手を繋いだまま、駆け出した
馬のお腹を見たのは初めて。等と呑気に抱いている暇はないのに、目前に危機が迫ると人間の思考回路は停止され、何も考えられなくなる。高く振り上げられた逞しい蹄が振り下ろされる――と漸く我に帰った時、ファウスティーナの思考は動き出し。同時に体が物凄い力で後ろに引き寄せられ馬との距離が遠くなった。
ふわりと舞った甘い薔薇の香りと頭上から降った「危なかったね」と状況と合わない穏やかな声にゆるりと上を向いた。ニンファに怪しげな薬を掛けられ苦しんでいたシエルがいつもと同じ様子でファウスティーナを見下ろしていた。何度か瞬きを繰り返してやっと「司祭、様……?」と発せた。
「うん」
「だいじょうぶ、なのですか?」
「ああ、あれ? そうだよ。ああなるだろうとは予想していたから、ちゃんと対策をしていたんだ。なんともないよ」
最後にシエルを見たのがあれだったから、メルディアスに連れられ会場を出た後の事を知らない。だからシエルの安否も知れなかった。心底ホッとした息を吐いたら、足の裏に硬い感触が。地面に降ろされたのだ。体毎シエルに向かされ――抱き締められた。
「やれやれ、ヒヤッとしたよ。君が無事で本当に良かった」
「わ、私も、司祭様が無事で良かったです」
「ほんの僅かな時間がずれたら、今頃馬に蹴られて大怪我を負っていたところだ。人の恋路を邪魔していない子が馬に蹴られるのは見るに耐えない」
邪魔している。現在進行形で邪魔をしている。ベルンハルドとエルヴィラの。だが、今言う台詞でもない。シエルの温もりと薔薇の香りはどんな状況下でも与えられると安心してしまう。
「ファウスティーナ! 叔父上!」後ろから飛んできたベルンハルドの大きな声で、シエルに抱き締められながら顔だけ後ろを向いたファウスティーナ。ベルンハルドが必死な形相で走って来るその後ろ、エルヴィラはショックを受けた面持ちをしていた。何があったのかと抱くもベルンハルドが到着すると彼しか見えなくなった。再びファウスティーナと呼ばれるがシエルが片手をベルンハルドに伸ばし、引き寄せた。
「ベルも無事だね。それだけ動けるなら、怪我はしてないね?」
「はいっ、叔父上は」
「私は平気だよ。何ともない。よく頑張ったね。怖かっただろう」
「は……い、いえ、僕は」
「強がらなくていいんだよ、今は」
「……はい」
一緒にいる時、せめて自分だけはと気丈に振る舞っていたベルンハルドの顔色はずっと悪いままだった。平和に浸っている中で降り掛かった悪夢の耐性は2人にはない。シエルに頭を撫でられながら、ベルンハルドの瑠璃色の瞳がファウスティーナへ。瞳に映る気持ちには、確かな安堵があった。
「ファウスティーナはどこも怪我してない?」
「司祭様が助けて下さったのでどこも怪我はしていません」
「良かった。…………僕が助けに行きたかった」
「?」
最後の台詞は、俯かれ小声だった為よく聞き取れなかった。首を傾げたら「シエル」と今この街にいていいのかと問いたくなる人の声が。3人の色の違う瞳が一斉に向けられた。
シリウスは全くたじろがない。
「公女に怪我は?」
「ありませんよ。私がそんなヘマをするとでも?」
「ないならいい」
「それより、連中は?」
「自害をした者、逃げた者以外は全員捕らえた。すぐに王都へ連行して尋問官に渡す。逃亡した者もそろそろ捕らえられるだろう」
「黒幕の方はどうするのです」
「私が王都に戻り次第、捕らえる。決定的な証拠も此方は掴んでいるから、言い逃れは出来ないだろう」
「そういうところは父上に似ましたね。まあ、私も同じか」
仲が最悪なレベルで有名な異母兄弟でも、状況が違えば会話の空気も変わる。
「父上、ネージュは」
「ネージュなら教会の医務室で休ませている。侍女も一緒だ。体調が安定次第、王都へ送らせる」
極度の緊張と不安から、病弱な体のネージュは発熱してしまった。メルディアスに安全な場所へ案内されている最中に。ネージュとはそれきりだったからその後を知れてベルンハルドもファウスティーナも安心した。
朱色に染まった燃えるような空を見上げた。楽しい時間の空は雲一つなく、美しかった。今も夕焼けに染まって朱になった空も美しい。だが、今美しいと抱けるのはやっと安心出来る状況になれたから。今も敵の恐怖で怯えていたら、この夕焼けは見られなかった。仮令外にいても、そうは思えなかった。
人の気持ちの余裕は状況によって大きく変わっていく。
ファウスティーナとベルンハルドを離したシエルが込み入った話をシリウスとするべく行ってしまうと、残された2人は顔を見合わせた。
「もう2度と今日のような事は御免だよ……と言いたいけど、何時何が起きるか分からない。僕達に出来る事って何だろう」
無力な自分でも出来る事……ファウスティーナはゆっくりと紡いだ。
「考えましょう。考える時間は沢山あります。考えて、駄目だっても、また考えて。ちょっとでも自分が行動しえる最大をしましょう」
「そうだ、な」
「……あの、殿下」
夕焼けに照らされた紫がかった銀糸もそれを背景にする彼も、どれもファウスティーナでは表現出来ない美があった。
「『リ・アマンティ祭』今年は大惨事になってしまいました。それでも、また次に開催されたら、殿下を誘ってもいいですか」
今年が今年のせいで来年の開催は中止されるかもしれないし、規模を縮小する可能性だって否めない。
ベルンハルドと街を歩くのは楽しかった。
露店巡りをして、一緒に見るのは楽しかった。
信頼と親愛を向けられて嬉しかった。
一緒にいられて幸せだった。
将来エルヴィラと結ばれる運命だと信じていても、ベルンハルドとの楽しい一時をこれっきりにしたくない。アンバランスだと自分でも自覚しても、譲れない譲りたくない。
「僕もだよ。僕もまたファウスティーナと一緒に回りたい。『リ・アマンティ祭』だけじゃない。他のお祭りやお祭りがない時でも。ファウスティーナと色んな場所へ行ってみたい」
前の自分が愚かだったのは、冷静になって考えても理解出来るのは根本的部分が同じだから。
どんなに冷たくされても蔑まれても憎まれても、前は他者に向けられていたこの笑みを向けてほしかったから。信頼が欲しかった、愛情が欲しかった。繋がれた手から伝わる温もりは心さえ温める。
繋いだ手を離してほしくない。ずっとこのままで。
「あ、叔父上が呼んでる。行こうファウスティーナ」
「はい、殿下」
いつの間にか周囲には自分達しかいない。
遠くから手招きをしているシエルの元へ2人手を繋いだまま駆けた。
前を行くベルンハルドの背中を知っている気がした。こうして手を繋いで走るのは今が初めてじゃない。何度かあったのに、遠い昔同じような場面があった気がする。
(まあ、いっか)
シエルが立っている場所へ着くまで、ファウスティーナはずっと微笑んでいたのだった。
読んでいただきありがとうございます!




