不穏な気配はあちこちから
何処を向いても、何処を走っても、延々と続く真っ黒な世界。声を上げて泣き叫んでも愛しい人は助けに来てくれない。何度も彼を呼んだ、助けを求めた。でも、彼は来ない。助けは来ない。
役立たず、能無し、顔しか取り柄のないお飾りの王太子妃。
知らないのに、知っているような声に罵倒され続ける悪夢。いや、本当の悪夢は罵倒じゃない。
「いや……いやあ……っ」
何をされているか分からないのに、凄まじい嫌悪が体に襲い掛かって来る。
また悪夢を見て魘されているエルヴィラの額には多量の汗が浮かび、瞼を開けようとしても上から押さえつけられてもいないのに動かせない。
誰かがエルヴィラのせいだと言う。一体自分が何をしたのか、と問いたくても口から出るのは悲鳴と助けを求める声だけ。
『ちゃんとしてよ? 君が言ったんだから、ぼくはさせているだけ。君にしか出来ない仕事だと君は常に言っていた。自分から言い出した務めはちゃんと果たしてね』
●〇●〇●〇
片手に辞書を持って書庫室へ向かうケインは途中出掛ける格好で執事を伴って玄関ホールへ向かう父を見つけた。薄黄色の瞳がケインを捉えると足を止めた。
「父上。どちらへ行かれるのですか?」
「ちょっと王城にね。リオニーに会ってくるよ」
「リオニー様ですか。確か、先代侯爵が療養している地に居ると聞いております」
「昨日王都に戻ったと聞いてね。あまり容態が良くないみたいで、僕が知っている腕利きの医者を紹介しようと思う。それと他にもリオニーと話しておかないといけない事がある。今日はファナが戻って来るから、なるべく早くには帰るようにするよ。あ、お土産は何がいい?」
「俺はなんでも。ファナが戻るから……『エテルノ』のアップルパイを買ってあげたら喜ぶかと」
「じゃあ、皆の分を買って帰るとするよ」
そろそろ行くよ、とシトリンに頭を撫でられ出掛ける後姿を見送ったケインはそのまま書庫室へ向かい、辞書を元の場所に戻した。リュンが戻しに行くと言ったが動きたい気分になったから自分で来た。そのリュンには今軽食を作ってくれと頼んだ。今朝は量を少なめにしたから、空腹を覚えてしまった。
今朝と言うとトリシャに連れられたエルヴィラは酷い顔をしていた。また悪夢を見て魘されたとか。医者が施した睡眠薬の効果が無くなってきている。
他の薬をと思うも睡眠薬ばかりに頼っては体に良くない。別の方法を模索することに。目元は泣きすぎて赤く腫れ、濃い隈が浮かんでいる。『リ・アマンティ祭』以降、悪夢が酷くなっているらしい。
何を見たか問うても何も分からない、でもとんでもない悪夢に襲われているとエルヴィラは語る。
分からないままでは根本的な解決が出来ないと両親は頭を抱えているが、分からないままがエルヴィラの幸せだ。分かってしまえば、人生は終わりのない悪夢になるだろう。
どうせ無かった事になるなら、何をしてもいいと言う理由にはならない。が、これを言えばアエリアから非難の嵐を食らいそうだ。結局自分もネージュと同じ人でなし。実の妹が苦しんでいるのに、今は実害が出てないから良いと判断して様子見をしている。
「……ファナは……」
不意に名前を零したのはもう1人の妹の名前。4年前、ベルンハルドと初めて顔を合わせた日ファウスティーナは倒れた。以降、今までと全く異なる姿を見てきた。きっとケインの勘は当たっている。
ファウスティーナがどこまで思い出したか分からなくても、最初の間違いを犯さなかったのはこれが原因でベルンハルドに嫌われ続けると知ったからだ。
11歳の止めの言葉は恐らく覚えていないのだろう。ファウスティーナが変わったのはそれからだったから。欲していたベルンハルドの愛を捨て、母の愛を捨て、自分を大事にしてくれる人にだけ心を開いた。
代わりに心を閉じられたベルンハルドと母は、ファウスティーナの愛を乞うようになった。どちらも手遅れだった。
「はあ」
本棚に凭れ、溜息を吐いたケインは天井を見上げた。
ファウスティーナがベルンハルドから逃げようとするのも、エルヴィラを押し付けようとするのも2人が結ばれればベルンハルドが幸福になるからと信じているからだろう。
実際は真逆。ベルンハルドは永遠に逃れられない不幸の檻に閉じ込められる。幸福なのはエルヴィラだけ。
4度も見てきて知っているケインだから、ベルンハルドの幸福にはファウスティーナが必要なのだと確信している。
ファウスティーナが戻ってきたら、人払いをして問おう。
「ただ、なあ……」
前の自分を覚えているか、なんて普通に聞いたら頭の心配をされるのはケインの方。
どう切り出すべきか。
「……ん?」
遠くの方から騒がしい声が届いてくる。気になって書庫室を離れ、声のする方向へ足を向けると玄関ホールに着いた。朝食が終わると部屋に戻って休んでいたエルヴィラが出掛けようとするシトリンに泣き付いて困らせていた。トリシャがやんわりとエルヴィラを説得して引き剝がそうとするも、頑なに離れようとしない。
訳を聞かなくても理由を察したケインは近付こうとするが、その前に諦めたシトリンがエルヴィラを連れて外に出てしまった。心配げな眼差しで扉を見つめるトリシャに話を聞くと予想通りだった。登城すると聞き付けたエルヴィラがベルンハルド会いたさでシトリンに一緒に行くと泣き付いたのだ。
悪夢を見て魘されまともに眠れないエルヴィラの言い分は、ベルンハルドを見たら眠れるようになる。実際はきっと逆。ベルンハルドに会えば会う程、悪夢は酷くなっていくだろう。悪夢を植え付けた本人は知っても「そうなんだ」と笑うだけ。
「父上が連れて行ったのなら、戻るのを待つしかないよ」
「そう、ですね」
「ファナと途中で会わないといいけど……」
「お嬢様は屋敷に戻られる前にお城に行くのですか?」
「司祭様がいるから、そっちの方が確率的に高いよ」
「鉢合わせしないといいですね」
建国祭まで後10日。このまま、何事もなく10日後を迎えてほしいがどうなるか。
――南側から王都へ馬車で戻ったファウスティーナは先に降りたシエルに降ろされる。些細な時でも過保護さが表れる。
「あ」
降りて最初に会ったのは宰相のマイムだった。以前にもあったなと過る。きっとシリウスの命でシエルを待っていたのだ。
「お待ちしておりました、ヴィトケンシュタイン公女、シエル様」
「うわ、出た。ねえシエル様、マイマイ君って暇なんだね。宰相さんって忙しいイメージがあったのに」
「……陛下がお待ちですので、シエル様は私と。公女は別室にて待機を」
「ねえーシエル様ーマイマイ君が俺を無視するー」
「うるさいぞ君は!! 前にもあったなこんなやり取り!!」
耐えて、耐えて、蟀谷をピクピクと反応させながらヴェレッドの存在を素通りしようと心掛けたマイムだが。執拗にシエルへ絡みに行くのと同時にこっちにも絡んでくるヴェレッドに遂に限界が達した。確かにいつぞやにもあったやり取り。反応したら負けなのに、マイムは我慢ならなかった。
したり顔でマイムを見た後、すぐにどうでも良さそうに欠伸をした。
「ふあ……。飽きてきたから俺もお嬢様と大人しく待ってるね」
「はいはい。好きにしたらいい」
「……」
付き合いの長いシエルは気分屋に振り回されるのは慣れており、ファウスティーナの空色の頭を数度撫でて目線を合わせた。
「すぐに終わらせるから、ちょっと待っていてね」
「はい」
「何だったら、城の中を案内してもらったらいいよ。私のお気に入りの場所をヴェレッドが知ってるから、連れて行ってもらいなさい」
蒼い瞳が眠そうにしながらも耳だけはしっかりと働いているヴェレッドへ投げられる。面倒そうだが連れて行ってくれるようで、こっち、とヴェレッドはファウスティーナの手を引いて歩き出す。急過ぎて転びにそうになるが、咄嗟に支えられて再び歩き出した。
リンス―も追い掛けて行ったのを見届け、シエルはマイムと城内へ入った。前を歩くマイムが「そういえば」と切り出した。
「ヴィトケンシュタイン公爵とリオニー様がお出でです」
「2人も陛下の所へ?」
「いえ。場所は別です。フリューリング先代侯爵のご容態があまり芳しくないみたいでして……」
「そう。夫人の方は」
「先代侯爵夫人ですか? 夫人の方は特に聞いておりません」
「そう……」
赤ん坊だったファウスティーナに危害を加えようとした。それだけでシエルにとって害にしかならない。仮令相手がアーヴァの母で、実の兄に無理矢理生まされた娘を憎んでいても。
先代侯爵の話は時折耳にしていた。もう長くない。
「……いっそのこと……」
「シエル様? 何か?」
「……いや。君の気のせいだよ」
いっその事……1人孤独に始末しようか……。
年々アーヴァに似てきているファウスティーナを見たら、気が狂って何をしでかすか。事態が何も起きていなくても建国祭が終わってから始末する段取りをつけよう。
マイムの話を右から左に聞き流しつつ、シリウスの待つ場所へ案内された。
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