貸してあげて
「んう……」
甘い薔薇の香りと温かい体温に包まれて、心地良い眠りに就いていたファウスティーナの意識が浮上する。ゆっくりと開けられた瞼から覗く薄黄色の瞳は非常に眠そうだ。何も考えないまま顔を隣に向けると仰向けに眠るシエルがいて。更にその奥には、シエルに抱き付いて眠るベルンハルドがいて。よく見るとシエルの片腕がファウスティーナに回っている。寝相は悪くない方だがベッドから落ちないようにしてくれたんだ。とぼんやりと考え。そういえば2人と一緒に寝たのはヴェレッドの提案だったなと考え。2人が寝ているのをいいことに大きな欠伸を漏らした。
「まだ寝てますか……?」
静かに囁いても2人は反応すらしない。ベルンハルドはともかく、シエルはぐっすりと寝ている。シエルの腕を起こさないよう退かせ、ベッドから降りたファウスティーナは思い切り伸びをした。
再度欠伸をして少しは眠気を吹き飛ばし、カーテンを少し捲った。外は薄暗く、日が昇る手前といったところ。
2度寝するにしても眠気が足りない。かといって、部屋で何かするにしても音を立てればシエルを起こしてしまうかもしれない。
ある事を思い付いたファウスティーナはなるべく音を立てず部屋を出た。ら、部屋の前にいた護衛騎士に見つかった。此処には王太子と王弟が眠っているのだ。護衛を付けない筈がなく、ファウスティーナに気付いた護衛の1人に訊ねられた。
「如何なされました? 公女様」
「あ……早く目が覚めてしまったので、温かい飲み物が欲しくなって」
シエルとベルンハルドはまだ寝ているから呼び鈴を鳴らせず。1人厨房へ行って貰おうと出て来たのだと告げると「俺が付いて行ってあげるよ」と非常に眠そうな声のヴェレッドが現れ、護衛には部屋の警護を頼んでファウスティーナを連れ出した。
外が薄暗いなら王城内も当然薄暗い。が、徐々に日が出始めているので明るくなるのも時間の問題。
ヴェレッドと手を繋いで歩くファウスティーナは厨房とは逆の道を行きたいと言う。
「喉が渇いてるんでしょう?」
「そうなんですけど……寄りたい所があるんです」
「ふーん……まあいいよ。付き合ってあげる」
ヴェレッドの手を引っ張ってやって来たのは人気のない外。大きな木があり、子供1人隠れるには余裕の太さである。上を見上げると大きな窓がある。そこはベルンハルドの部屋。
「王太子様の部屋が気になるの?」
「そういう訳ではないんです」
夢の中で見た光景がどうしても気になってしまう。厳しい王妃教育に耐えられず、冷たい態度を決して崩さないベルンハルドに耐えられず、いつもファウスティーナは1人此処で隠れて泣いていた。ネージュに見つかってからは、姿が見えなくなると必ず此処に来て外へ連れ出された。態度を直さないベルンハルドに代わって毎回ネージュに謝られた。彼は何も悪くないのに。木と窓を交互に見る。あの夢では、ネージュに連れ出されたファウスティーナを冷たい瞳で見下ろすベルンハルドが窓の側にいた。誰かに話し掛けられ、応えた彼の唇の動きで何を話したか大体把握している。
ベルンハルドはお茶の用意をさせていて、大嫌いなファウスティーナを見てすっかり気分を落としてしまったのだ。
――ただ、なあ……
どうしてベルンハルドはあそこにファウスティーナがいると知ったのだろう。偶然窓の下を見たら、いただけ、というのが普通の考え。
「お嬢様? 寒いから戻ろうよ」
「そうですね」
すぐに部屋に戻るつもりだったから上に羽織もせず出て来てしまい、強い風が吹くと体が寒さで震えた。差し出された手を握った。此処に来たのはただの思い付きではあるが、来たら何か思い出すヒントになると期待したから。結果は何も思い出せず、地味にダメージを受けただけ。
歩き始めたところで「公女様っ」と切羽詰まった声でファウスティーナは呼び止められた。城に仕える侍女らしき女性が少々青い顔をして立っていて、ファウスティーナを見掛けると近付こうとする。ヴェレッドがファウスティーナを後ろにやって間に立った。
「悪いけどお嬢様に不用意に近付かないで」
「こ、公女様に、どうしてもお渡ししたい物があるんです……!」
「私に?」
ヴェレッドを前にしつつ、ちょっとだけ顔を出したファウスティーナに侍女はその場にへたり込み、震える両手で1枚の手紙を差し出した。ヴェレッドと目を合わせ、彼が手紙を受け取り表面を見、顔を歪ませた。
「リリーシュ=ローズマリー……ローズマリー伯爵夫人の事?」
「は、はい」
「どうして貴女が……?」
手紙はファウスティーナ宛のローズマリー伯爵夫人からの招待状。ヴィトケンシュタイン公爵邸に送っても、王城に送ってもファウスティーナに届けられないと知ったエルリカとリリーシュが手を回した。侍女はアマンダ伯爵家の次女カリナ。2年前から王城で侍女の仕事をしている。数か月前に昔馴染みの男爵家の長男と婚約し、結婚式も彼が男爵を継いでからとなった。男爵夫人ととても友好的な女性がローズマリー伯爵夫人。
男爵夫人を通してカリナにある頼み事が舞い込んだ。
「それがお嬢様にローズマリー伯爵夫人からの招待状を渡すってこと?」
「はい……」
「1つ聞かせてよ。招待状を渡すだけなら、怯える必要ってある?」
ファウスティーナも気になっていた。姿を現してからずっとカリナは青い顔で体を震わせている。何度か開閉を繰り返したカリナだが、1度唇を強く閉じると顔を上げ話してくれた。
「招待状を渡す前に、こ、公女様に薬を盛れと……命じれらて……」
「え!?」
昨日の毒入り騒動……心配になってヴェレッドを見上げたファウスティーナだが、彼は愉快そうに嗤っているだけで感情に変化はない。毒の耐性があるヴェレッドでさえ、吐血し倒れてしまった。何の耐性もないファウスティーナが飲んでいたら最悪命を落としていた。
「可笑しいな。お嬢様の飲み物に薬を仕込んだ女は既に捕らえられ尋問されたよ」
「わ、私が、頼んだのですっ」
カリナは同僚がシエルを密かに慕っていた事、シエルに構われるファウスティーナに嫉妬していた感情を利用し、ファウスティーナが飲むオレンジジュースに悪戯してやろうと持ち掛けたのだ。ローズマリー伯爵夫人から渡された薬は少しの間味覚異常を起こすだけだと聞かされていたから、毒薬だったとは思わなかったと涙ながらに語られた。尋問した同僚からカリナの名前は出ておらず、シエルに構われるファウスティーナに嫉妬した末の悪戯だったと話したとか。ここでもシエルを慕う過激な女性に絡まれるとは……『リ・アマンティ祭』で思い知ったが過ぎた美貌は人間を狂わせる。アーヴァの魔性の魅力も同じようなものだったのだろう。
本当に毒薬だと知らなかった、嘘じゃないと語られてもまるで信頼性がない。今ファウスティーナに招待状を渡そうとしたのも外に出るのを見掛けたからだと話された。側にヴェレッドがいても、周囲の認識はシエルの側にいる身分がない青年。居ても困らないだろうと踏んだ。
「伯爵夫人の頼みを断る事は出来なかったのですか?」
「断ると私が夜の店で遊んだ事をばらすと脅されて……」
夜の店? お酒を好んで提供する店だろうか。と予想するも、ヴェレッドに頭を手で抑えられ髪の毛を乱された。整える前だったから良いものを……と半眼で見上げれば愉しそうに笑っている。
「子供のお嬢様にはまだ早いよ」
「お酒を飲むお店ってことくらい分かります!」
「そういう事でいいよ」
「お酒を飲むお店で遊んだのがそんなに駄目なのですか? もしかして勤務中に行ったとか?」
「そういう話じゃないよ。知りたかったらシエル様に言って。俺が教えたらシエル様怒るもん」
「司祭様に……」
聞いても適当にはぐらかされる未来しかない。ヴェレッドはシエルに叱られるのを嫌がり絶対に教えてくれない。
夜の店で遊んだ話はここまでにし。ヴェレッドから招待状を貰ったファウスティーナは思案する。
このまま出席しないのが安心安全に最も近い道。だが、ローズマリー伯爵夫人はどんな手を使ってでもファウスティーナを誘き寄せようとする。
また、第2第3のカリナのような人を作ってしまう。
元凶だろうエルリカは止められない。
この場合、最適な答えは何か。
「ヴェレッド様」と呼んだ時、「更に詳しい話は場所を移して聞かせてもらおうか」と違う人の声が響いた。部屋を出るまでは寝ていたシエルが軽装のまま壁に凭れていて。すぐ側には上級騎士の衣服に身を包んだリオニーがいた。
「あ……っ」
カリナは咄嗟に逃げ出そうとするも、リオニーの指示により捕獲を命じられた騎士達に捕らえられ、声を発さぬよう猿轡を嚙まされた。体を縄で縛り、速やかに別の場所へ運ばれて行く。あまりの手際の良さを見つめていれば「ファウスティーナ様」と側に来ていたシエルに招待状を手から抜かれた。
「やれやれ、諦めの悪い」
「司祭様。ローズマリー伯爵夫人のお茶会に参加したいです」
「理由は大体察しがつくけど、聞かせてくれる?」
「夫人もエルリカおば様も、私が欠席の旨を出してもきっとお茶会に引っ張り出そうとします。そうなるとまた被害者が増えるばかりです。私が出席して夫人やエルリカおば様が元凶だという証拠を押さえられれば言い逃れは出来ない筈です」
「君が囮になるってこと? 私が、させると思うかい?」
「う……それは……」
シエルの美しい微笑には心なしか威圧が込められていて。優しいのに怖いと抱いてしまった。が、怯まない。ファウスティーナが囮になるより他に良案はないと信じるから。
実行に移したのは侍女2人。ローズマリー伯爵夫人とエルリカが背後にいると分かっても確実な証拠がない。それらを得る為にもファウスティーナが敵の巣に赴く。招待されている貴婦人の殆どはアーヴァを憎んでいる。アーヴァに瓜二つなファウスティーナが行けばどうなるか。怖くないわけじゃない、怖くて堪らない。怖くてもこれ以上被害者を出せない。
絶対に引かないとシエルを強く見つめファウスティーナと、絶対に行かせたくないシエルは黙ったまま時間だけが過ぎていく。
2人の様子を眺めていたヴェレッドが「フリューリング女侯爵様」とリオニーを呼ぶ。
皆の視線が一斉にヴェレッドに向けられる。
「力を貸してあげなよ。出来るでしょう?」
「……」
リオニーは何も言わない。鋭さと重力を兼ね備えた恐ろしい目付きでヴェレッドを見るだけ。常人なら泡を吹いて倒れるリオニーからの殺気をものともしない彼は愉しげに笑うだけ。
「お嬢様に“イル・マーゴ”の力を貸してあげなよ。それが最も安全にお嬢様をお茶会に参加させる手段だ」
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