良いんだよ、そのままで
「ふう」
温すぎず、ちょっと熱いと感じる湯船に浸かるベルンハルドはミルク色の水面に浮かぶ花弁を掬っては落とし、掬っては落としを繰り返した。午前中は机と向き合って勉学に励んだ。自分と同じようにネージュも頑張っているのだから負けてはいられない。午後からは剣の鍛錬と建国祭に招待している友好国の言語やその国の王族、皇族達について学んだ。隣国からは即位して間もない若き国王が来る。ベルンハルドは直接会ってはいないが顔は知っている。名の通りの黄金色の髪と青い瞳の、非常に見目麗しい男性だった。1年前はまだ学生だった。詳細は知らないが隣国の次期国王誕生には大叔父であるオルトリウスが絡んでいる。
嵐の如く戻って嵐の如く旅立って行ったと後にシエル達は語っていた。
現在は『建国祭』開催までは滞在予定とのこと。終わればまた旅に出ると。
「旅、か」
本を読んで偶に胸を膨らませる夢。夢に抱いて終わるであろう行い。
王位を継ぐ自分では、決して実行が許されない行為だろう。
視察という体で他国を訪れる機会がいずれ訪れる。遊びではないので、旅だとは言えない。
ただ、もしも。もしも、である。
大人になって旅に出られる機会があるのなら、その時はファウスティーナが一緒にいてくれたらと抱いてしまう。
ファウスティーナとだったら、何処へ行ったって楽しい。
花の香りを吸い込んで息を吐いた。1日の終わりを汗と共に熱い湯船に入って洗い流すのは気持ちが良い。
ふと、ファウスティーナは今日は何をしていたのか気になった。夕刻にやっと会えたのだが、雰囲気から落ち込んでいるのを悟った。何があったのか知りたかったがファウスティーナの側にいた薔薇色の髪をした男性も今日は疲れた顔をしていた。2人で何かをしていたのか。気になって気になって、夕食を一緒に食べた際に訊ねると。
『あ……はは。司祭様に叱られてしまいまして』
『叔父上に?』
意外だと感じた。叱られたと言っても、怒る、ではなく、優しく諭すのがシエルのやり方。ベルンハルドも何度かシエルに叱られているので知っている。同席していたヴェレッド曰く優しいのはファウスティーナとベルンハルドだけだと言う。
『シエル様って怒るととっても怖いよ』
『叔父上が怒る姿……想像すら浮かばない』
『王様とどっちが怖いかって聞かれたら……うん……シエル様かな。あの2人はタイプが違うから、比べるのは難しいけどね』
父シリウスが怒った姿も見たことがない。本気で叱られるような真似はベルンハルドもネージュもしたことがないのもある。
「殿下、そろそろ上がりましょう」
「分かった」
湯船に浸かってそれなりの時間が経つ。長風呂になる前にと声を掛けられ、ゆっくりと湯船から出た。
体を拭いてもらい、寝間着に着替えたベルンハルドは浴室を出て私室へと行く。夜の王宮はとても静かだ。朝や昼が騒がしい、という訳ではないが夜は殊更静かとなる。
「あ」
前方の曲がり角からシエルが現れた。司祭服、貴族服を脱いだシエルの軽装を初めて見た。何を着ても生まれながらの美貌の力か、似合っていた。前を向きながらも視線はほぼ下を向いていた。シエルが手を引いているのはファウスティーナ。歩く度に揺れる不思議な2本の髪は公爵夫妻もだが、ケインやエルヴィラにもない。ファウスティーナだけにある特徴的な髪。
髪の特徴と言うとベルンハルドにもある。頭の天辺辺りにある跳ねた髪が。髪を濡らしたら倒れるが乾かすと復活する。ファウスティーナもそうなのだろうか、今度会話の中で聞くタイミングがあれば聞いてみよう。
――って、違う!
ファウスティーナの特徴的な髪を気にして本来の感情が消えるところだった。夜にシエルはファウスティーナを連れて何処へ行くのか。後ろを歩いていた侍女が「殿下?」と声を出して前にいた侍女が此方に気付いた。
「殿下? 如何なさいました」
「さっき、叔父上とファウスティーナが通って行っただろう。気になってしまって」
「王弟殿下にお会いになられますか?」
2人が何処へ行ったか気になる。が、今夜は寝る前にネージュと盤上遊戯をする約束をしていた。夜更かしをさせて明日に響いたらネージュが可哀想だからと予習を理由に断っていたものの、今日断ると涙目になられてベルンハルドは反射的に約束をしてしまった。後から嘘泣きと知るも、兄弟で沢山遊べるのも今だけだと言うネージュの言葉にベルンハルドも納得した。
シエルに会いたいというより、ファウスティーナを連れて何処へ行くのかが気になる。
叔父と婚約者。
教会の司祭と女神の生まれ変わり。
可笑しくない組み合わせでも、ベルンハルドは気になってしまった。
「……いや。ネージュと約束がある。叔父上には明日会うよ」
気になっても、約束を破っても良い理由にはならない。
再び歩き出したベルンハルドは明日になったらシエルに何処へ連れられたのかをファウスティーナに訊ねることにした。
私室に戻るとネージュが待っていた。先に入浴を済ませており、髪も肌もしっかりと乾かされている。無邪気に自分を誘う弟の許へ行き、盤上遊戯をする前にとホットミルクを渡された。
ハチミツがたっぷりと入れられたホットミルクを飲むと心に広がる温かさが心地良い。何度飲んでも飽きない。ファウスティーナがオレンジジュースを好んで飲むのもきっと同じ理由なんだろう。温めたオレンジジュースも美味しかった。気分が優れない時に飲むと良いとメルディアスは語っていた。明日、ファウスティーナと会ったらホットオレンジジュースを一緒に飲むのも悪くない。
隣のネージュが飲むのは砂糖を入れたホットミルクであった。甘さが足りないと口を尖らせ、テーブルに置いてあるガラス瓶を引き寄せた。蓋を開け、砂糖をミルクの中へ落としていく。
2個入るとベルンハルドは止めた。
「ネージュ。それ以上は入れ過ぎだ。始めからいくつか入っていたんだろう?」
「今日はとても甘いのが飲みたい気分なんだ」
「気持ちは分からなくもないが、1度飲んでみて」
「心配性だな兄上は」
言われた通り砂糖たっぷりのホットミルクを飲んだネージュは眉尻を下げた。入れ過ぎだったのだ。ベルンハルドが止めなかったら更に入れていただろう。
苦笑して自分のマグカップを持ち上げた。
「残さず飲むんだぞ」
「分かってるよ。ふふ、こうやって兄上と一緒にいられてぼくは嬉しいよ」
「どうしたんだ、突然」
「ぼく、ずっとベッドの上にいたでしょう? ベッド以外の場所で兄上といられるのが嬉しいんだ」
毎日欠かさず薬を飲み続け、医師や周囲の言う事に従い、時に我儘を言って困らせたりするものの、自分の体を早く治そうと努力している姿を知っている。知っているからこそ、ネージュの成長には目を見張るものがある。
季節の変わり目等では体調を崩しがちで油断ならなくても、着実に良い方向へ向かっている。
このまま、何事もないままでいてほしい。
ネージュの健康も、ファウスティーナとの関係も。
「ねえ、兄上」
砂糖の甘さに顔を顰めつつも、飲むとホッとした顔を見せるネージュがポツリと零した。
「兄上はエルヴィラ嬢に慕われてどう思ってるの?」
「え」
マグカップから顔を上げたベルンハルドは瑠璃色の瞳を丸くしてネージュを見やった。無邪気で無知を埋めたい好奇心の強い少年の顔がそこにはあった。
「エルヴィラ嬢って、誰が見ても分かるくらい兄上を慕っているじゃないか。ファウスティーナ嬢以上に兄上への気持ちが溢れてるから、ちょっと気になったんだ」
「ファウスティーナ以上って、そんなことは……」
あるの……だろうか。
エルヴィラと比べてファウスティーナは一線を引いた距離から接してくる。最たるものが名前呼び、だろうか。
午前の時間、フリューリング先代侯爵夫人に連れられたエルヴィラと会った。今みたいに、好奇心旺盛なネージュに言われた。
ファウスティーナといる時より、エルヴィラといる方が溌溂としていると。
「……」
そう……見えてしまっているのだろうか。ネージュの目にそう見えているなら、もっと前からファウスティーナの目にもそう映っているのだろうか……。
「あんな風に慕ってくれる人がいたら兄上だって嬉しいよね。ファウスティーナ嬢という婚約者がいても、エルヴィラ嬢とはこれからも仲良くしてあげてね、兄上」
「ネージュ……」
ネージュの言葉に他意はないように見える。
純粋に兄を慕い、気遣う弟がいる。
……言い知れぬ不安と恐怖があるのは何故……?
――だって……
他意を見せない、本心を奥底に隠し、純粋な気持ちを無駄にしないでほしいと紡げば真面目な兄は困り顔を浮かべながらも微かに笑ってネージュの頭を撫でた。
婚約者の妹とも仲良く。誰かが聞いたら誤解される言い方。室内にネージュとベルンハルドだけにしてもらっているので他は誰もいない。
甘すぎるホットミルクを飲む。底に近付くにつれ、甘さは濃くなっていく。砂糖の入れ過ぎは自分の落ち度。残しはしない。
前までの、4度までのベルンハルドだったら、どんな反応を見せただろう。
ファウスティーナに最後の止めを刺した言葉を発する前と後だったら、どんな反応だったろう。
多少違っても、どちらも根本的部分は同じ。
最初は拒絶して、最後は捨てられて愛を求めるのだ。
(ファウスティーナが絡むと兄上は冷静さを失うから)
後悔したって後の祭り。大切な人は何時だって手の届かない場所に行って。自分の隣には、要らない存在を押し付けられ永遠に大切にしろと周囲は離さない。
今の5度目。
ファウスティーナが離れていこうとする分、ベルンハルドは無自覚ながらも追い掛けていく。エルヴィラもまたベルンハルドを追い掛ける。
(ぼくは何もしないよ。まだね)
種は蒔いても、動きはしない。
動かなくても、ファウスティーナが、周りが、動いてどんどん望み通りの物語を紡いでいくのだから。
その頃、シエルに外へ連れ出されたファウスティーナは口の中に広がる甘さに感激していた。
「皆には内緒だよ?」
「はい!」
茶目っ気たっぷりに左人差し指を口元に当て秘密だと発するシエルの姿は妖艶なことか。シエルの美貌に当てられても耐性と慣れで気にしなくなったファウスティーナはもう1口と溶けたマシュマロを挟んだビスケットを食べたのだった。
2人、焚き火の前に座り、マシュマロを焼いてはビスケットに挟んで食べていく。
読んでいただきありがとうございます。




