2 スルースキルは大事
体調も全快し、普段通りの生活を送れるようになったファウスティーナの元へ、王国の王太子ベルンハルドが訪れた。病気療養中も、何度か見舞いには来ていたらしいが、原因が分からない以上下手に王太子を近付けて移っては大変だからと毎回丁重にお引き取り頂いていた。熱が下がっても、体調が万全となるまでは負担がかかるとベルンハルドなりに考え、ファウスティーナの全快の報せを聞いてヴィトケンシュタイン公爵邸を訪れた。
ベルンハルドの訪問は前以て知らされていた。ファウスティーナを呼びにリンスーが部屋の扉をノックした。だが、中からの反応がない。再度ノックをするも反応はない。訝し気に思ったリンスーがそっと扉を開けた。
「失礼します。お嬢様? いらっしゃいますか?」
窺うように入ると机に向かってファウスティーナは難しい顔をして頭を悩ませていた。この時間にベルンハルドの訪問があるのは今朝伝えているので知っている筈。うーん、うーんと呻るファウスティーナへ控え目にリンスーが声を掛けた。
「すみません、お嬢様?」
ビクリと肩が跳ねたファウスティーナが慌てて机上に広げていたノートを閉じた。
「! あ、リンスー。ごめんね、考え事をしていたから全然気付かなかったわ」
「それは構いません。王太子殿下がお見えです。応接室に参りましょう」
「分かったわ」
椅子から降りたファウスティーナに続いてリンスーも外へ向かう。ちらっと、ノートの方へ目を向けるもすぐに逸らした。
応接室の前に立ち、扉をノックしようと作った拳を上げた時だった。中から楽しげな声が届く。ファウスティーナとリンスーは顔を見合わせ、扉をそっと、少しだけ開いた。
「「……」」
室内には、恐らくファウスティーナを待っている筈のベルンハルドとファウスティーナの妹エルヴィラがソファーに座って談笑していた。後、周囲にはベルンハルドの護衛が数人とヴィトケンシュタイン家に仕える侍女が数人。
「どうしてエルヴィラ様が……」
尤もな疑問を口にしたリンスーにファウスティーナは――
「邪魔するのも悪いから、素通りしましょう」
「え?」
妙に輝かしい笑顔で耳を疑う台詞を発した主に侍女は素っ頓狂な声を漏らした。
素通り? 何故?
そんな疑問がありありと顔に出ているリンスーにやはり笑顔でファウスティーナは応接室の前から去って行った。はっと、我に返ったリンスーは慌てて追い掛けて行った。
私室ではなく、屋敷の裏庭まで来たファウスティーナは薄暗い芝生の上に座った。リンスーは途中で撒いた。
「見覚えがあり過ぎよあれ……!」
あの謎の高熱のお陰で思い出した記憶の一部にあった。
今日みたいにベルンハルドの訪問の報せを聞き、嬉々として応接室を訪れたはいいものの……そこには妹のエルヴィラと談笑する彼がいて。
「前の私は怒ってエルヴィラを追い出して、殿下にも怒鳴り散らしていたわ。嫉妬も度が過ぎれば醜いだけだった。でも、今回はちゃんとクリアしたわ!」
それに、
「殿下の姿を見てやっぱりって思った。結局、私が最低になろうがなるまいが殿下はエルヴィラを好きになるのよ……」
一度体験して、思い知っていたのに。心の何処かでは、ちょっとだけ期待していた自分がいた。
「……」
建物が太陽を遮っているので裏庭に陽光は届かない。心地好い風がファウスティーナの空色の髪をふわりと拐う。
リンスーもその内此処へ探しに来る。
それまでは、優しい風に打たれていようと目を閉じた。
――時だった。
「お嬢様!」
「げっ」
「げっ、ではありません!」
若干息を切らして、顔を真っ赤にして、侍女リンスーは漸く見つけた主を前にきっぱりと告げた。
「今すぐに応接室へ行ってください!」
「あの空気の中を入って行く勇気がリンスーにはある?」
「私にはありませんがお嬢様には行って頂きます」
「なんでよ!?」
理不尽だと睨み上げるファウスティーナに「ともかく!」と強い口調できっぱりと告げた。
「殿下はずっとお嬢様を待っていたのです! さあ、行きましょう!」
「待ってるって言う割にエルヴィラと楽しく話してたじゃない! あれで私が行ったら、私が二人を邪魔したみたいになるじゃない! まだ体調が優れないみたいだから今日はお引き取り下さいって言えばいいのよ! うん。それがいいわ」
「そう言われては……」
確かにファウスティーナの言い分も一理ある。あのニ人がとても楽しげに会話をしている最中、遅れてファウスティーナが行けば空気は当然気まずくなる。行きたくない理由を叫ばれてリンスーも無理に連れて行くことが出来なくなった。一応、執事長に言われてファウスティーナを探し回って漸く見つけた訳だが。……リンスーは悩み、隣に座って遠い目を空へ向けた。
「……仕方ないですよね」
「……そうよ。仕方ないのよ。誰だって悪者になりたくないもの(なってしまったけど)」
この後、執事長が探しに来るまで二人は現実逃避をした。
ファウスティーナを待っていたベルンハルドは、準備をしている最中に突然体調が急変してしまったせいで会わせられないと侍女長から説明をされた。余計会わない訳にはいかないと迫るも、何とも言えない表情の侍女長を見て勢いをなくして今日は渋々帰ることとした。屋敷を出る間際、また来るとだけ告げて去って行った。
今日の夜中、必死に執事長と侍女長にお願いして体調の悪い振りをしてもらったファウスティーナは夕食も入浴も終えて私室で一人、机に向かって難しい顔をしていた。上に広げるのは昼間リンスーが訪れるまで開いていたノート。謎の高熱の際思い出した記憶を書ける分だけ書いていた。ノートの表紙には[ファウスティーナのあれこれ]とデカデカと表記した。
「前にも、今日と同じ日があったわね。あの時は、そのまま応接室に入ってエルヴィラと楽しそうにしてる殿下に怒ったんだっけ。当然エルヴィラにも、早く出て行けって迫ったの覚えてる。思い出せば思い出すだけ嫌われる行動しかしてない」
がっくりと項垂れ、前回の自分の行った行動全てに嫌気が差した。
「落ち込んでもしょうがないわ。もっと思い出して、やばいものには事前に回避をするか、起きても対処できるようにしないと」
“恋心”というものは、記憶を取り戻してもある。初めて会った際に惹かれた紫がかった銀糸と瑠璃色の瞳。冷たい印象を受ける色なのに、どこか暖かみのある雰囲気。微笑めば柔らかく滲む優しい表情も……全部が好きだった。その全部を自分のものにしたかった。
「はあ……」
背凭れに背を預け、天井を見上げた。
どうして自分に記憶が戻ったかは、何時かゆっくりと考えたらいい。今は、前回と同じ失敗をしないこと。会って日も浅いエルヴィラとあんな風に会話が出来るのは、元から彼はエルヴィラと結ばれる運命ということ。ファウスティーナが入る場所は存在しなかった。自分が選ばれたのは、ベルンハルドの婚約者に選ばれたのは、偶然。
その時、ピコーン! と良案を思い付いた。
「そうだわ! このまま体調の悪い振りを続けて、体の弱い私じゃとても王族の婚約者なんて務まらないって印象付けたら殿下との婚約は白紙になるんじゃ……」
うんそれでいこう、と【ファウスティーナのあれこれ】に婚約を破棄してもらう為の様々な行動を書いていくのであった。
――数日後。再びベルンハルドがヴィトケンシュタイン公爵家を訪れた。今回もちゃんと前以て訪問の手紙は届いている。今日はちゃんと指定された時間三十分程前からリンスーと共に待った。待たされた。前回みたいに机に向かって考え事に夢中になられては困る為に。
ベルンハルドの訪問を執事長が報せた。
「行きましょう。お嬢様」
「ええ」
内心逃げたくて仕方ないが、公爵家の長女として生まれたからには責任を果たさないとならない。執事長を先頭に客室へと向かう。執事長が客室の扉をノックをした。
「失礼致します。ファウスティーナお嬢様をお連れしました」
一声かけて扉を開けた。執事長が扉を開いてる横を通ったファウスティーナは、嬉しそうに駆け寄るベルンハルドに一礼した。
「お久しぶりです。殿下。よくお越しくださいました」
「ファウスティーナ! とても具合は良くなったとは聞いたけど大丈夫?」
「はい。この通り、すっかり元気になりました」
「そっか。良かった」
(ああ……綺麗……)
心から心配していたのだろう。不安げな表情から、安堵に満ちた表情は嘗てファウスティーナが向けてほしいと願った笑顔。照らされていないのに眩しく見えるのは王族の血か。
まだ嫌われてないわね、と思うのと同時に、エルヴィラにはまだ何もしていないから印象が悪くないと判断。ファウスティーナとて仲が微妙とはいえ、婚約破棄の為に実の妹を虐めようとは思わない。……前回してしまっても。
隣同士でソファーに座った。会話の内容はファウスティーナの体調の話だったのだが、長い話題でもないので途中で会話が途切れた。何を話したら良いか分からなくなった。こういう時話上手なエルヴィラだったら、会話を途切れさせることはしないんだろうなとぼんやりと考えつつ、昨日閃いた良案を早速使おうと試みた。
「殿下。私以外に好きな人が出来たらすぐに知らせてくださいね! 私、よろ……殿下の申し出には素直に応じたいと思いますので」
マナーレッスンの教師と特訓した令嬢の微笑みを最後に見せて、決まった……と心の中でガッツポーズを取った。婚約者である自分が宣言すれば、ベルンハルドだって後々エルヴィラと結ばれる際過去にファウスティーナがこんな発言をしていたと指摘し、堂々と宣言するだろう。
昨夜、多少は被害を被るが出来るだけ少ない方法での婚約破棄の仕方を必死に考えた。そもそも、選ばれたのが最初からエルヴィラだったらファウスティーナも最悪な手段を使わずに済んだ。嫉妬に狂い、愛してもくれない男に縋りつく必要だってなかった。
内心完璧だと満足げに微笑むも、先程から何も反応がないのに気付く。はて? と顔を向けて――ぎょっとした。
「お……お嬢様……?」
控えていた執事長が顔を真っ青にしてファウスティーナを凝視していた。ベルンハルドの護衛数人も。
また、ベルンハルド本人も。
予想外なベルンハルドの反応に困惑した。
「ファ……ファウスティーナは……僕が嫌い?」
「滅相も御座いません! 王太子殿下にその様な感情は持ち合わせていません!」
寧ろ嫌いになるのはそっちじゃない! と声に出して言える筈もなく。予想していなかったベルンハルドのショックを受けた姿にファウスティーナは戸惑う。同時にある予想が浮かぶ。
(そっか……私、まだ殿下の目の前でエルヴィラを邪険にしてないし、殿下と一緒にいるエルヴィラと遭遇していない。まだ嫌われてはないの……かな?)
最終的な公爵家追放は嫌なのでベルンハルドとエルヴィラが一緒にいても何もしない。肝心の婚約破棄に到達するには、エルヴィラに何かをした方が早いのかもしれないがそれだとまた繰り返しとなってしまう。
元々嫌われていた原因が実の妹を虐め、王太子の婚約者の地位にふんぞり返って好き勝手したせい。それ以外にも会話の内容が自分自慢ばかりなのもある。
何処かで止めた方がいいとファウスティーナも心の何処かで思っていた。だが、膨れ上がった負の感情は並大抵では縮まない。要は歯止めが利かなくなった。
「そ……か。そっか……。……でも、ならどうしてそんな願いを?」
「え? あ、あの、だって、私みたいな身体の弱い者より、丈夫で未来の殿下の妻として相応しい健康な令嬢の方が良いと存じまして」
ファウスティーナの身体は弱くない。寧ろ、謎の高熱を出して倒れるまで風邪を引いたことすらない。健康そのものである。
そっか……そっか……と青い顔をしたまま譫言のように呟くベルンハルド。自分の発言が可笑しいとファウスティーナも思うには思うも、これが幸せだと、エルヴィラと結ばれてこそ幸せだと信じている為すぐに忘れようとしたのだった。
読んで頂きありがとうございました!