズミが上った。クラウドの首根っこから手を離しネズミを捕まえようと苦心する男の腹に強く拳を入れネズミを回収。ポケットに入れ、腹を抑えて蹲る男を気絶させると残りの男達に目をやった。ケインとクラウドを後ろに隠した彼――メルディアスは「お怪我は?」と問うた。
「怪我はしていません。そよれり、彼等が何者か知っているのですか?」
「知っているというか、今知ったと言うべきか」
下がっててと2人に告げ、残りの男達をあっという間に片付けた。
動けぬよう縄で体を縛り、質素な馬車の車輪に括りつけるとまたケインとクラウドの側へ戻った。
「既に報せは届けています。もう少ししたら城からリオニー様達が来るかと」
「その見た目フリージア家の人?」
「そうですよフワーリン公子」
プラチナブロンドに紫水晶の瞳はフリージア家の特徴とも呼べる。
自死防止の為猿轡を噛ませ、奥歯に仕込んでいた毒薬も回収済み。教会に戻る道中ファウスティーナ達を襲撃した連中とは仲間だろうと想定。問題は連中の後ろにいるのが誰か。
王家に仕える騎士の1人にアーヴァの盲信者がいるとは……とマイムは頭を抱えていたが実際は違う。アーヴァの盲信者ではなく、アーヴァの魔性の魅力のせいで大切な人を失った男だ。
「この人達の目的は何なのですか?」
ファウスティーナ達やケインとクラウドを襲った首謀者とファウスティーナに毒を盛ろうとした黒幕は別人でありながら同じ人間。アーヴァの魔性の魅力は誰かの破滅を招き、誰かの悲劇を誕生させた。
ケインに問われたメルディアスが「それは――」と口にした時だ。
ケインの急な異変と感じた殺気と気配。ケインを抱えて距離を取ろうと足を上げかけた時、脇腹に鋭く熱い痛みが襲った。咄嗟に体を右側に捻って正解だった。真っ直ぐなままだったら後ろから真ん中を刺されていた。
「ち、流石陛下の番犬か」
背後を向いたメルディアスが男の手を蹴り上げ剣を空中へ舞わせ、ケインを抱えたまま後方へ飛び退いた。
斬られた脇腹の傷は大した事はないとメルディアスに言われるが流血の量が多い。地に膝をつけたメルディアスに持っていたハンカチを渡して傷口を抑えさせた。
「っ、貴方は誰だ」
黒いマントを羽織った男から貴族の品が漂っており、ただの破落戸ではないと勘が訴えていて。ケインを下がらせたメルディアスは傷口を抑えたまま立ち上がった。
「お母上が泣きますよ。こんな事をして何の意味が」
「お前等には分かるまい! アーヴァ様のせいで姉上がどんな目に遭ったか……!」
「アーヴァ様は既に亡くなられているんだ、晴らせない恨みを生者へぶつけるのは如何なものかと」
「うるさい! お前等はヴィトケンシュタイン公女を誘き寄せる人質となってもらう! アーヴァ様の生まれ変わりのようなあんな娘は、生きているだけで罪深いのだ」
「アーヴァ様じゃなくてリンナモラート神の生まれ変わりなんですがね」
メルディアスは脳内でケインとクラウドを無傷なまま、リオニー達が来るまで持たせるか作戦を幾つか練った。脇腹の傷は出血量こそ多いが大した傷じゃない。が、早く終わらせるのが吉。「2人とも決して動かず」と口にした時だった。急に視界がふらついた。足元を崩して地に膝がついた。2人が目を見開き駆け寄って来る。視界が安定しない。激しい吐き気が襲う。
「陛下の番犬でも毒には敵うまい」
「その毒で俺やクラウドを殺す気でいたのですか?」
「冷静な坊ちゃんだ、ヴィトケンシュタイン公子。妹の代理なんざ引き受けたが為にこんな目に遭って。妹のせいで危険な目に遭ったと恨んだって良いんだぜ?」
「ファナが参加していたらどんな目に遭っていたかなんて俺がよく分かっていますよ。エルリカおば様やローズマリー伯爵夫人は、招待状に敢えてお茶会の趣旨を記載していなかった。茶会の主旨に反した姿でファウスティーナが来るように仕組んだのだから」
「妹思いの優しいお兄様が自分のせいで死ぬと知る方が悲惨じゃないか?」
男の合図により、馬車に潜んでいた男達が出て来てケインとクラウドを拘束し、毒で動けなくされたメルディアスは縄で縛って馬車に放った。
「クラウド、リオニー様から貰った糸は持ってる?」
「持ってるよ」
懐から魔術師の祝福が掛けられた糸をチラリと見せられた。縛られたままのメルディアスに状態を訊ねた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。演技だったので」
「……毒で斬られてましたよね?」
「陛下の番犬にするからってオルトリウス様にとんでもない毒の訓練をさせられたせいか、あまり毒が効かない体になりましてね。この程度の毒なら数時間もあれば動けるようになりますよ」
繰り返す人生の中でメルディアスもシエルやシリウス程とはいかなくても中々に癖があると知った。王国を守る上級騎士で国王直属の番犬と呼ばれていると知ったのは何回目の時だったか。
「この後どうする?」とはクラウド。
「ファナが心配だけど、向こうには司祭様や教会の神官がいる。連れては来れない。なら、彼等の苛立ちは必ず俺達に向く。そうなる前に対策を立てないと」
ただ、胸を覆う不気味な不快感が一向に消えてくれない。
嫌な予感だけしかしない。
●〇●〇●〇
時間は遡ってケインがお茶会に参加していた時刻。
『建国祭』開催までもう間もなく。隣国だけではなく、他国の言語の習得もファウスティーナには課せられている。簡単な挨拶から始まり、日常会話をするまでには上達するも。南国の王族は話し方に癖があり、発音が聞き取りづらい場合がある。南国の言語を知るシエルから授業をされていたものの、途中でオズウェルがやって来て司祭の仕事をさせるべく強制連行していった。
続きはシエルの手が空いてからとリンスーに言うと「俺がしてあげるよ」と壁に凭れて半分寝ていたヴェレッドが教本を手に取った。
「ヴェレッド様も話せるのですか?」
「前の王様とかにシエル様の側にいたいなら習えって言われてさ」
「先王陛下に」
幼いシエルが貧民街から拾ってきた少年にも高等教育を施したのはシエルの助けになるようにという先王の魂胆が見えた。
シエルに習っていたところから言語授業は再開された。
シエル程にないにしろ、ヴェレッドの発音は一定し聞き取りやすい。南国の王族の話し方や聞く際のコツを教えられた。
時計を一瞥したリンスーに「休憩にしますか?」と聞かれ、始まってから3時間以上経過していたと知った。それだけ集中していたのだ。
教本を閉じ、テーブルに置いたヴェレッドが「あ」と声を出した。
「そうだ。シエル様お気に入りの茶葉が今日入荷されるんだった。お嬢様一緒に行く?」
「行きます!」
決めてからの行動は早く、教会に行ってオズウェル監視の下司祭の仕事を務めるシエルに茶葉を取りに行くと神官に言伝を頼んだ。街へ向かって歩き出すと紅茶に合う焼き菓子も買おうとなり、紅茶店の斜め前にある店にも寄ると決定。
街を歩いていると感じるのは普段より少ない人の数。『建国祭』がもう間もなく開催されるので王都に戻っている人や泊まりで行っている人が多い。前日が最も戻る人の数が増え、当日は街から人の気配が消えるとか。
「誰もいない街ってちょっと怖いね」
「当日はお嬢様も王都にいますので見ることはありません」
「でも、ちょっと見てみたいかも」
「もう……。あ、お店が見えてきましたよ」
リンスーの言葉通り、シエル御用達の紅茶店に到着。『リ・アマンティ祭』開催前は此処でシエルを慕う女性ニンファに襲われたのだ。戒律が非常に厳しい修道院へ送られたと聞く。更にニンファの両親は娘がしでかした事にショックを受け、店を畳んでしまったとも聞く。何歳になっても親にとっては子供で、子供の行いで親に多大な負担を掛けた。前回の最後、気付いてあげられなくてすまなかったねと肩を落とす父の背中を思い出した。自分よりも背が高いのに、その時だけはとても小さく見えた。
あんな思いは2度とさせてはならない。
誰もが幸福になれるには、ベルンハルドとエルヴィラが結ばれること。……だがベルンハルド自身、本当はエルヴィラをどう思っているんだろう。
(それと殿下とエルヴィラが“運命の恋人たち”になるにはどうしたら)
等と考えている間にも紅茶店に入った。
店主とは教会に住み始めてから何度かシエルと共に来店しているので顔見知りとなり、シエル抜きで訪れてもシエルのお気に入りの茶葉を包んでくれる。
今日も同じでファウスティーナの顔を見ると顔を綻ばせた。
「ああ、司祭様のお使いかい?」
「はい」
「ちょっと待ってて。今用意するから」
待っている間他の茶葉を眺めていった。
「気に入ったのがあったら買ってあげようか?」
「そうですね……」
今頃、代理としてローズマリー伯爵夫人の茶会に参加してくれているケインに紅茶を贈ろうと決めた。普段は珈琲しか飲まないが紅茶が嫌いとは聞いてない。
「リンスーはどれが良いと思う?」
「ケイン様なら定番の紅茶で宜しいかと。あ、これなんて如何ですか?」
「どれどれ」とリンスーが選んだ茶葉を覗こうとした。ら、後ろから店主の悲鳴じみた声が上がった。何事かと3人同時に振り向くと店主の喉に刀身を当てた男が立っていた。
ファウスティーナとリンスーの前に立ったヴェレッドは微かに瞠目した。
「……驚いたな。城に勤める騎士がこんな所で賊の真似をするなんて」
「え!?」
ファウスティーナは店主を人質にする男を見た。黒いマントを被っているので服が分からない。が、男の持つ剣には見覚えがあった。王城から支給される騎士の剣だった。
「ど、どうして騎士様が」
「ヴィトケンシュタイン公女を渡してもらおう」
「わ、私?」
騎士の狙いが自分と言われ困惑が襲う。
「はいそうですかって言うと思う? 目的は?」
「公女を渡せ。そうすれば店主やお前達の命は見逃してやる」
「は、馬鹿らしい」
嘲りを見せたヴェレッドに苛立った騎士が店主の首を引き裂こうとした。瞬間、店主は騎士の足を思い切り踏みつけた。痛みで手を離した騎士から逃れた店主と入れ替わりでヴェレッドが騎士に迫り。剣を持つ手を蹴り上げ、更に足払いで騎士の体勢を崩した。宙に舞った剣の柄を持ち、床に倒れた騎士の肩に突き刺した。
野太い悲鳴を上げた騎士に構わず薔薇色の瞳がファウスティーナ達の方へ。
「急いで教会に戻ってシエル様に伝えるんだ」
「は、はい! 行こうリンスー!」
「う、うわあああああっ」
外へ続く出入口へ体を向けたら、扉を開けてくれた店主の体が浮いていた。店主の胸倉を掴み店内に入り込んだのは、先にいた男よりも2倍体が大きな男であっさりと店主を床へ放った。
「お嬢様こっち」
ヴェレッドの声に突き動かされたリンスーがファウスティーナの手を引っ張って移動した。狭い店内に大柄な男が1人入ると更に狭さが強くなり、先に倒した男を気絶させ大柄な男を見上げるヴェレッドには焦りはない。
「公爵令嬢1人に大の大人が寄ってたかって……恥ずかしくないの?」
「そこの娘を渡せば金を貰えるんだ。さっさと渡してもらおう」
「……こいつは騎士じゃないな。雇われただけの破落戸か」
同じ黒いマントを羽織っていても体に染みついた野蛮な雰囲気は隠せておらず、出入口が男が塞いでいる扉しかないと解り舌打ちをした。
「お嬢様、俺が隙を作るからちゃんと逃げてね」
「まだ仲間がいたらっ」
「向こうも大人数で来たら面倒なのは理解してる。見る限り、でかぶつとそこで倒れてる奴2人だけの筈だ」
「わ、分かりました」




