地獄への序曲
王太子夫妻の寝室にて、寝台に腰掛け、両手に瑠璃が埋められた首飾りをうっとりと見つめるエルヴィラがいた。鳥をイメージしているだけはあり、瑠璃を囲う装飾には鳥が描かれている。愛する夫が贈る瑠璃を使った宝石には全て鳥のデザインが施されている。特別鳥が好きだとは聞いてないし、エルヴィラも可愛いと思っても好きとまではいかない。鳥を好きなのは姉ファウスティーナ。
姉は自分を殺す計画を企てるも実行日よりもかなり前にベルンハルドが気付き、阻止し、断罪した。王家と公爵家との話し合いの結果公爵家からの追放を命じられ、エルヴィラが卒業する1年前に姿を消した。
以降、誰もファウスティーナの話をしなくなった。ファウスティーナの使用していた部屋は、最初から誰もいなかったように綺麗にされ、ファウスティーナが好きだった花も花壇から消えた。ファウスティーナが愛用していた食器も、ファウスティーナの肖像画も、何もかもなくなった。
薄ら寒い恐怖を抱いた。ファウスティーナの自業自得、ベルンハルドに愛されてもいない嫌われていたくせにみっともなく婚約者の座にしがみつき、最後は愚行に走って破滅した。
ベルンハルドはエルヴィラの運命の人。生まれた時から決まっていたんだ。女神の生まれ変わりという特別な存在だったくせに、それ以外何も持っていないファウスティーナが最愛の人に愛され、家族にも愛されるエルヴィラに勝てる筈がなかったのだ。
ただ。
1度でもいいから、妹として見てほしかった。愛してほしかった。兄ケインにも言える。ファウスティーナの事は妹としてしっかり見ているのにエルヴィラの事は何も見ようとしてくれなかった。兄にとって、姉にとって、兄妹は自分達だけでエルヴィラは除け者だった。父は平等だから優先してくれない。母だけがエルヴィラの救いだった母だけが愛してくれた。
今は母以上に愛してくれるベルンハルドがいて幸福の絶頂にいる。彼の婚約者になり、妻になり、世界で最も幸せな女になった。
唯一気に食わないのは、愛する夫には自分以外の妻がいる。これを言うとあのいけ好かない側妃は嘲笑い、ケインは冷たい紅玉色の瞳で淡々と紡ぐだけ。
エルヴィラの自業自得だよ、と。
「……」
いけないいけない。
ケインやアエリアの事は意識の端に追いやろう。勉強が苦手だった上に王妃教育を受けるのが遅かったから王太子妃の仕事が熟せないだけだ。ファウスティーナがもっと早く婚約者の座から退いていてくれたら、エルヴィラだって王太子妃として立派に務めを果たせた。
全部ファウスティーナのせいだ。
愛されていないくせに、エルヴィラを羨んでいたくせに、……最後の2年見せた無関心な感情が忘れられない。エルヴィラと母に対してだけファウスティーナは常にどうでも良さそうな感情を見せていた。他の人には豊かな感情を見せていたくせに。
昔みたいに悲しい理由や泣いている理由をファウスティーナのせいにして母に叱らせても、ファウスティーナはやっぱり無関心でどうでもよさそうな目をしていた。
そのくせ、エルヴィラがベルンハルドといると必ず絡んでは泣かされた。ベルンハルドが常に守ってくれたがファウスティーナへの怖さは消えなかった。不思議なのはファウスティーナが絡んで来たのは周囲に人がいる時だけだった。誰もいないとベルンハルドに会釈をするだけでエルヴィラは無視。静かに去って行くだけだった。
「……」
いけないいけない。
もういない人の事を考えてもしかたない。
生きている可能性の方が低い。滅多に生まれない女神の生まれ変わりだから、どこかでは必ず生きているとベルンハルドは時折独り言を零す。きっと追放されても自分への恋心を捨てられず、愛するエルヴィラに報復しないか心配しているのだ。と考えるだけでベルンハルドがより一層愛しくなる。
愛する夫は10日前から極秘の仕事の為、城を留守にしている。
国王夫妻が隣国から戻るまでには帰って来ると言っていた。その間、エルヴィラは1人ベルンハルドを待つ。
「ベルンハルド様、どうか御無事で」
極秘だから仕事の内容までは教えてもらえなかったが危険な任務じゃないとだけ言われた。出発する際、頭を撫でられ「行ってくるよ」と歩き出そうとしたベルンハルドにキスを迫った。頭を撫でたり、額にキスをしてくれても唇にキスをするのは結婚式の時と閨の時くらい。これもエルヴィラが願ってか、ベルンハルドが興奮している時かのどちらか。王国で最も幸福な夫婦と祝福されているのに唇にキスをしてくれないベルンハルドに若干の不満があった。
困った顔をされるもいつもと同じ額にキスをしただけでベルンハルドは行ってしまった。
ベルンハルドの見送りに同席していた侍女に不満を零すも「王太子妃様は愛されていらっしゃいますよ」と励まされ、機嫌を良くした。
今日はもう寝よう。首飾りを宝石箱に戻し、隣の寝室へ足を向けた。ら、ノックもなしに扉が強い力で開かれた。
「誰!!」
突然の乱入者は数人の騎士。王太子夫妻の部屋と仕える彼等が知らない筈がない。
「無礼者! 今すぐに出て行きなさい! 此処は――」
「申し訳ありませんが王太子妃様、公務のお時間です」
「公務? 何を――んぐ!?」
王太子妃の務めは今日はもう終わった。
まあ、エルヴィラがする公務は無いに等しい。あってもアエリアがお膳立てをし、エルヴィラはさも自分がしたように振る舞うのみ。
訝しく呟くも一気に距離を詰めた騎士の1人に口を塞がれた。暴れても華奢なエルヴィラでは男数人にあっという間に体を縄で縛られ、猿轡を噛まされ麻袋に入れられ部屋を出された。
暗闇の中に居ても何処かへ連れて行かれている感覚だけは感じる。言葉にならない声を上げても「お静かに」と淡々と述べられ、納得がいかないとばかりに声を上げ続けた。軈て、どこかの部屋の扉を開けると乾いた足音が響くように。
「お連れしました」
「ご苦労様。出すのは中に入れてからね」
「はい」
この声は……と相手が誰かを考えるより先に漸く下ろされ、麻袋から出された。
鼻につく異様な臭いと蝋燭の火が照らす薄暗い場内、そして耳障りな荒い吐息。
誰だ……と険しい顔で振り返り――奥にいた身の毛もよだつ醜い怪物に絶叫を上げた。
逃げようと体を動かすも、エルヴィラが入れられたのは牢の中で、気付いた時には扉は閉められていた。鉄格子の向こうにいるのはベルンハルドの弟ネージュ。
ネージュに助けを求めたエルヴィラだが――――
「さあ、公務の時間だよ王太子妃殿下。君みたいなお馬鹿さんでも出来る貴重な仕事だ。しっかり励んでね」
橙の光がぼんやりと照らすネージュの笑みはいつもと変わらない人の良い微笑みだった。
「――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーっ!!!!」
小鳥の囀りが朝の報せを寄越す気持ちのいい一時。世界中の人々が目を覚まし、活動を始めているであろう刻、ヴィトケンシュタイン公爵邸に響いた絶叫。声を聞き付け駆け付けた侍女や使用人、両親が慌てて入ると錯乱状態のエルヴィラがいて。トリシャが暴れるエルヴィラを落ち着かせようと近付くと「来ないでええええ!! 嫌ああああああああああぁ!!!!」枕を振り回し決して近付けさせない。
「エルヴィラ! お母様よ、分かる? お母様よ!」
「嫌、嫌、い…………おかあさま…………?」
エルヴィラを止めるべく、意を決したリュドミーラは枕を振り回し続けるエルヴィラに近付き隙を見て腕を掴んだ。拒絶反応は凄まじいも、何度も呼び掛ける事で漸くエルヴィラは自分の腕を掴んでいるのが母だと認識した。泣き過ぎて真っ赤な目元、恐怖に染まっていた紅玉色の瞳はリュドミーラを視界に入れると段々と輝きを取り戻し、安心感からの涙を流した。泣いてリュドミーラに縋るエルヴィラを皆痛ましげに見守る。
「大丈夫ですよ。もう怖くありません」
「おがあざまああぁっ」
「エルヴィラが悪夢を見なくなるまでお母様と寝ましょう。1人だとまた見てしまうから」
「は、いっ。お母様一緒にいてください!」
……扉の外から事態を見守っていたケインは落ち着きが見えたのを確認し、静かに部屋に戻った。
エルヴィラの悪夢が今回酷くなった。……ということは、彼が望む幸福な結末とは遠くなっているという証か。
「殿下が望む終わりはベルンハルドとエルヴィラが結ばれるから、か」
それはファウスティーナと同じ結末。
但し、根本にある願いは違う。
「もう1度……クラウドに頼んでみよう」
その前にある人に頼まないとならない。
フリューリングの当主の中でも、選ばれた者にしか発現しない能力を持つリオニーに。
ファウスティーナの件があってエルヴィラに対し非常に厳しいリオニーだが、真摯に頼めばもしかすると力を貸してくれるかもしれない。
となれば、フリューリング邸に赴くよりも王城を選ぶ方が効率が良いだろう。今王城にはファウスティーナが滞在している。多忙でもファウスティーナを気に掛けるリオニーは顔を出しているようだから。
外へ出てリュンを探し、朝食を終え次第王城へ行くと告げた。――ら、タイミングが悪かったらしく、さっきよりも幾分か顔色が良くなったエルヴィラを連れたリュドミーラと会い。話を聞いたエルヴィラは自分も行きたいとケインに訴えた。
「遊びに行くんじゃないんだ。連れて行けない」
「お願いですっわたしも行きたいです!!」
「ベルンハルド殿下に会いたいだけなのが見え見えだよ」
「ケインは何をしに行くの?」
いつもの流れだとこのままであればエルヴィラは泣き出してしまう。やっと泣き止んでくれたエルヴィラをまた泣かせたくないリュドミーラが間に入った。
「リオニー様に会いに」
「リオニー様に?」
「はい。リオニー様に会った後はフワーリン公爵家へ行きます。なのでエルヴィラは連れて行けません」
フワーリンの名前を出すと神妙な面持ちになったリュドミーラ。大方、フワーリン公爵にエルヴィラの悪夢をどうにかしてもらおうと思われているようだが実際はクラウドに頼む。その前にリオニーにある事をしてもらいたい。
「――あら、でしたら私と行きましょう」
「「!!」」
この声は……と全員の声が心の中で一致する。
朝早くでも支度に一切の手抜きがないエルリカは優雅な佇まいでそこにいた。
「私もオルト様に相談事があるから王城へ行くの。エルヴィラさん、ケインさん、どうかしら?」
「行きます!! おば様、わたしも行きます!!」
「エルヴィラいい加減にするんだ」
ケインが窘めるもエルリカは緩く首を振り、微笑みを浮かべたまま「まあまあケインさん。そう怒らず。気持ちを尊重するのも大事な事ですよ」と諭すと。
「リュドミーラさんもそれでいいですね?」
穏やかな口調と声なのに、どこか威圧めいたものを感じた。ケインが感じたのだ、最も向けられている母が感じない筈がない。
「ですがエルヴィラはさっきまで」
「気分転換も必要ですよ。私がオルト様に会うのはエルヴィラさんに関係があるので連れて行っても問題はありません」
淑女の鑑と呼ばれる貴婦人の微笑みの奥に秘められた真意を読み取れた人は誰もいない。




