いつか、教えてあげる
「はあ……もういいだろう」
ベルンハルド本人に悪夢をどうにかする力はないと否定されても、頑としてベルンハルドでなければ救われないと泣くエルヴィラ。収拾のつかない状況をどうしようかと思う前に、溜め息と共に吐き出した言葉で場の支配権を捥ぎ取った人がいる。
赤い髪を揺らしてベルンハルドとエルヴィラの間に立ち、涙目で見上げてくる紅玉色には怒気が多分に込められていた。表情を一切変えず、組んでいた両手を解きエルヴィラの肩に手を置くと。
体を反転させシトリンの元へ押し返した。抗議の声を上げられるもリオニーは応えない。代わりにシトリンへ「さっさと連れ帰って家庭教師なり公爵夫人なりに教育させろ」と言い放ち、無駄のない動きで体の向きを変えた。
「嫌ですまだわたしのお話は終わってませんっ!」まだ諦めず声を上げるので「エルヴィラ! いい加減にしなさい!」とファウスティーナが一喝した。
久しぶりに妹へ出す大きな声。懐かしい気がしてきた。
「これ以上お父様やリオニー様、ベルンハルド殿下を困らせないで! 貴女の我儘を何でも通らせてくれるのはお母様だけ! 第一、お父様がリオニー様と大事な用があって来たのを無理矢理連れて来てもらったのなら、エルヴィラは最後まで大人しくしていないと駄目じゃない!」
記憶を取り戻す前はよくこうしてエルヴィラに怒鳴っていた。お母様とお茶をした、お買い物に行った、お散歩をした。数え上げればキリがない。
エルヴィラの我儘を何でも許してくれるのは母だけ。確かにその通りだ。ファウスティーナの我儘はどんな些細なことでも許さず、反論したら倍になって言い返し最悪頬を打たれた。
叩かれた後、いつも母は我に返ると顔を青褪めるも反抗的な態度を崩さなかったファウスティーナを見たらすぐにそれも消えていった。
父に、リオニーに、何よりベルンハルドに迷惑を掛け続けているのに一向に反省の兆しが見えないエルヴィラに遂に怒鳴ってしまった。
ベルンハルドの前で。
言い終わった後やってしまった……と内心後悔に苛まれるも表には決して出さない。此処にケインがいたら、自分ではなく、ケインが先に叱っていた。もっと前に叱っていたかもしれない。好かれていなくても姉としての役割は放棄するべきではないのだ。
案の定エルヴィラは顔を真っ赤にして言い返そうとした。が、隣を通り過ぎた人から薔薇の甘い香りが漂った。「え」と反応する前にエルヴィラの体が浮いた。
正確には通り過ぎて行った人――ヴェレッドがエルヴィラを肩に担いだ。
「な!? 何をするのです!! お父様助けて!!」
背中を叩かれても痛そうにしないヴェレッドが狼狽の色を隠さないシトリンに耳打ちした。いつもは左襟足を口元にもっていき動きを隠すのに今日はしない。前回の記憶のお陰で読唇術が生きているファウスティーナは唇の動きを読み取ってリオニーへ向いた。
「どう? 公爵様だって、もう残る手はそこにいるフリューリング女侯爵様かフワーリンの力に頼るしかないって分かってるでしょう?」
「ううむ……ケインが公子に頼んでくれたが結果は一時的だった。どうして君がそれを?」
「内緒。どうでもいいでしょう。で、どうするの?」
問う薔薇色の瞳はシトリンからリオニーへ視線を変えた。未だエルヴィラが騒いでいるが全然気にしていない。
話を振られたリオニーは小さく息を吐いた。
「私が手を貸しても同じだろうな。元凶を見つけないと根本的解決にはならない」
「どうやって見つければいいか……」
「方法はあるにはあるが今は建国祭の準備で忙しい。後回しになる」
「しょうがないだろうね……」
会話の内容を察するに例の悪夢について話していると思われる。端的でなくてもヴェレッドが微か唇の動きで発した中に“あくむ”が含まれていた。ヴェレッドからエルヴィラを受け取り、地面に下ろしたシトリンは手を握った。
「エルヴィラ、屋敷に戻るよ」
「で、でもわたし」
「もう君の我儘は聞けない。これ以上いては周りの迷惑になるだけだ。さあ、最後に殿下やファウスティーナに謝るんだ」
「……」
微かな優しさはあれど、今回は厳しさが強い声色に促されたエルヴィラは手を一旦離しベルンハルドに謝罪を述べた。ファウスティーナには不服そうな顔を隠しもしないで謝る。単にベルンハルドの視界に見えないから出来る表情だ。
苦笑しか出ないファウスティーナは頷き、父の所へ行かせた。
シエルやリオニー等に謝りの言葉を述べ、ベルンハルドにも謝罪をした後エルヴィラを連れて外へ向かった。
「はあぁ……」
一際大きな溜め息を吐いたのはリオニー。再び腕を組み、遠くなっていく父娘の背中を見やった。
「どうしてエルヴィラは変わらないんだか」
「見てて面白いよ」
「見てる側はそうだろう。関わっている側は面白くもなんともない」
「女侯爵様、妹君を助けてあげなよ」
「言った筈だ。建国祭が終わってからだとな」
「あの」とファウスティーナはリオニーにエルヴィラの悪夢について切り出した。
「リオニー様はエルヴィラの悪夢をどうにかする方法を知っているのですか?」
「なあにお嬢様、盗み見たんだ?」
「ううっ」
読唇術を習っているのを知っているから意地悪げに問われる。ヴェレッドは人を揶揄う隙を絶対に、絶対に見逃さない。よくシエルやオズウェルに叱られても。本人の愉しみの1つらしい。
「フワーリン家の公子がやって効果薄なら、私がやったところで同じだろう。根本的解決をしなければ、あの手の悪夢は消えん」
「根本的解決?」
「悪夢の元凶だ。それを知らない限り、悪夢から逃れられない」
「……」
悪夢の元凶、か。自分が公爵家を勘当された後、貴族学院を卒業したエルヴィラはベルンハルドと結婚をし、正式に王太子夫妻となったとアエリアに聞いた。幸せそのものなエルヴィラが悪夢に魘される程の元凶とは何なのか。アエリアに聞いても自分で何とかしなさい、と言われるのがオチだろうがダメ元で手紙を出そう。
こういう時、本気で自分やアエリア以外に前の記憶を持つ人がいないかと願ってしまう。身近な人なら、悪夢の元凶のヒントになるものを持っている気がする。
ケイン辺りに前の記憶があったら、どれだけ心強いか……とそっと息を吐く。
「ファウスティーナ」
前の記憶を持つ人、前の記憶を持つ人。
思考が1つに集中され、何度も同じ言葉を繰り返していたら不意にベルンハルドに声を掛けられた。肩が僅かに跳ねたのは意識が違う方へいっていたから。ファウスティーナを驚かせてしまったとベルンハルドは「ごめん」と謝り、もう後姿が見えなくなったシトリンとエルヴィラが歩いて行った方向へ瞳をやった。
エルヴィラに言い過ぎだ、もっと優しく言えなかったのか、と彼は言うのだろうか。前と同じ、部屋で待っていろと言われたのに何食わぬ顔で現れてファウスティーナの怒りを食らって、泣いて部屋を出て行ったエルヴィラを庇い追い掛け慰めていた嘗てのように。
……言ってしまわれれば、シエルやヴェレッドに心置きなくエルヴィラとの婚約を進める。
けれど――
「殿下、妹の数々の無礼お許しください」
「いや……顔色は悪かったし、目に隈が出来ていたから碌に眠れていないんだろう。睡眠不足が深刻だと人格を変えると読んだ。エルヴィラ嬢の気が立っていたのもそのせいだろう。さっきのファウスティーナ、ちょっと意外だった」
「意外、ですか?」
「うん。ケインがエルヴィラ嬢を叱っているのは何度か見たけれど、ファウスティーナがああやってエルヴィラ嬢を叱っているのは初めて見た」
「……殿下は」
「うん?」
「殿下は……私を怖い姉だと思わなかったですか?」
「どうして? 悪い事をしたら叱られる。普通だよ」
「……」
今の彼と前の彼は違うんだ、と何度も自分に言い聞かせてきた。
前は最初の自分が悪かった、だから嫌われた。王妃教育を頑張り、王妃に性格を矯正され、好かれるように凄絶な努力を積み重ねた。
「僕はああやって声を上げて叱られたことはないけど、声を上げなくても少ない言葉で叱られるのもとっても怖いよ。相手が母上や父上だからかもだけど……」
――殿下……ベルンハルド殿下……前の貴方は、私の変わっていく姿を見ても私を拒み続けました。私が詰ればエルヴィラとの関係を強くした。そうまでして、貴方が私を嫌っていた理由は何だったのですか……
意識が暗く落ちていく。前の自分の努力は、最初にエルヴィラに何もしなかっただけで簡単に覆せるのかと。駄目なのに、彼は悪くないのに。理不尽だと、黒い感情が湧き上がる。
ポン――と頭に手を置かれた。上を見るとシエルが怪訝な顔付で見下ろしていた。
「どうしたの? ぼうっとして」
「あ、いえ」
隣に肩を並べて美を争える人はいない、圧倒的美貌のシエルの微笑みは心底ファウスティーナを安心させてしまう不思議な力があった。心の黒い靄は霧散し、そう、と笑いかけられるとファウスティーナも微笑み返した。
前は前、今は今だ。
碌な思考に捕らわれれば、深みに嵌って抜け出せなくなるのは自分自身。
ベルンハルドの愛に固執し、視野が狭くなって周りが見えていなかったのは自分の責任。彼ばかりに矛先を向けて自分を棚に上げるのは違う。
「ありがとうございます、司祭様」
「私何かしたかな」
「内緒です」
「おやおや、どっかの困った坊やの癖が移っちゃったな」
「ふふ」
――信頼されている人にだけ向けられる純美な微笑み。向けられた事がない、とは言わない。ただ、頻度の多い叔父が羨ましい。
羨ましげにシエルを見つめ、楽しげに笑うファウスティーナを寂しげに見つめてしまう。ファウスティーナの立場に自分がなっても同じ、天上人の笑みは他者を魅了する不思議な力がある。自然と人を喜ばせてしまう。
嫉妬しても誰も悪くないのに狡いと……抱いてしまう、自分の心の狭さを嘲笑する。
さっき、エルヴィラに叱ったファウスティーナはベルンハルドの名前を呼んだ。無意識なんだろう。場面が違ったら素直に喜べた。あんな時に名前を呼んでもらえただけで喜ぶ方がどうかしている。
……と言い聞かせても、ちょっと嬉しかった自分がいる。
「辛気臭い顔してるねえ王太子様」
揶揄する声の主は見なくても分かりきってる。嫌そうに顔を向ければ、愉快げに笑ってる。
「シエル様とお嬢様が仲良しなのが気に入らない?」
「何を言ってる。叔父上とファウスティーナの関係が悪いよりかは良いに決まってる」
「嘘だね。ほんとは悋気を起こしてる。そうでしょう?」
「……」
確信を得て聞いてくる。趣味が悪い。悪趣味だと零せば、何が面白いのか笑うだけ。
面を顰めたら頭に手を置かれた。
「シエル様がお嬢様を大事にしてるのは本当だよ。でも、王太子様は嫉妬しなくてもいい」
「それくらい」
「分かってない」
言葉を遮断され、笑いながらもヴェレッドの声色に真剣さが増した。
「王太子様。君がお嬢様を大事にするなら、教えてあげてもいい。シエル様がお嬢様を大事にする理由を」
「女神の生まれ変わりだからだろう?」
「ううん。それだけなら、シエル様は特別可愛がったりも大事にもしない。その他大勢と同じになる。君がお嬢様をずっと大事にするのなら、シエル様は幾らでも君に手を貸す。俺もそう。そこにいる女侯爵様も」
「ファウスティーナは叔父上とフリューリング女侯爵にとってどう大事なんだ?」
「それを知りたいなら、お嬢様とは今のままでいるんだ。
――そうしたら君もお嬢様もきっと幸福のままだよ……」
ルイスの生まれ変わりじゃない王太子様に、リンナモラートの生まれ変わりであるお嬢様と結ばれる資格はない。
それでも――
「…………僕はそれでも良いと思うなあ」
「何を言ったんだ?」
「さあ? 王太子様耳可笑しいんじゃないの?」
お嬢様がとても幸せそうなんだから。




