イル・ジュディーツィオは放置すると決めた
白亜が特徴的なフワーリン公爵家の屋敷。芝生の上に座り、空を無言で見上げる少年が1人。建物に背を凭れ、汚れるのを厭わず座っているクラウドはゆっくりと動く雲を眺めていた。軈て、雲を見るのを飽きると掌を上にした。何も乗っていない。クラウドの目だけに映る。
「どんな人生を過ごしたら、たかが1人の人間が大量の糸を作り出せるのかな」
誰の目にも見えない無数の赤い糸がクラウドの掌にあった。糸の束は遥か遠くまで伸びている。糸の持ち主は、国内にいても公爵家の敷地内にはいない。クラウドが知っている相手の糸。糸を放るように掌を芝生の上につけると糸は消えた。
1本だけ黒く染まっていた。
「何時だったかな。ケインがエルヴィラ嬢の悪夢をどうにかしてくれって来たのだっけ」
のんびり屋なクラウドは、友人が訊ねて来た際に告げられた悩みに即対応した。悪夢に苛まれ、良質な睡眠を取れなくなった妹の為に悪夢の原因である不幸の糸を外してくれと。何故それだと友人が気付けたのかは、あるお茶会で妹を見掛けた時クラウドが気付き、告げていたからだ。
不幸の糸を外したほぼ同時期に妹の悪夢は無くなった。幸いにも王都の医師が睡眠薬を処方したのと同じだったので薬が効いたと思ってくれたとか。
「会ったら聞こうと思うのに、いざ会ったらつい忘れちゃう」
クラウドにとっては大事じゃないからだろう。クスクス1人で笑う。周囲には誰もいない。1人、静かな時間を過ごしたくて誰も近付けさせないでとお願いしたのだ。心地好い風が蜂蜜色の金糸を攫う。クラウドが消した不幸の糸は最近になってまた出現した。不幸の糸の色は黒。あの時外した糸よりも黒さが増していた。
不幸の糸が絡まるのは色々とある。死期が近いのか、余程誰かに恨まれているのか、単に哀れなくらい運がないだけなのか。色々だ。妹――エルヴィラの場合は他者の恨みを買っている。それも相当に根深い。1度外したのにまた現れたということが意味を持つ。
先程持っていたのはエルヴィラの運命の糸。人間誰しも運命の糸を持つ。幸運と結ばれている者もいれば、不幸一直線の者もいる。
「彼女の場合はベルンハルドだものね」
3年前の、フワーリン公爵家で開催されたお茶会では驚いた。顔には出さなかった。感情が表に出にくい顔で良かった。ベルンハルドの指に巻き付くようにエルヴィラから無数の糸が絡み付いていた。あれは並大抵の執着心じゃない上、人間1人が持つには量が多過ぎる。それは何だと問い詰めたくなったが、人間の赤い糸を見られるのは自分を除けば祖父のみ。建国当初から中立の立場を貫くフワーリン家には、ある能力を持って生まれる者がいる。
イル・ジュディーツィオ……“審判者”という、唯一、運命の女神が下した運命に否と唱えられる者。力を受け継ぐ者だけが人間の運命の糸を認識、目視でき、操れる。力の意味を知らなかった頃は、気に食わない糸を千切ったりしていた。
代々、クラウドや祖父のようにふわふわとした者に出現するのが多い。
友人――ケインが今代のイル・ジュディーツィオがクラウドと知るのは、きっと公爵家の跡取りとしての勘なのだろう。それとも、別の意味があるのか。どちらにしてもクラウドにとって大事な友人なので重きは置かない。
今重要なのはエルヴィラの運命の糸。クラウドはその力があり、他人の運命の先が糸に触れる事で見えてしまう。衝撃的だった。まさか、そんな、と狼狽えたくなるも糸が見せる未来は本物。だとするならば、今現在進んでいる物事の大半は無駄になる。
会う度に愚痴を零すケインの言う通りのエルヴィラなら、とてもじゃないが王太子妃にはなれない。未来のエルヴィラは姉のファウスティーナを押し退けてベルンハルドと結婚し王太子妃となっていた。隣にいたベルンハルドは……幸福とは程遠い、昏い面だった。エルヴィラを映す瑠璃色の瞳が優しげであるが他には何も宿っていなかった。
詳しく知りたく、体力と精神力を大幅に消耗しながらも先を見続けた。
そして――これは駄目だと判断した。運命の女神が何を思ってファウスティーナとベルンハルドから、エルヴィラとベルンハルドに変えたか事情は知ったが理解し難い。エルヴィラと結ばれてしまえばベルンハルドにあるのは破滅だけ。余波はファウスティーナにまで及んでいた。
2人は将来“運命の恋人たち”になるとあった。“運命の恋人たち”とは、運命の女神フォルトゥナが結んだ糸の中で、最も強い絆で結ばれた恋人たちを魅力と愛の女神リンナモラートが選び、祝福された恋人たちのこと。無数の赤い糸が“運命の恋人たち”である証ならば、矛盾が生じる。ベルンハルドの赤い糸はきちんとファウスティーナに向けられていた。本当に“運命の恋人たち”となり得るなら、お互いの赤い糸は結ばれている。2人の場合、エルヴィラの赤い糸が一方的にベルンハルドに巻き付いているだけだった。
先を知りたくて更に力を使おうとしたら――……祖父に止められた。先代であるがまだまだ力を扱える祖父は、疲弊するクラウドに穏やかに告げた。
『焦っちゃいけない。必ず知る時がくる。それまでは体を労りなさい。これ以上の力の使用はクラウド、君の将来に影響を及ぼす』
『無理をしてまで知りたくなった運命に今まで出会っていないので』
『僕と同じだね〜。僕も君と同じような事があった。僕の場合は、相手が悪過ぎたがね』
『お祖父様は誰の運命を知りたかったのですか?』
『先代国王陛下だよ』
先王の時代、幾つもの家が消えた。何人もの貴族が消えた。王国を蝕んでいた大部分の膿を取り除き、犯罪を犯していたら上位貴族だろうと大商会だろうと容赦なく消された。“粛清の時代”と恐れられた時代を築いた先王は、女神に見捨てられる寸前だった王国を建て直した賢王と名高い反面、女性好きが酷かった。先王の唯一の欠点。
完璧な人間なんていない。怪物と恐れられながらも先王も人の子であったのだと、授業で習ったクラウドはぼんやりと抱いた。
祖父が何故先王の運命を知りたくなったのか。気持ちは察してしまう。
最近は力の使い過ぎでベッドに伏せていたが今日は体調が良いと無理を言って外に出た。時間が過ぎれば、何れ侍女が探しに来るだろう。それまでは此処にいよう。
「僕が知りたい運命はエルヴィラ嬢は勿論……ベルンハルドやファウスティーナ嬢もいる。……でも君も気になるよ、ケイン」
時折見せる、無を通り越した凍てつく瞳。温かい色の紅玉を冷たいと抱かせるのはケインだけ。ベルンハルドに引っ付いて一緒にいたがるエルヴィラと全く違う。令嬢の中には王太子という地位に目が眩んで近付く者もいるがエルヴィラはどちらなのだろう。本気でベルンハルドを好いているのか、他の令嬢と同じで王太子妃の地位目当てなのか。
クラウドはもう1度エルヴィラの運命の糸を掬った。ケインに頼まれて外した不幸の糸が赤の中では殊更目立つ。また悪夢に苛まれているだろうが糸は外さない。頼まれたから外したのであって個人的に外してあげる理由がない。
不幸の糸に触れてみた。
「はは。すごいすごい。とても恨まれてるねエルヴィラ嬢」
不幸の糸を通してクラウドに流れ込む悪夢。
『役立たず』『能無し』『君のせいで死んだ』『頭空っぽのくせに繋ぎ止める事も出来ないだなんて』『王太子妃なら、王太子妃にしか出来ない仕事をちゃんとしてね。側妃では熟せない』
どれも全部エルヴィラを罵倒する内容ばかり。誰が発しているのか、恨みの相手は顔を見せてくれない。声しか聞けない。その声も知らない声だ。
「ごめんねケイン。僕はこのまま放置しておくよ。悪夢に苛まれる娘が王太子妃に選ばれる……尤もファウスティーナ嬢がいる限り婚約者変更なんて絶対にないだろうけど……エルヴィラ嬢を王太子妃にはさせられない。例えベルとエルヴィラ嬢が“運命の恋人たち”だとしても、否と唱えるよ」
再びエルヴィラの運命の糸を放った。
「ふわあ……ちょっと寝たら、ファウスティーナ嬢の糸も見ておくか。彼女の糸はケイン以上に頑丈だから、相当に精神力を削らないといけないね〜……どうして彼女だけ、11歳以降塞がれるんだろう……」
小さく欠伸をしたクラウドは芝生から立ち上がって歩き出した。邸内に戻り、私室に入ってベッドに飛び込んだ。
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