さようなら、愛しい人 ー壊れている2人の愛情ー
「ファウスティーナ」
その日のベルンハルドは、不自然なまでに無感情な声色でファウスティーナを呼び止めた。メルディアスから借りた植物図鑑を両手に抱え、今日もどうやってベルンハルドに【エルヴィラ殺害計画(仮)】を知ってもらおうかと考えるべく、図書室へ歩いていた。極力感情を殺すか、高ぶった感情そのままに声を上げるだけが最近向けられていた彼の声。今日は不自然と抱くくらいに感情が宿っていなかった。
周囲にはまだ人がいる。誰もいなければ、聞こえない振りをして早足で逃げたがそうはいかない。渋々ベルンハルドの声に応えたファウスティーナは振り向いた。
瑠璃色の瞳には、声色と同じで何も宿っていなかった。黒みが深い青がファウスティーナを映していた。
「来い。大事な話がある」
「それは、学院で話さないといけないことなのでしょうか? もうすぐ、毎月の訪問があるでしょう」
婚約が決まった頃からある定期訪問。昔は待ち侘びていた訪問も、今では何も思わなくなった。どうせ昔も今もエルヴィラが行く。昔はエルヴィラが来る度に怒鳴り散らして泣かせて追い出していた。今はどうでも良くなった。ベルンハルドが来たとリンスーも告げに来なくなった。寧ろ、積極的にジュートと一緒にファウスティーナの話相手になってくれている。
来てもエルヴィラに押し付けるだけで会う気もない、話す気もないファウスティーナだが、誰かの目がある場でベルンハルドの話に付き合いたくなかった。
「公爵家に行ってもお前は来ない、代わりとばかりにエルヴィラが来るだろう」
「私は行ってますわよ? でも、婚約者をほったらかして恋人に夢中な殿下の邪魔をしては悪いと思い、顔を出さないだけですわ」
ベルンハルドが何かを言いかける前に更に言葉を紡いだ。
「そもそも、今更殿下と話すことなんてありません。大事な話だってどうせあれでしょう? 結婚してからもエルヴィラと恋人であると認めろと言うのでしょう? どうぞご勝手に。大体、分かり切った話のどこが大事なのか――」
人が少なくても、ベルンハルドが如何にエルヴィラを寵愛しているかを印象付けさせる。考えなくても浮かぶ言葉を並べて放っていくと不意に腕を掴まれた。文句を言おうと顔を上げれば絶句した。見たこともない憎悪に染まった顔が自分を見下ろしていた。
強い力で腕を引っ張られたせいで抱えていた植物図鑑を落としてしまった。メルディアスから借りた大事な図鑑を。ファウスティーナが非難の声を上げてもベルンハルドは図鑑を片手で拾っただけで見もしなかった。
「い、痛い……離して……っ」
「……」
歩き出そうとされ、絶対に動くものかと足裏に力を込めた。が、小柄で華奢なファウスティーナでは体格も力も差があり過ぎるベルンハルドに敵う筈がなく。
脇に抱えられて場所を移動させられた。何度も降ろして、離して、と訴えても聞く耳を持ってくれなかった。連れて来られたのは生徒会室。とはいえ、室内には誰もいない。普段なら放課後も遅くまで仕事をしている役員がいるのに。今日――しかも今――いないのに急激な不安が襲い掛かる。
扉を閉められ、挙句鍵まで掛けられた。顔が青く染まるのが自身で感じる。ファウスティーナは誘拐されたと聞かされた時も感じなかった恐怖を感じていた。
「……座れ」
植物図鑑を渡され、役員が会議をする時に使われるテーブル席を示された。
「……」
無言のまま、言われた通り座った。
植物図鑑を自分の前に置いて。
ベルンハルドは僅かに安心して見せると隣室に入った。食器が鳴る音が偶に響く。暫くすると小さなトレーにグラスを2つ乗せて戻った。
ことりと置かれたグラスはオレンジ色に染まっていた。
「……」
ファウスティーナの好きなオレンジジュースだろうか。ベルンハルドはもう1つのグラスを向かいに置くとその席に座った。
「飲まないのか?」
グラスを持ち、口を付けた彼が訊ねる。
ベルンハルドの飲み物は琥珀色。冷たい紅茶だろう。
「……何が目的ですか。あんな場面を見られたら、折角の努力が泡になりますよ」
「聞き分けの悪い婚約者を連れ去った場面がか? 寧ろ、何処かへ連れて行ってそこで婚約解消を告げたと思われるのが普通だろう」
「!」
ベルンハルドの口から齎された婚約解消の言葉に強烈な胸の痛みを覚えると同時に、漸く婚約者変更の為に動いてくれるのだと仄暗い希望が宿った。一瞬、鋭い瞳で睨まれたような気がしたがすぐに鋭さは消えた。代わりに、オレンジジュースが注がれたグラスに目がいった。
「飲まないのか? 折角入れたんだ、飲むといい」
「殿下が入れるのですか?」
「生徒会室では、飲みたい者が入れるルールとなってる。紅茶やコーヒーの淹れ方はクラウドやケインが教えてくれた」
「そうですか……」
屋敷でもよく砂糖なしのコーヒーを好んで飲む兄の姿が浮かぶ。ファウスティーナでは何年経っても飲めない苦い味。
ベルンハルドの瞳から険しさが消えている。表情も微かに戻っている。微かな不安を抱きつつも、オレンジジュースの入ったグラスを手に持った。ゆっくりと喉に通していく。甘酸っぱい、大好きな味。何口か飲むとグラスを置いた。
「……大事な話とはなんですか。生徒会室に連れ込んでまでする話とは」
「それは――」
いつもならファウスティーナが態とエルヴィラとの仲を周囲に印象付けるように声を荒げれば、反論して余計エルヴィラとの仲を濃く植え付けられ唇を噛み締めるベルンハルドが強硬手段に出た。余程大事な話となると、もう婚約変更の話しか浮かばない。
不意にベルンハルドの瞳から感情が消えた。一瞬だ。昏く、底のない暗闇がファウスティーナを捉え離さない。言葉を失い、彼の言葉を待った直後、ドアノブが動いた。
驚く2人とは裏腹に、ドアノブが動く。訪問者はあれ? あれ? と扉の向こうで焦りの声を発していた。
声の主はエルヴィラだ。本来、部屋に入るのならノックをするのが基本中の基本。それを丸っと無視し、部屋に入ろうとしたエルヴィラに落胆した。
「な、なんで開かないの……! ベルンハルド様がお姉様と入ったって聞いて慌てて来たのに……!」
『親切』な誰かに自分とベルンハルドが入って行くのを見たと教えてもらったらしく、居ても立っても居られなくなったのだろう。ベルンハルドに愛され、運命の女神に認められた真の恋人である自分を差し置いて、嫌われた婚約者である姉と一緒にいるのが我慢ならない。丸見えのエルヴィラの心情にファウスティーナは大きな溜め息を吐き、立ち上がるとベルンハルドに頭を下げた。
「殿下……エルヴィラの無礼申し訳ありません……」
どうでもよくなっても、妹なのは変わらない。エルヴィラの代わりに頭を下げれば、顔を上げろと言われた。
「そういうところはケインと同じだな。エルヴィラをどうも思わなくなっても、お前もケインも代わりに謝る」
「……私もお兄様も、エルヴィラの姉と兄ですから」
「そうか……。……ファウスティーナ……大事な話をしよう」
今もエルヴィラは鍵がかかった扉を開けようと必死にドアノブを動かしている。「なんでよ!!」と叫んでも誰も来ない。諦めればいいものを、諦めの悪さは姉妹なんだなと抱いてしまう。
また席に座ったファウスティーナは体に違和感を抱いた。
(あ、れ……? おかしい……)
体が痺れを覚え始めた。腕を動かそうとしても、億劫に感じられ意思が生まれない。戸惑う気持ちでベルンハルドを見やれば、涼しい様子で紅茶を飲み干していた。……そして、グラスを置き、席を立つとファウスティーナの側まで来た。
「全部飲み干さない場合を考えて、多少量を多くしたのは正解だったな」
「な……にを……」
「安心しろ。少しの間、体が痺れているだけだ。害はない」
あのオレンジジュースには薬が盛られていた。痺れを発する以外は起きないと言うが信じられない。今度こそ、思考が恐怖に染まってパニックを起こし掛けた。抱き上げ、テーブルに倒され、まともに動かない腕で抵抗しても簡単に掴まれてしまった。
手を顔に近付けられ、反射的に目を瞑った。
よく母に頬を打たれたせい。
予想に反し、手は頬を撫でた。恐る恐る目を開けると――眼前に瑠璃色の瞳があった。驚く間もなく、唇を塞がれた。
触れるだけの口付けを何度も繰り返され、軈て、腕を掴んでいた手がファウスティーナの手を握った。
重い指をベルンハルドの指に絡めると、僅かに瑠璃色が瞠目した。
また口付けをされた。
「ん……」
嬉しいのか、悲しいのか、どちらでもあるし、どちらでもない感情が渦巻く。エルヴィラは現在進行形で必死にドアノブを動かしているのだろうが聞こえない。
「……前に、図書室で眠っていただろう? その時に見たんだ」
聞こえるのは、ベルンハルドの声だけ。
「お前が……エルヴィラを殺害しようと企てる計画書を」
最難関が知らない間に達成されていたとは微塵も考えていなかったファウスティーナが今度は瞠目した。
「まさか……実の妹の殺害を企てる、なんてな……」
泣きそうな表情、嘲笑と震えが中途半端に混ざった声色がベルンハルドの心情を物語っていた。ベルンハルドを傷付け、悲しませているのは自分。だが、それを乗り越え、エルヴィラと結ばれれば王国で最も幸福な男になれる。今までの不幸が霞む幸福が訪れる。
「もうじき騎士が来る。お前を捕らえに。父上や母上にも既に話はいっている。公爵の方にも、じき話がいくだろう」
「そう……です……か。……これで……、殿下は…………国で1番の幸せを手に入れられる、のです」
「……何が幸せだ。これで何もかもお終いだ、クラウドが私とエルヴィラの運命の糸を断ち切っても、ファウスティーナとの婚約は事実上破棄される。
エルヴィラを殺す計画を態と企てるほど…………王太子妃に、なりたくないかっ」
普通の人間では思い付かない、悪党の練る殺害計画を作ったのはヴェレッド。ファウスティーナは指示された通りに振る舞っただけ。ファウスティーナが作ったと思わないのは、不敵に笑う彼の気配があるのを薄々勘付いての事だろう。
話している間も口付けは止まらない。薬の効果はまだまだ続くのか、声を発するだけで労力を使うがファウスティーナは絡む指に触れながら微笑んだ。
「私……、あなたも、お母様も、エルヴィラも、もう、いらないんです」
「っ!」
「ずっと、愛してほしいと願ったあなたやお母様を……気にしなくなっただけで……心が、とても軽く、なったんです。エルヴィラは……何も思わなくなると……どうでもよくなって……怒っても、自慢されても、……それがどうしたのって、思うようになりました。お母様も……泣かれても何も思わなくて……どうでもよくなって。
……でも、殿下は違いました。……どうしても、殿下を好きな気持ちを捨てられなかった」
長年の刷り込みと言われようが思い込みと言われようが構わない。最後に汚点だと叫ばれたのにも関わらず、結局歪な形で好意は残ったままとなった。いらないと告げ、握る手が震えるもファウスティーナは止めなかった。
「だから……あなたに、この国で、最も幸せになってほしくて、……エルヴィラと“運命の恋人たち”にしてしまえば、幸福になれると」
結局幸福にするどころか、彼を不幸の底へ叩き落としてしまった。顔を歪ませ、堪えるように話を聞くベルンハルドは強く瞼を閉じた。そして、瑠璃色の瞳を見せるとファウスティーナの額に口付けた。
「エルヴィラなんかいらない……私には……ファウスティーナがいればいい」
「結婚してしまえば……それも無くなります」
「無理だ……私にはファウスティーナ以外いらない。婚約破棄は確実だろうが……それでも……側にいろ」
「罪人を……」
「一旦牢に入れる。実行するかなり前に逮捕しても、法の裁きが待っている。牢に入っている間に自死したことにして、隠し部屋に閉じ込める。昔、先先王が特に気に入った愛妾を囲っていたと言う。今もまだ残っていると聞いたんだ。そこに死ぬまでいればいい……どうせ……表向きは死んだことになるんだ」
「……」
「残念だったな。卒業後、エルヴィラとの運命の糸は予定通り切ってもらう。私に王太子妃はいない。王子もネージュの子を養子に貰えばいい。……絶対に、手放したりしない」
灯りの消えた瑠璃色の瞳には似合わない微笑みで語るベルンハルドの言葉には、端端から狂気が滲んでいた。悲壮感を抱けないのは、恐れを感じる言葉を喜びに変換してしまう壊れた心が為せるもの。
「薬を盛ったのは、此処へ来た騎士にファウスティーナが抵抗しないようにする為と偽るためだ。そろそろ来るだろう」
「いつか……後悔しますよ……」
「しないさ。すると分かっているなら、最初からこんな真似はしない」
「……手を握ってて、ください。騎士が来るまで……」
「……来ても離してやれない」
握る手に口付けをされ、唇にもされた。
触れるだけだった口付けも、やがて深く絡むようになっていき、騎士が扉を叩くまで交わし続けたのだった――。
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