過去―彼女がいない後①―
前回、ファウスティーナが勘当された後の周囲のお話です。
あの日々を懐かしいと思えるまで日は経っていない。のに関わらず、思わざるを得ないのは今が望んでいた未来じゃないからだ。
眉間を指と指で揉むアエリアは、忙しいというのに暇潰しの如くやってきた相手をどう追い返そうか考えていた。
『あ、はは! すごい顔だねアエリア嬢。綺麗な顔が台無しだよ?』
『お気遣い痛み入りますわネージュ殿下。とてもご機嫌が宜しいことで』
王国の第2王子ネージュは心から愉快だと言わんばかりの笑顔でアエリアを見下ろしていた。アエリアは執務机に座って天井まで届きそうな書類の山を相手に戦っているので自然とネージュは立ったままとなる。この書類は本来なら王太子妃が処理しないとならないのだが、つい最近王太子妃となった公爵令嬢があまりに無能なせいで全てアエリアに回された。
『母上はこうなるって分かってたから兄上を何度も説得していたのにね。彼女じゃ王太子妃は務まらないのに』
『ええ、ええ、そうですわね。お陰で私にお鉢が回ってきましたもの』
『君を側妃に選んだのはファウスティーナの代わりをさせる為だもの。仕方ないよ』
王太子妃筆頭候補であり、王太子ベルンハルドの元婚約者ファウスティーナはもういない。ベルンハルドから寵愛を受けていた実の妹エルヴィラを嫉妬の末殺害を企てるも、事前に企みを察知したベルンハルドに阻止され、本来なら法に則って罰を下すのに王妃による嘆願と父であるヴィトケンシュタイン公爵の温情で勘当処分となって姿を消した。当時の不服そうなベルンハルドの顔を思い出し、ネージュは更に笑う。ペラリと書類を1枚取った。
『手伝ってあげるよ。僕暇だから』
『手伝った見返りに何をお求めでしょう?』
『酷いなあ。目の前で困っている君にそんな薄情なことはしないよ』
纏めて書類を持ち上げると休憩用の硝子製のテーブルに置き、判子と羽根ペン、インクを受け取ってソファーに座った。
ファウスティーナの代わりにエルヴィラが新たなベルンハルドの婚約者に選ばれたのは、ファウスティーナが公爵家を勘当されてすぐ。エルヴィラの貴族学院卒業を待ってからで既に1年は経過していた。
だが、婚姻の儀を半月前に終えて早速問題が浮上した。
エルヴィラはあまりにも王太子妃としての執務を熟せなかった。外交はベルンハルドとセットにしているので彼がカバーをすれば良いが書類を捌く能力はなく、毎日のように増えていく紙の量に周囲の人々が頭を抱えていた。
そこで、嘗てファウスティーナと王太子妃の座を奪い合ったアエリアに白羽の矢が立った。ファウスティーナから全てを聞いたアエリアは断固拒否をした。ラリス侯爵も見るからにエルヴィラの代わりをさせようということが丸見えの王家の魂胆に頷く筈もなく。
けれど、結果は今この通り。アエリアは側妃としてベルンハルドに嫁いだ。
次々に書類を確認してはサインをしていくネージュは次の書類をアエリアの執務机から持って行った。
『僕は兄上が大好きだからこんな事を言いたくないけど、兄上は案外馬鹿だったのかな』
『言わなくても分かりきった事を言う必要はありませんわ』
『あはは! 君も言うようになったねえ。あんなにもファウスティーナに嫌がらせをして王太子妃の座に執着していたのに』
『ええ。どうしてあそこまで拘ったのか私にも分かりませんわ。最初は家の為と思っていましたが、お父様は兎も角お母様は無理をして拘る必要はないと仰有っていました。お父様があまりにもうるさいのなら、お母様が最終的に口を封じてくれますから』
妻の手作りクッキーが世界一だと豪語するラリス侯爵。その妻にもうクッキーは二度と作らないと宣言されれば、きっとアエリアにしつこく王太子妃になれとは言わなかっただろう。
拘ったのはアエリア自身。父や家を言い訳にする気はもうない。
アエリアが側妃になった理由。
それは……
コンコン
アエリアが入室の許可を出すと扉が開いた。侯爵家から連れて来た侍女が両手に包みを持っていた。
『ノルン様からお届け物です』
『お母様が?』
『はい。それと王太子殿下がアエリア様に話があるから、今夜此方へ参ると使いの者が先程』
『お断りよ。あのスカスカ娘と乳繰り合ってなさいと返事しておいて』
『アエリア様、ネージュ殿下がいらっしゃるというのに』
口の悪いアエリアを窘めるも、直す気がないのは分かり切っているのでそれ以上は言わず。ネージュがアエリアの執務室で大量の書類に苦戦を強いられるアエリアを手伝いに来るのは初めてではない為、大して驚いた様子はない。
母からの届け物を受け取ったアエリアは包みを開けた。まあ、と声を漏らした。
『お茶の用意をしてくれる?』
『畏まりました』
『殿下も如何です? 私のお母様が焼いたクッキーですわ。毒味なら私がしますので』
『ラリス侯爵夫人のクッキーの評判は母上からよく聞いているから心配はしないよ。それに、君に僕を毒殺する利益はないでしょう?』
これ、と大量の書類の束を見せつけられる。これがなくてもアエリアにネージュを毒殺する利益はない。夫を殺す利益はあるにしても。
お茶の用意をするべく侍女は部屋を一旦出て行った。
途中の書類を完成させるとアエリアは執務机から離れ、ネージュが座っているソファーの向かいに座った。
病弱で儚げな印象が強かった彼も、大きくなっていくにつれ一般よりかは多少弱いがそれでもかなり健康になった。こんなにもお喋りで愉快な性格をしているとは思わなかった。
アエリアはふと窓越しから外を眺めた。
彼女は今どうしているだろう。公爵令嬢だった彼女が平民としてちゃんと生活出来ているのか。それを知る術は恐らくあるのだと思う。しかし、あの王太子がそれを許しはしない。ファウスティーナを探る素振りをほんのちょっとでも見せようものなら、人の皮を被った鬼が面に現れる。エルヴィラに危害を加え続けたファウスティーナにも非はある。が、彼女を追い詰めたのはベルンハルド。
ベルンハルドのファウスティーナに対する感情に疑問を抱いていた。
公爵家勘当処分に不服な顔をしたので、意地悪にこう言った。
”殿下は処刑の方をお望みの顔ですわね“――と。
その時のベルンハルドの形相は今まで見たことのないものだった。実の妹を執拗に虐め危害を加えるファウスティーナに向けていた嫌悪でも、婚約者の地位に執着し必死に自分の気を引こうとする姿を嘲笑する顔でもない。
(あれは……)
空をぼんやりと見上げるアエリアは気付かない。
『本当……
――ばかで、馬鹿な兄上』
一切の感情が消えたネージュの声に。
読んで頂きありがとうございます。
物騒な単語がある新章ですがファウスティーナは相変わらずなのでご安心を(笑)