正気を手放した
冬の冷たい風が枝に僅かにあった枯葉を攫った。ひらり、ひらり、と枯葉は地面に落ちた。この後、掃除担当者が通りかかったら箒で掃かれ捨てられるだけの運命の枯葉をアレッシアは拾った。右親指と人差し指でくるくる回す。表面も裏面も枯れ、所々虫に食われ小さな穴がある。周囲には誰もいない。誰かいたら、先王妃の時代から王宮に仕える侍女長が人気のない場所で佇んでいれば視線は集まっていた。
「あら、アレッシアじゃない」
「エルリカ様」
滅多に人が来ない王宮の隅にフリューリング先代侯爵夫人エルリカがやって来た。淑女の鑑と呼ばれる彼女。優雅に此方へ来る動きも着ているドレスも使用している装飾品もどれも超一流。彼女に憧れた女性も多い。
「この様な場所で何を?」
「寄り道をしただけよ。此処は昔オルト様が迷子になられてよく来ていた場所だから」
「同行していた御令嬢は?」
「ふふ、困ったものだわ」
口でそう言いながら表情は一致しない。微笑ましいと笑っている。
「王太子殿下に会うまでは帰らないと駄々を捏ねてね……オルト様が我儘を聞き入れてしまって王太子殿下に話相手になってもらっているの」
「殿下は今の時間、近隣諸国の時事を学んでいる最中かと」
「丁度休憩に入った時だったから、少しだけならと王太子殿下が許可してくださったのよ」
「そうですか」
「……ところで……アレッシア……」
急に声色を低くしたエルリカはアレッシアとの距離を詰め、囁く口調でファウスティーナの名を出した。
「ファウスティーナさんは今何処にいるのかしら? 『建国祭』までは王妃宮に滞在するのでしょう?」
「私は存じ上げません。ヴィトケンシュタイン公女の予定は王弟殿下が管理されております」
「そう……王弟殿下が……。あの方も変わらない。いいえ、ファウスティーナさんがアーヴァにそっくりなせいね」
「……」
エルリカの口から放たれたアーヴァの名前。実の娘だと言うのにエルリカのアーヴァに対する冷遇は血の繋がりを疑わせた。実の娘をそれ程嫌えるのかと問いたくなるほどに。
「アレッシア……私はあなたを気の毒に思うわ。王妃付き侍女という誉れ高い地位にいながら、自分が大事にしてきた宝物を守れなかった貴女を」
「……何を仰っているのですか」
「誤魔化そうとしないで。私は知っているのよ。リリーシュも気の毒がっていたわ」
「……エルリカ様、ヴィトケンシュタイン公女はアーヴァ様では御座いません」
「ええ、そうね。アーヴァじゃないのにアーヴァとよく似た顔、声を持っている。アーヴァは私の人生唯一の汚点。あんな子と瓜二つの子供なんて生きているだけで私の汚点は消えない。アーヴァが死んで喜んだのにどうしてあんなそっくりな子が生まれるのよ……!」
「……」
アレッシアは実の娘アーヴァを恨むエルリカの真実を知らない。死して尚根元から生えるアーヴァへの憎しみと怒りの根源は何なのか。娘が死んだと聞いて喜ぶ親はこの世で何人いるか。
「私に貴女を理解する日は来ません」
「貴女に理解されたいとも思わないから構わないわ。いいわね……心から愛せる娘がいて」
「……仕事に戻ります」
軽く頭を下げてエルリカの横を通ったアレッシアの声色も表情も、一切変わる事はなかった。
「……ヴィトケンシュタイン公女は……ファウスティーナ様は…………アーヴァ様じゃ……ない……」
〇●〇●〇●
襲撃を受けた後はリオニーが馬車に並走した。捕縛した襲撃者は死者を除いて全て王都に連行された。尋問を得意とする騎士宛に言伝を頼んだから必ず聞き出すよとシエルに云われたファウスティーナは早く真相が解明される事を祈った。
普段より時間を掛けてラ・ルオータ・デッラ教会に到着。教会の奥にあるシエルの屋敷へ行く前に教会の留守を預けているオズウェルに顔を見せるのが先となった。丁度外へ出ていたらしく、馬車から降りるとオズウェルが待っていた。
馬から降りたリオニーから馬車を降りたファウスティーナ達に視線をやったオズウェルは深い溜め息を吐いた。
「顔を出して早速お小言は勘弁してね」
「したくもなりますよ、何をしているのですかシエル様」
「おや、私が悪いみたいな言い方」
「状況はそこの坊やだったりオルトリウス様からだったり陛下からだったり何だったら別の所からも来てますよ」
「私が送らなくても助祭さんに状況説明をしてくれる人はたくさんいるじゃないか」
「あのねえ」
肝心のシエルが何も連絡を寄越さずとも、他が寄越す連絡からとても元気だとはオズウェルは分かっていながら、1つくらい便りを出しなさいと小言を言い始めた。が、ファウスティーナと目が合うとシエルへの小言を止めた。
「ファウスティーナ様。王妃宮での事情は私の耳にも入っています。教会に戻られたのは賢明な判断です。『建国祭』開始までは此処に残る事を私からもお勧めしましょう」
「は、はい」
アーヴァの事を知りたがった時は散々周囲の人達から止められても好奇心が消せなかったファウスティーナでも、危険度が急上昇していけば諦めるしかなかった。
ファウスティーナはオズウェルに会ったら聞こうと決めていたエルリカについて訊ねた。オズウェルはエルリカと年齢が近い。シエル達よりも詳しい筈。
「エルリカ様ですか」
青銀の瞳がリオニーを一瞥した。構わない、言わんばかりにリオニーは頷く。
「助祭様から見たエルリカおば様はどんな方ですか?」
「随分と前から正気を失っている女性ですよ」
「え」
予想もしなかった言葉に両眉が上がった。
「アーヴァ様を出産されてからエルリカ様は正気を失われた。貴族に生まれた赤子は主に乳母に世話をされる。時折、母親が乳母と世話をするか、様子見をするだけの場合もあります。ただ……エルリカ様は乳母からの報告もアーヴァ様の姿も1度たりとも耳にも目にもしなかったのです。エルリカ様が出産以来アーヴァ様を見たのは彼女が3歳を過ぎた頃でしたかね」
「おば様に何があったのですか?」
アーヴァを出産した直後からエルリカは正気を失った。出産直前に余程の出来事があったのかと身を強張らせたファウスティーナが思い切って訊ねたらオズウェルに首を振られた。
「……こればかりは私の口からは何とも。抑々、確証がないんですよ」
「確証?」
「ええ。事実なのか、エルリカ様の思い込みなのか。……ただ、アーヴァ様の魔性の魅力を見る限りでは、エルリカ様が正気を手放した確固たる証なのやもしれません」
「……」
直接的に何を表現しているかの言葉がないから、何がそうであるのか、違うのかがファウスティーナには分からなくなるばかり。ただこれだけは今の話で掴めた。アーヴァの出産とエルリカに起きた出来事のせいで実の娘でありながら激しい憎しみを持つ結果になってしまったのだと。
エルリカの憎しみは消えない。多量の雨を降らせても、荒れ狂う海の波が襲っても、憎しみに燃える炎は決して消えない。
「教会へ戻る途中の馬車襲撃、この件の首謀者にシエル様心当たりは?」と青銀の瞳が遠くへ投げられた。問われたシエルは「さあ?」とすっとぼけた。誰か知りながら確証がないから断定していないだけ。ファウスティーナは誰かが知りたくてシエルにヒントを求めた。困った、と微笑むシエルが口を開く前にオズウェルは「ファウスティーナ様」と呼んだ。
「此度の件、油断しないように。エルリカ様も馬車襲撃の首謀者もアーヴァ様に深い憎しみを抱いている。瓜二つなあなたをどんな目に遭わせるかは想像に難くない」
「ただ」とオズウェルは膝を折りファウスティーナと目線を合わせた。至近距離から見た青銀の瞳は青みが強く快晴の下煌めく湖と同じで美しかった。
「ただ、これだけは。アーヴァ様を嫌いにならないであげてほしい。会った事のない方でファウスティーナ様に頼むはお門違いなんでしょうが」
「私はアーヴァ様を詳しく知りません。お姿すら私にそっくりで髪の毛や瞳の色が違うというくらいで。でも」
会った事がなくても、顔を見ていなくても、今まで聞かされてきたアーヴァと親しい人達を思い出したファウスティーナはふんわりと笑って見せた。
「嫌いになったりしません。司祭様がアーヴァ様のお話をされる時、声がとても優しくなるんです。それだけでアーヴァ様がどんな方なのか何となくですが分かります」
気弱で人見知りで動植物が好きな美しい女性。
瓜二つな容姿は気になるので会ってはみたかった。
アーヴァが悪女ならリオニーは守ろうとしない。仮令妹でも。
アーヴァは何も悪くないから、勝手に膨れ上がった他者の憎悪から守ってきた。
(リオニー様ってお兄様と似てる)
もしくはケインがリオニーに似ている。
ベルンハルドや母からエルヴィラを虐げる悪女として嫌われていても、兄はいつも守ってくれた。
(お兄様……クラウド様に頼んでエルヴィラの悪夢の糸を切ってもらえたのかな)
今頃フワーリン公爵邸を出て家に戻っているだろうケインに手紙で結果を訊ねてみよう。
便箋の柄は何が良いかと考えているとオズウェルが立ち上がったので見上げた。
「その言葉だけで十分。ですがこれだけは約束を。この先、アーヴァ様の事を聞かれたらファウスティーナ様は知らぬ振りを通すのです。僅かに知っている情報でさえ漏らしてはなりません」
「わ、分かりました」
うっかりと言葉を滑らす口が余計な真似をしないか心配でも決めた以上は固く閉ざしていたい。




