最後、お約束はきちんとあった
シエルに抱っこをされたまま、私室へ運ばれたファウスティーナはベッドに降ろされた。座らされるとシエルが足元に跪いた。
「厄介なご老人がいるから、君は此処にいなさいね」
「はい……」
滅多に会わない祖父の、舐めるような視線を思い出し鳥肌が立った。シエルに伝わり、立ち上がり抱き締められた。背中をポンポン撫でられると安心する気持ちが強くなっていく。
「どうも、あの先代は未だ諦めてなかったようだ」
「アーヴァ様の名前を出していましたが……」
アーヴァはシトリンの従妹の名前。親戚筋であるフリューリング女侯爵の実妹。11年前、病によって亡くなっていると聞く。どんな人だったか聞いても誰も詳しく教えてくれない。1度だけ母が「アーヴァ様は花が好きな方だったわ」と教えてくれただけ。
容姿は赤い髪に青い瞳。祖母と同じである。ヴィトケンシュタインにしか受け継がれない色を濃く持つシトリンとファウスティーナ、リュドミーラ譲りのケインとエルヴィラな為、赤い髪と青い瞳の人がいない。
「先代公爵はアーヴァと現公爵の婚約を強く望んでいたのだよ。ただ、公爵が頑なにアーヴァとの婚約を拒否し続けていたんだ」
「お祖父様のあの様子を見ると頷けます……」
アーヴァは祖父の妹の娘。姪に当たる。
姪を欲望でぎらつかせた瞳で見つめるのは……つまりそういうこと。
「シエル様」
先に客室に行っていたと思われたヴェレッドが入ってくる。
「お茶も揃ったし、行こうよ。お嬢様は坊っちゃんといればいいよ」
そう言うと視線を下に向けたヴェレッドの先には、連れて来られたケインがいた。
「お兄様」
「ファナ。大丈夫?」
「はい」
心配げな顔をしながらベッド近くに来たケインに笑う。「後でメルセスに飲み物を運ばせよう」とシエルはヴェレッドを連れて部屋を出て行った。ファウスティーナは隣を叩いた。意図を察したケインが座ると話を始めた。
「お兄様達は何時エルヴィラがいなくなっていると知ったのですか?」
「朝早くからだよ。トリシャが起こしに行ったら、既にエルヴィラはいなくなっていた。屋敷中大騒ぎになってね……使用人も1人いなかったんだ」
「きっと、エルヴィラと一緒にいたという女性ですね」
「かもね。1年前に採用された新人なんだけど……エルヴィラのお願いにどうも弱いらしくて。会ったら事情を聞くことになってるけど、覚悟はしておいてほしいよ」
「そうですね……。エルヴィラが此処に来た理由に心当たりはありますか?」
朝食の場ではシエルに、教会の司祭部屋ではオズウェルから聞いて大体の事情を知るファウスティーナだが、ケインならより詳しく知っていそうな気がした。
普段と変わらない無表情で話してくれた。
「何度か、王太子殿下に会いたいと泣き叫んでいた事があってね……決まって悪夢を見た翌日だ」
エルヴィラの見る悪夢。
『役立たず』や『能無し』と誰か不明な相手にずっと罵倒され続ければ、どんな人間だって精神を病む。悪夢を見る心当たりがエルヴィラにあるかと言えば――ない。
「…………一体何をしてくれたんだろうね」
「? 何か言いました?」
「いいや」
前の記憶を思い出して見るもファウスティーナは何も思い出せない。
ファウスティーナがエルヴィラにしたのは確かに罵倒もあっただろう。『役立たず』や『能無し』等の度が超えた暴言は吐いてない。と信じたい。
前の自分のやらかしがエルヴィラの精神に悪影響を与えているのなら、逆に疑問が生じる。前の記憶を取り戻した影響がエルヴィラに及んでいるのなら、彼女にも何かしらの記憶があってもいい。記憶を取り戻して4年。気配はない。前の記憶を持つと知るのはアエリアのみ。他の人は見つけていない。偶に情報共有をしているが、婚約破棄の決定打となるものはない。
思考に浸っていたファウスティーナには、隣にいながらもケインの呟きは拾えなかった。聞き返しても普段通りの無表情で首を振られれば、追及は出来ない。
「……実際に王太子殿下に会わせてみては?」
「ファナ。冗談でも質が悪いよ」
「はい……」
無表情に若干の怒気が含まれると印象はかなり異なってくる。口は災いの元とここ数年で何度か体験しても同じ轍を踏むのがファウスティーナである。実際にベルンハルドに会わせて悪夢を見なくなるならば、対面ではなく隠れて盗み見るのも手。最後の手段として残しておこう。ケインに叱られたファウスティーナは自分なりにエルヴィラの悪夢対策を思考するも、王都の医師が処方した睡眠薬の効果が薄れてきているのなら、自分が出来る事などそもそもないのではと至った。
あれこれ考えている最中、扉を小さく叩く音が。返事をするとトレイにマグカップを2個載せたメルセスが部屋に入る。
「司祭様より、お嬢様と公子のお飲み物を届けに参りました」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
ファウスティーナは8歳の誕生日にリュンに貰った子豚のマグカップ。
ケインは一体誰が使っているのか、やる気のない顔の猫のマグカップ。
ファウスティーナは気になってメルセスに訊ねた。
「こんなマグカップあったの?」
「先代司祭様が買ってそのまま棚に仕舞ってあったのを見つけました」
「先代司祭様って……前王弟殿下、ですよね?」
2年前のこと。
シエルに司祭の座を譲ると嵐の如く旅立って行った先代司祭が突然戻ってきたことがあった。何かをしに戻って来たのはではなく、シエルやオズウェルといった親しい人達の様子が気になって戻っただけだった。数日だけ滞在してまた旅立って行った。ファウスティーナの抱いた印象は台風のような人、である。ケインが顔を引き攣らせるも未使用のまま仕舞われていたので問題ないとメルセスは綺麗に笑む。
「先代様のことですから、どうせ買ったことを忘れていそうですし。知ってました? ファウスティーナ様。あの方、生まれも育ちも王宮なのに何度も迷子になられたのですよ」
「うん。助祭様から聞いたよ。先代グランレオド公爵に王城へ連れられた時、迷子になってた先代司祭様を見つけたのが最初って」
「うふふ。助祭様の運が尽きた瞬間ですわ。見たかったわ」
「運が尽きたって……」
オズウェルも項垂れて語っていた。あの日がなければ、どんな面倒事も持ち込んでは愉しむ悪趣味な輩に目を付けられるのはなかったのに、と。ファウスティーナよりもずっと生きているオズウェルの人生の殆どは、先代司祭に付き合わされた。
人の運の底を見たかったと語るメルセスも曲者である。外見が美しいだけに、彼女の微笑みは悪意がないように見える。
「ささ、冷めない内に飲んでください」
2人のマグカップにはハチミツ入りのホットミルクが入れられている。甘い味わいに頬を綻ばせるファウスティーナの隣、何口か飲んだ後ケインはエルヴィラについて訊ねた。
「エルヴィラは眠っていると言っていましたが……もう目は覚めているのですか?」
「まだ眠っていますわ。司祭様達のお話は長引きそうなので一旦私は失礼しますね」
一礼をして部屋を出て行ったメルセス。甘くて美味しいハニーホットミルクを飲むファウスティーナは、祖父も来た理由をケインに訊ねた。父が公爵位を継いでからは領地から出ず、引き篭もっていると聞いていたので。
何口か飲んだケインは軽く首を振った。
「俺も詳しくは知らない。ただ、エルヴィラがいなくなって大騒ぎになっている最中にお祖父様が来られて。教会からエルヴィラがいると報せが届くと真っ先に馬車を走らせたのはお祖父様なんだ」
「あんな怖いお祖父様初めて見ました。特にお母様に対して……」
「聞いた話じゃ、元々お祖父様は父上と母上の婚約には大反対だったんだって」
勉強を放置して逃げ回るエルヴィラに甘く、将来が決まっているからと殊更厳しく育てられたファウスティーナとの扱いの差は何度か父に注意を受けていた。が、全てファウスティーナの為と譲らず余計意固地になっていた。祖父の言葉は些か度が過ぎていた。抱いていてももっとオブラートに包めた。ただ、あの態度から心底2人の婚約に反対だったのは感じた。結婚し、子供が生まれた今も認めていないのだ。
「アーヴァ様の名前を出してましたね……アーヴァ様とお父様を婚約をさせたかったから……?」
「あり得るね」
アーヴァと発した声には濡れた欲望と気色悪さと多分な甘さがあった。向けられたファウスティーナは鳥肌が立つも会話を続行した。
「お父様がアーヴァ様との婚約を固辞し続けたのも……さっきのお祖父様を見て察しましたが……うう」
「無理に思い出さなくていいよ。……そういえば、助祭様がお祖父様にだけお酒を勧めていたね。あれ、何でだろう」
「確かに」
普通なら有り得ない。平然とした態度で葡萄酒を勧めたオズウェルの瞳は凍て付いていた。そして、怯えるオールドの姿も見た。並々ならぬ関係のようだが詳しく知ってそうな人は、今この部屋にはいない。
「話し合いが終わったら聞いてみましょう。あ、でも助祭様は教えてくれなさそうだから……司祭様かヴェレッド様に聞いてみましょう」
「司祭様は案外話してくれないかもよ?」
「かもしれないですが、ヴェレッド様なら教えて……」と言いかけて噤んだ。肝心な部分ではぐらかし、愉快に笑うヴェレッド。知りたいと顔に出るファウスティーナを揶揄っているのは何度もある。ガクン、と項垂れると頭をポンポン撫でられる。
「まあ、終わったら聞いてみようか」
「そうですね」
「さて……このままジッとしてるのもあれだな。エルヴィラを起こしに行こうか」
「そろそろ起きるのでは?」
「だとしても、原因が何時迄も寝ていたら、進むものも進まない。何より、勝手に家を抜け出して周囲に迷惑をかけた代償はきっちり払ってもらわないと」
今度の無表情に怒りは纏っていなかった。但し、代わりに見る者を遠慮なしに押し返す圧が全面的に出ていた。
改めて、隣にいる兄だけは敵に回したくないと固く誓うファウスティーナであった。
ハニーホットミルクを飲み干し、マグカップをテーブルに置いて2人はエルヴィラの眠る客室へ向かった。ファウスティーナがノックをするも、誰も反応しない。今度はケインが試した。誰も応答しない。2人はゆっくりとドアノブを下ろして扉を開けた。
ソファーに寝かされている若い女性とベッドに寝かされているエルヴィラ。2人とも、深く眠っているのか、起きる気配がない。
ファウスティーナとケインは顔を見合わせ、ベッドに近付いた。
「エルヴィラ、起きなさい」
「エルヴィラ起きて」
2人がかりで呼び掛けるも起きる兆しはない。軽く体を揺すぶっても駄目。多少声を大きくすると微かに表情が歪んだ。あと一押し――と揺さぶる力を強めた。
「エルヴィラ!」
「んん……。…………あ……れ……?」
億劫に薄く開かれた瞼の奥には、ぼんやりとする紅玉色の瞳があった。2人覗き込むとエルヴィラは瞬きを繰り返し。軈て、勢いよく上体を起こした。危うく額同士ぶつかるところだった。咄嗟に後ろに下がったファウスティーナとケインは、起きるなり頬を膨らませたエルヴィラの意識は明確だと判断し、勝手に家を抜け出した訳を問おうとした。
「エルヴィラ」とファウスティーナが先陣を切って問うた。
「自分が何をしたか、ちゃんと分かってる? お父様やお母様、お兄様だけじゃない。教会の人達にも迷惑をかけたのよ?」
「お姉様のせいではありませんかっ!!」
「私?」
「お姉様がベルンハルド様の婚約者のままでいるから、わたしは眠れなくなったんです! ベルンハルド様だってわたしの事が好きなのに、お姉様がいるせいで正直になれないでいるのです。わたしの安眠の為にも、ベルンハルド様の為にも、いい加減婚約者の座から退いてほしくて危険を冒してまで来たんです」
「……」
「……」
堂々と自信満々に自身の気持ちと考えを語ったエルヴィラに呆気に取られる兄と姉。悪夢の原因を押し付けてきそうとは予感していたが、真っ向から宣言された上にベルンハルドの婚約者の座を要求されるとは露程予想しておらず。ファウスティーナが譲らなくても将来的にベルンハルドはエルヴィラを選ぶ。彼等は運命によって結ばれている。1度決められた運命が違う事はない。婚約破棄の行動をしようにも八方塞がりで時間だけが過ぎていく状況を好ましくないとしていたファウスティーナでも、あんまりな言い分を放つエルヴィラを素直に王太子妃筆頭候補の座に座らせない。
深呼吸をして口を開きかけた時、愉快げに嗤う小さな声が届く。扉の方へ向くと話し合いの場に同席しているはずのヴェレッドがいた。ファウスティーナの近くに来ると空色の頭を撫でた。
「そろそろ起きる頃だから、様子を見に来たけど。俺が来て良かった。面白いものを聞けたよ」
「何ですか、貴方は」
「俺? 人使いの荒い王弟殿下に言われて君の様子を見に来たの」
「王弟殿下? 此処は司祭様のお屋敷ですよ。王族がいる筈ないではありませんか」
「は?」
「え?」
「……はあ……」
声がハモったヴェレッドとファウスティーナ。
顔を両手で覆ったケイン。
ケインに至っては……
「……状況は違っても王弟殿下が誰か、は来るんだ……」
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