巫山戯るのも1つ
混沌と化した場内で、唯一時間が止まっている箇所があった。混乱と悲鳴、怒声があちこちから行き交い、神官達が安全を求めて出入り口へ殺到する人々を止めているのにそこだけが別世界となっていた。
謎の液体を掛けられ、顔を手で覆って膝をついたシエルの頭を抱き締め、男性にしては白い首筋に髪飾りの鋭利な部分を当てる女性。彼女の正体は、以前ファウスティーナに危害を加えたニンファだった。帽子を取り、偽物の髪を脱ぎ捨てたニンファは愛おしげに銀糸を撫でた。
「ああ……っ、今日私の物になるのね。ずっと憧れていたの司祭様に」
「もう一度言いましょう。その手を離して大人しく降伏しなさい。そうすれば、命の保障はします」
「あら、状況が分かってないのね助祭様。その台詞は私のものよ?」
シエルの後頭部をゆっくりと愛でるように撫でるニンファは、馬鹿にした口調でオズウェルへ嗤いを見せ付けた。
オズウェルの青銀の瞳がさっと周囲にまわった。逃げていた観客の内、4、5人が手に武器を持ってオズウェルや神官達の後ろを塞いでいる。
「動かないでね助祭様も神官様達も。綺麗な司祭様の顔に傷がつくのは嫌でしょう? 私も同じ。この顔に一つでも傷がつくなんて許せない」
「おい女! 勝手な真似をして、お陰で計画の順序が滅茶苦茶だ!」
歓喜の表情から一転、煩わしげな表情になったニンファは怒りを露わにする男に鼻を鳴らした。
「ふん! 私が欲しいのは司祭様だけよ! その他がどうなろうが知ったことじゃないっ! 第一、こうやってちゃんと司祭様に薬をかけて動けなくしたのだから大して支障はないでしょう!」
「決めるのは俺達であってお前じゃない。……まあいい、まず厄介な王弟が動けなくなった。他にいるのは逃げ遅れたお貴族様と年寄りと頼りない神官達だけだからなあ」
男は相手を見下した態度で周囲を見渡した。
此処にはまだシトリンとケイン、アエリアやラリス侯爵に双子の兄弟がいた。
ラリス侯爵の後ろに隠されているアエリアは歯噛みした。目の前に意識を取られているとケインの大声を聞き何事かと反応すれば、我先にと逃げていくエルヴィラが遠くにあった。追い掛けようとしたケインを止めたのはアエリアだった。
“今追い掛けたところで逸れてしまいますわ! 聡明な公子なら、今どのように動くか分かっているのでは?”
手を掴まれた瞬間のケインの顔は鮮明に脳裏に浮かぶ。僅かに冷静さを欠いた彼の一驚した面は忘れられない。
辺境伯家の血を引くアエリアや双子の兄達の身体能力は高い。特に双子は群を抜いて。どちらもいざという時の為に訓練を受けているので戦い方は知っている。知らないのは実戦のみ。前へ出ようとしたヒースグリフとキースグリフの頭に拳骨を落としたラリス侯爵が冷ややかな目でニンファと男の会話に入った。
「お前達、此処が何処だか知っての狼藉か?」
「勿論さ。女神様を祀った総本山、ラ・ルオータ・デッラ教会だろう」
「司祭様は王弟殿下だ。王族に危害を加えた時点でお前達は極刑は免れない。相応の覚悟を持っての行動なのだな」
「此処から王都の距離を知っているか? お貴族様。それに、王弟と国王はかなり仲が悪いと聞くぞ。俺なら、仲の悪い兄弟がピンチになろうが助けようとしないね!」
「……普通なら、そうだろうな」
新緑の瞳に濃く現れた憐れみが男へ向けられる。状況の理解をラリス侯爵がしていないのではない。噂を鵜呑みにし、それこそが絶対の真実であると信じ捕まらないと自信を持つ男が哀れでしかないだけ。
「?」
ラリス侯爵の目に酷く苛立ち、顔を歪めた男はある音を拾った。徐々に近付いてくる音は足音。1つや2つじゃない。もっと多い。シエルの頭を愛おしげに撫でていたニンファも異変を察知した。シエルを強く抱き締めた。
「な、なに」
「時間切れだよ」
「!!」
強い力がニンファの腕を後ろへ引っ張った。シエルを抱きしめていたので、支える力がなくなったシエルの体は床に倒れた。
「嫌! 嫌よ! 司祭様は私の物よ!」
振り解こうとしても緩まない力の主が誰か見上げたら、後ろに縛った亜麻色の髪を右側から尻尾みたいに垂らした糸目の男がいた。見えているのか甚だ疑問な男は少々険しい顔つきでニンファを見下ろしていた。
「過ぎた恋情は毒になると知らないのかい? 君の場合は独りよがりな迷惑なものだ。司祭様は誰の物にならないし、君の物にもならない」
「離しなさいよ!! 今更あなた達が何を言おうと司祭様は私の物よ! 私が司祭様に掛けたのはただの薬じゃない、一滴でも口に入れれば精神崩壊が起きる代物よ!!」
「……だそうだ。いい加減演技を止めろシエル」
「へ……」
糸目の男から発せられた声が変わった。声だけじゃない、纏う雰囲気も。険しさがあっても柔らかな雰囲気だったのが、目の前にいるだけで相手を威圧する圧倒的強者に変わった。
「あーあ、本当に来たんですか。私が思っていたより暇みたいですね」
「暇なら、態々こんな変装までして来るか。お前や小僧が連中が手を出してくると私に報せるからだ」
「報せる気は更々なかった。どっかの小言が好きな助祭さんがうるさくてね」
液体を顔に掛けられ、苦しみ、地に膝をつき、顔を手で覆って苦しんでいたシエルは平然と上体を起こして不機嫌そうに相手を見上げた。
「なんと呼びましょうか」
「好きに呼べ」
「メルディアスは何も言わなかったのですか」
「事前にあいつには言ってあった。外に歩けなくならないのなら使っていいと」
手を差し出した男性――シリウスの手を払い、自分で立ち上がったシエルは濡れた顔を袖で乱暴に拭った。目的を失った虚しい手を見つめたシリウスは手を引っ込める。
「全員生捕りにしろ」
シエルが一言発した刹那――扉を蹴破る勢いで騎士達が突入した。さっきの足音の正体は、会場へ向かっていた騎士達の足音だった。
出入り口を封じていた男達は争うも、実力は騎士達が何枚も上とあって簡単に倒され捕縛された。
ニンファに関しては、シエルに助けを求めてきた。
「司祭様ぁ、私はずっと司祭様を慕ってきました、助けてくださいっ!」
涙を流し、許しを乞う。慈悲深い司祭なら、彼女の罪も受け入れ許してしまう。
そうであるなら、ば。「助祭さん」シエルはオズウェルに声を飛ばした。
「他国からの参加者は?」
「既に避難させ、安全な場所に待機してもらっています」
「後日贈るお詫びの品を考えておいて。ヴェレッドは何処に行ったの?」
「小僧ならヴィトケンシュタイン家の娘を追い掛けて行ったぞ」答えたのはシリウス。
「は?」と面食らったシエルは、すぐに不機嫌な相貌へと変化させた。
「私が守れと命じたのはファウスティーナだ。何を考えて」
「お前よりあの小僧は人間を捨てていないという事だ」
「あ、ははは! 面白いですね。愉快で不愉快だ。意味があるとは思えない」
「意味など必要ない。シエル、お前みたいに不要物を全て切り捨てられる人間はそうはおらん。不要であろうが必要とする者がいるのなら救いの手を差し伸べるんだ」
慈愛に満ちた司祭と評判高いシエルの今の顔は、苛立ちの混ざった目が嗤っていても口は同じじゃなかった。いつでも殺傷能力抜群で凶悪な言葉を出してシリウスを刺せる。「シエル様、巫山戯るのもいい加減にしなさい」とオズウェルに厳しい言葉を投げられシエルは肩を竦めた。軈て放っていた殺気を消してシリウスに捕らえられたままのニンファと向かい合う。目が合うと期待が浮かび始めた。
「君の罪はとても重いだろうね。君1人で償えるかな?」
「え……」
「家族にも責任を取ってもらおう。この前は君を修道院へ送り、2度と街には戻らせないと約束させたのにこれだ。私は2度目はないよとちゃんと君の家族に忠告した」
言い終わると意味を理解したニンファは瞬く間に顔を青ざめるも全て遅い。騎士の1人がニンファの実家に今回の騒動に娘が関わっていると伝えに行っている最中だとシリウスが提供した。途端、涙を流し頭を床に擦り付け謝るニンファにやはり目もくれず、手際よく襲撃を実行した男達を縛っていく騎士から縄を受け取った。
「商会が潰れても、他の商会が君達の分までしっかり働いてくれるよ。泣かなくていい、君にはもういらないから」
縄を持ってニンファに再び近付いたシエルが懐を探り始めた。
「待って…………待ってくださいぃ……両親はあぁ……、実家は関係な――」い、と言いかけた口に蓋を開けた小瓶を傾け、中身を流した。急な飲み物を飲み込めず咳き込んだニンファの口に猿轡を噛ませ、最後に借りた縄で体を縛った。
次にシトリンとケインの元へ行った。
「公爵、公子、エルヴィラ様は私の知り合いが追い掛けて行ったようだ。必ず保護していると約束しよう。君達は宿を取っていたね? 絶対にエルヴィラ様を送り届けると約束するから、今は宿に戻りなさい」
「エルヴィラの心配は勿論ですがファナは……!?」
「私が対策をしないとでも? ファウスティーナ様は、どっかの誰かさんの番犬が護衛している。此方が予想もしない強敵を連中が投入していたら危ないけど……そう簡単にはやられないよ」
「つまり、安心してもいいと?」
少々の焦りと疑問が滲んだケインへ頷き、シトリンが信じましょうと頷いた。駆け付けた騎士に残っている観客を安全を徹底して送り届けろと声を飛ばした。
薬を飲ませて喋れず、動けなくしたニンファから動きがない。微動だにしない姿から死んだと勘違いされそうであるが生きている。
本来シエルに飲ませるか、掛ける予定だった精神崩壊を引き起こす薬はすり替えられていた。今朝『リ・アマンティ祭』メインイベントの準備をしている最中、祭に参加する女性と話をしていた所へヴェレッドが戻った。終わると女性は慌てて去って行った。その時、ヴェレッドとぶつかった。
元々、連中の企みを察知し、独自に調査をしていたヴェレッドにとって、格好の使い捨て要員を逃したくない連中が更なる大金を叩きつけるのだけは視えている。
片手に茶色のネズミを乗せたシリウスが「重要な話がある」と、人のいない隅へ誘われた。シエルは応じ、隅に止まった。
「たった今メルディアスから連絡が届いた。ネージュが発熱してしまった。恐らく、極度の緊張と疲労のせいだろう」
「誰がどんな目に遭おうが興味がないですね」
「最後まで聞け。秘密の部屋を使うと言っていたがネージュが発熱したのなら難しい。あそこには応急処置の道具すらない。私が向かいネージュを医者に診せるつもりだ」
「この事王妃殿下は?」
「知っているのはマイムだけだ。王妃は知らない。片が付き次第話す」
「あなたが盛大に叱られる未来であると占いしておきましょう」
「いらん」
迷惑げに眉を寄せ、手にネズミを乗せたまま奥へ行ってしまった。
神官や残った騎士にテキパキと指示を飛ばしていき、縛った男達やニンファを護送用馬車に放り込んだ。馬車内に鉄格子を嵌められ大変狭い。唯一、担架に乗せられ運び出されるニンファの意識が戻る頃には、廃人一歩前の精神となるだろう。
あの時擦れ違ったヴェレッドは本物を偽物にすり替えた。偽物は水。シエルは水を掛けられただけだから無事で済んだ。解毒剤を飲んだのはもしもの保険。
「ファウスティーナ……」
今頃、手練れの騎士といても不安で怖がっているファウスティーナに会いたい。会って全ての不安を消し去ってあげたい。
アーヴァが娘にしてやりたいことは全て叶える。アーヴァがあの世で見ていたら、喜んでもらえるよう。
「早く終わらせよう」
有言実行するのには時間の節約が必要で、騎士や神官達を無駄なく使っていき、一刻も早くファウスティーナと再会すべく使えるものは全て使っていった。
読んでくださりありがとうございます




