逃げるのは恐怖故の本能
スカートの裾を持って走った。走って、走って、走って――。
(怖い、怖い、怖い……‼︎)
側に居られないなら、姿だけでも目に焼き付けていたかった。可能なら、視線に気付いて見てほしかった。意中の彼は恋人達や司祭に夢中で全く見てくれなかった。それが退屈で、不満で下を見た直後に事件が起きた。
建物に響いた爆発音に強烈な衝撃を受けたエルヴィラは、更なる衝撃を受けた。常に微笑を携えている司祭が恋人と参加している女性に液体を掛けられ、顔を手で押さえ苦しんでいた。
誰もが思考を停止した。
そして、状況を理解すると……我に返り、誰よりも早く安全な場所へ逃げようと出口を目指して駆け出した。エルヴィラも同じだった。
恐怖からの震えよりもこの場に留まる事の方が大きな絶望を抱いた。
「ケイン、エルヴィラ、動いちゃいけないっ。僕の側を動かないように!」
父が自分や兄に何かを言っていたがエルヴィラはちゃんと聞いておらず、人混みの中から小さな隙間を見つけると走り出した。
背後から「エルヴィラ!! 行っちゃダメだ!!」兄の大きな声がした。常に冷静で声を上げた回数なんてゼロに等しいあのケインが大きな声を上げるほどなら、留まる方が危険が倍増してしまう。どうして逃げようとしないのかがエルヴィラには理解不能だった。
無我夢中で走り切ったエルヴィラが冷静に周囲を見られたのは、会場の外に出てからだった。
外には会場から逃げて来た人達が大勢いて、皆身内と逸れてしまった人ばかり。
「……お父様……? お兄様……?」
エルヴィラは父と兄を探した。きっと追い掛けて外に出てると探すが何処にもいない。また、人が多いせいで探し難いのもあった。
「お兄……様っ、お父様っ」
こんな事態になるのなら、お祭りになんて来なければ良かった。
毎年『リ・アマンティ祭』へ赴くのは父と兄だけだった。メインイベントは見ず、露店巡りをするだけと聞いていた。遠い南の街まで行って露店巡りをするだけなのは嫌だった。今日エルヴィラが露店巡りに参加したのは、父からベルンハルドがお忍びで来ると聞いたからだ。朝から侍女やメイドに準備をさせ、気合を入れてお洒落をした。ベルンハルドに可愛いと言ってほしくて、見てほしくて。
「ベルン、ハルド……様……」
ところがベルンハルドはファウスティーナとお祭りを周ると、エルヴィラは入れなかった。婚約者だから優先される姉が嫌いになった。元々好きだとは抱いていなかったけれど、ベルンハルドと婚約してから嫌いが強くなった。
昔から母に叱られてばかりの姉を姉と思わないのは当然で、けれど父や兄に大事にされて母には期待に満ちた眼差しを向けられるファウスティーナが羨ましかった。母は甘やかしてはくれても、輝きに満ちた期待の瞳はくれなかった。ケインやファウスティーナには出来て当たり前なことは、エルヴィラにとっては難しく、距離はどんどん空けられた。
初めはエルヴィラに厳しかった母も、エルヴィラが上2人とは違って何も出来ないと泣き叫んだ事で厳しくしなくなった。代わりに2人を甘やかさせられない分、エルヴィラを甘やかした。
嫌いなお勉強も苦手なマナーレッスンも嫌だと言ったら家庭教師を黙らせてくれて、お茶をしたい、お出掛けしたいと言ったら喜んで一緒にしてくれた。
時折、父が苦い顔で勉強に力を入れなさいと言ってきても守ってくれた。
「どこ……どこにいるのですか……!」
どんな時でも守ってくれる母は、公爵邸に残っている。屋敷の管理は女主人の役目。今朝、子供達や夫を快く見送ってくれた。
リュンやトリシャ、リンスーはメインイベントが終わる頃合いで会場へ迎えに来る予定なので当然今はいない。騒ぎを聞き付けるにしても時間が掛かる。
1人ぼっちな今、エルヴィラはもう1度会場に戻ろうかと過ぎった。
「……っ」
戻ってもシエルを襲った女性以外にも、怖い人はいるかもしれない。考えれば考えるだけ足が凍る。
知り合いもいないなら、人が少ない場所に行こうと辺りを見出した時。
「ねえ」
「!!」
体が大袈裟な程に跳ね、声を掛けてきた相手は「あ、はは。何その反応、猫みたい」と愉快そうに言う。恐る恐る振り返ると以前家出騒動を起こした時、教会の司祭が王弟であるのを知らない自分を揶揄ってきた最低な男性が立っていた。表情も声色と同じ。最悪だ。
「な、なんですかあなたは!」
「俺? 1回しか会ってないから忘れるか。でもどうだっていいでしょう。こんな時に1人で何してんの? 公爵様は?」
「それは……」
突然の爆発音やシエルに襲った悲劇で恐怖心が急上昇し、パニックになって逃げ出した……と目の前に男性に言えなかった。言ったら馬鹿にされてしまう。今でさえ人を馬鹿にする様子なのに。
「嘘。知ってる。妹君、公爵様や坊ちゃんの制止を聞かず飛び出して来たんでしょう? で、冷静になって途方に暮れてる最中。考えなしの馬鹿もちょっとは懲りた?」
「な、ぶ、無礼よわたしに!」
「どうでもいいよ。俺にとって妹君はどうでもいいから」
声色も態度も紡ぐ言葉も何もかも不愉快。言葉を発するだけ男性に対する不愉快さが増す。このままいたら余計腹が立ってしまうとこの場を立ち去ろうとするも、首根っこを掴まれた。
大声を出して周囲の目を引きつけ、騒動の最中貴族の子供を誘拐しようと企む不届き者だと周囲に印象付けたかったのに、男性は表情から色を一切消し去った。
「どうでも良くても、君が本当にいなくなったらお嬢様も坊ちゃんも悲しんじゃう。ある程度片付くまで俺といてね」
「なんであなたなんかと!」
「後でシエル様に盛大に叱られるのに、態々来てあげたんだからちょっとは静かにしてね。迷惑」
「っ〜!!」
勝手に追い掛けて来たのはそっちなのに、とエルヴィラは顔を赤くして睨みつけるが男性への効果は全くなかった。
「予想より人員も少ないし被害も最小限、か。過剰に心配しなくて良かったかも」
「何を1人でブツブツ言っているのです」
「うん? うん。君じゃ理解が追い付かないから独り言言ってるの」
どこまでも人を小馬鹿にする男性に腹立たしさしか上がらない。何度か掴まれている首根っこを離してもらおうと足掻いてもびくともしない。
「そう嫌がらないでよ。俺だって嫌なのに」
「だったら何処かへ行きなさいよ! 屋敷に戻ったら、お父様やお母様に言い付けてやるんだから!」
「あ、はは! 俺が君を雑に扱うから? 公爵夫人が怒っても、最終的な決定権は公爵様にあるんだ。シエル様に歯向かえない公爵様じゃ役に立たない。君が俺に怒っても誰も何もしてくれないよ」
相手はシエルが幼い頃貧民街から拾った孤児。かたや自分はヴィトケンシュタイン公爵家の娘。身分で言うなら自分が圧倒的に上。優しい父といえど、娘がどのように扱われたか知れば黙っていない。男性に言い返しても愉快な相貌は消えない。逆に増した。
「騒ぎが落ち着くまでは俺といることだね。でないとどさくさに紛れて犯罪に手を染める奴だっているんだ」
「こんな時に泥棒でもすると言うのですか!」
「そうだよ。誘拐とかね」
「……え」
相手を馬鹿にする愉快な表情はそのまま、但し王国では他にいない薔薇色の瞳の冷気が格段に増した。視線がエルヴィラから違う方向へ向けられた。言葉を失ったエルヴィラが見た先には、慌てて逃げるように早歩きで去っていく男がいた。
「……」
「君みたいな身形の良い子は大体貴族か金持ちの子と判断される。逸れた親を一緒に探すって名目で人気のない場所まで連れて行くんだ。そこで生きていても殺されるのと同じ待遇が待ってる」
「ひっ」
「分かった? 俺といる方が安全なんだよ。現段階ではね」
嘘か真実か判断がつかない馬鹿じゃない。男性が言っているのは、さっき慌てて去って行った男の存在のせいで真実味が増している。更なる恐怖心がエルヴィラを襲った。
「……ふわあ……早く終わらせろよな……シエル様も王様も」
拾ったばかりの野良猫よろしく、威嚇し続けていたエルヴィラを嘘と真実を織り交ぜた話をして黙らせたヴェレッドは会場へ目をやった。中は未だ連中がいる。女神をいき過ぎた心で崇拝する連中の狙いはファウスティーナ。シエルに液体を掛けたのは、前にファウスティーナに危害を加えた女性ニンファ。シエルが目的なのは明白。使い捨て要員は多い方がいいからと未来のないニンファを甘言で引き入れ、実行犯に仕立て上げた。
恋人役で一緒にいた男から察するに計画の順序が大幅に異なったのは明白。シエルが欲しいあまりに暴走した。誰をも魅了する美貌は、時として害を呼ぶ。
シエルもシエルの生母もそうだ。美し過ぎる容姿のせいで様々なものを引き寄せた。
「お嬢様も同じか……」
魔性の令嬢を母に持ち、尋常ならざる美貌の父を持ってしまったのと追加して女神の生まれ変わりという、特殊極まる出生のせいで波乱しかない運命を背負った少女。最初はシエルの娘だから大事にしていたが、最近では中身が面白いからシエルの娘ではなくても気に掛けていたと思うようになった。
メルディアスがファウスティーナを警護しているのなら、此方が想像もしない強敵でない限り無事であろう。王太子や王子がいるが連中の狙いはファウスティーナだけ。目的以外は手を出さないのが連中の特徴である。無駄な時間を割いて他の行動を取る必要がないから。
その部分は遠い昔から変わらない。
ヴェレッドは下を見た。エルヴィラは顔を青くして大人しくしている。
落ち着くまで我儘で自分勝手なエルヴィラの相手をし、公爵が出てきたら引き渡そう。
眠そうに大きな欠伸をし、出入り口を見続けた。
あの時、シエルの元へ駆け付けるつもりが、人の波が迫り上手く身動きが取れなかった。不意に響いたケインの声と青い顔で走って行くエルヴィラを見て事情を一瞬にして理解するも、己にとって最優先なのはシエル。他はどうでもいい。エルヴィラは忘れて動こうとしたヴェレッドは別人に化けたシリウスと会った。
(俺もシエル様のところにいたかったなあ)
だって、あっちの方が面白いに決まってるから。
しかし、エルヴィラを追い掛けると決めたのはヴェレッド自身。
普段は仲が悪くても緊急事態ではシエルもシリウスの言う事はある程度聞くだろうと踏み、簡単に事情を説明してエルヴィラを追い掛けた。
エルヴィラがどうなろうがヴェレッドにとってはどうでもいい事であるが、何かあればファウスティーナやケインが悲しむ。カインの顔を被って公爵邸にいたヴェレッドは常にファウスティーナを気に掛けていた傍ら、ケインにも掛けていた。
年相応には見えない落ち着きと知識の多さ、振る舞い。公爵家の跡取りだからの一言では済ませられない。好奇心旺盛なヴェレッドが濃い謎に包まれたケインに興味を引かれないはずはなかった。
どんな時でもほぼ無表情で声も一定の感情しか発しないケインが焦りの強い大声でエルヴィラを呼んだ。
エルヴィラに何かあって悲しむより、再会して勝手な行動ばかりして叱る側に回ればいい。
「ふわ……早く終わってくんないかな。騒ぎも、俺の眠気も」
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