さようなら、愛しい人 ―王太子は知る―
兄も姉も見てくれなくなった。
誰を? ――わたしを
「お姉様はいつまでベルンハルド様の婚約者でいるつもりですか? 早くその座から降りて下さいませ」
「リンスー、アルリーナ国の観光集がそこの本棚の真ん中にあるのだけれど、取ってもらっていい?」
「勿論です!」
「っ!!」
ベルンハルド様との仲を見せつけ、愛されているのが自分だと自慢しても、昔のように怒鳴りもしなければ見向きもしなくなった姉。
「お姉様! わたしの話を聞いてくれてますか!?」
「リンスー、トリシャを呼んできて。今手が離せないの」
「ただ今!」
「もういいですわ!!」
怒って部屋を出て行っても追い掛けて来てくれない。
「お兄様あぁ……お姉様が酷いんです……!」
お兄様に助けを求めても、無情な紅玉色の瞳に射抜かれ言葉が消える。
「ファナの邪魔をするくらいなら、少しは成績を上げる勉強をしていなさい。このままだとDクラスに降格になるよ」
「だ、だってお姉様が……!」
「ファナはもうエルヴィラの事なんてどうでも良くなっているんだ。ファナが邪魔をするから勉強出来ないなんて言い訳しないね? 第一、1度それで別邸に移してあげたでしょう? それでも成績が上がらないのは、君自身の問題だ。さっさと部屋に戻りなさい」
「……」
わたしを見ようともせず、分厚い本片手に紙に文字を書き込むお兄様のあんまりな言い方に感覚のなくなった足取りで部屋に戻った。
お父様の所へ行っても、言い方が優しいだけでお兄様と同じで勉強しなさいとしか言ってくれない。お母様は最近本邸に帰って来たけれどまだまだ本調子じゃないから部屋で伏せている。わたしがベルンハルド様と恋人同士になった報告したら、予想とは違って顔を真っ青にされ意識を失われた。目を覚ましてもベルンハルド様にはもう近付いちゃ駄目と迫られた。
ひどい、ひどいひどいひどい!
今までわたしの味方だったお母様でさえ、わたしの敵になってしまった。
家族はわたしのことを見てくれない。
ベルンハルド様だけ。ベルンハルド様だけがわたしを見てくれる。
でも、正式にベルンハルド様と結ばれる権利があるのはお姉様。だって婚約者だから。運命の女神様に認められた恋人ではなく、どうして嫌われているお姉様が結婚するのよ……!
ベルンハルド様はわたしだけの王子様。
ベルンハルド様しかわたしにはいない。
ベルンハルド様、ベルンハルド様、ベルンハルド様……!
「ああ……ベルンハルド様……!」
愛しい愛しいわたしの王子様……――――
「――うわあ……女神様も吃驚かな」
壁一面、夜空を閉じ込めた謎の空間にて。血に染まった糸は黒く変色していた。正確には、血が空気に触れ続け酸化したのだ。残骸となった糸を持ち上げたクラウドは縮れた糸が切れた糸と繋がろうとするのを、顔を引き攣らせて眺めていた。左腕に重傷を負いながらも、リンナモラートの結んだ強制的な運命の糸を切った。これでベルンハルドはエルヴィラの呪縛から解放されるだろうと推測した。のだが……折角糸を切ってもあの2人は変わらなかった。否、酷くなった。誘拐事件以降、何があったか聞いてないが明らかにベルンハルドのファウスティーナを見つめる瞳に愛情と共に憎しみが宿る様になった。時折垣間見える苦しげで後悔に染まった瑠璃色も同様。エルヴィラを寵愛する行動に出た時は大層驚いた。
同時に納得した。恐らくだがファウスティーナが盛大にベルンハルドを拒絶したのだろう。エルヴィラを使って。見せ付けるようにエルヴィラと仲睦まじくしたのもそれだろう。肝心の本人は、心底どうでも良さそうな顔をしていた。効果があるのは周囲に人がいる時だけ。いない時はきっと……。
「……嫌な予感はしているんだ。けど、不安要素は消さないとね」
クラウドは繋がろうと足掻く糸を握り、祭壇の側に行き糸を置いた。
そして――黒いナイフで動く糸の先を突き立てた。
「ファウスティーナ様の痩せ我慢が勝つか、ベルンハルドの意地が勝つか。運命の女神はどっちの味方をしているのかな?」
●○●○●○
計画は順調に進んでいた。
ヴェレッドとメルディアスの指示通り、植物図鑑を貸してもらったファウスティーナは時間があれば図鑑を読むようにした。放課後は帰宅ギリギリまで残り、図鑑に夢中になっているよう周囲に植え付けた。どんな植物を調べているかは、最初にメルディアスが提案した方法を実行したので、皆父や兄の為に疲労軽減の薬草を探していると思い込んでいるだろう。実際は人体に有害な植物を探しているとは露程抱いていない。何枚かの栞を準備し、特に精神に害を及ぼす薬草を見つけては挟んでいく。
今日は10枚挟んだ。かなり分厚く、小さな字で端までギッシリと記載された図鑑を読むのは重労働だ。主に目が疲れる。此処が放課後の図書室ではなく、公爵邸だったらリンスーに温めたタオルを頼んだのに。目尻を引っ張ってマッサージをし、終わると机に突っ伏した。
ヴェレッドが用意した殺し屋は、今貧民街の違法娼館に潜んでいるそうだ。ヴェレッドの用意した依頼料を使って遊んでいるらしい。
計画をベルンハルドが知ったと同時に違法娼館ごと男を捕らえる段取りも既に整えていると聞かされ疑問を抱いた。罪人を捕らえるのは騎士の仕事。騎士団に知り合いがいるのかと問うと、驚くことにメルディアスは国王直属の上級騎士。王家専任の仕事を任されていると言っていたのも頷ける。主な仕事は変装や潜入捜査、時折罪人の尋問等。重要な役職に就くのに教会の神官を務めているのも解せない。
ヴェレッドによるとメルディアスが神官をしているのはシエルの監視。シエルも彼がシリウスの命令で神官をしているのは把握済み。シリウスにも最初の頃からバレていると知られている。そもそも、シエルの方から監視役は別の人間を寄越せと要求したのだとか。
『どうしてですか?』
『え。だってあいつ面倒くさい』
『そう、ですか? 終始ご機嫌な先生ですよ』
『それが面倒くさい。シエル様も知ってるから嫌がったの。でも王様が却下したから続行なの』
『……司祭様の監視は極秘にしていたんじゃ』
『両方とも、シエル様はそういうのに敏感だからすぐに知られると思ってたよ。肝心なのは、シエル様に追い出されない奴』
『そういうものなのですか?』
『そういうものだよ』
中々に複雑な人間関係だ。
複雑なのはファウスティーナの人間関係もだろう。
最近、母が本邸に戻った。顔色は悪かったが思ったより元気そうだった。エルヴィラが現状を嬉々とした様子で報告すると卒倒したのは予想外だった。一応、エルヴィラ命のあの母でも王太子の恋人にエルヴィラがなったのには反対だったらしい。驚き以外の言葉は出なかった。後で母に呼び出されたが体調が宜しくないことを気にした上で、今更母娘で話すものは何もないと突き放した。酷く傷付いた表情をされた挙句、泣かれてしまった。母に長年仕える侍女からは非難の目を向けられるも、幼い頃から必死に母の愛情を貰おうと縋るファウスティーナを引き剥がし部屋に押し込んだ相手にどう見られようがどうでも良かった。興味のない目のまま溜め息を吐いたら、顔を青く染められた。
意味不明である。
「もうすぐ……もうすぐ終わる……」
残るのは、どうやってベルンハルドに計画を知ってもらうかだ。計画実行の前に知られないとならない。ヴェレッドが用意した計画書は毎日持ち歩いている。
周辺にはファウスティーナ以外誰もいない。上体を起こし、服の中に隠していた計画書を取り出した。
本物の悪党が用意したシナリオと言うだけあり、内容は普通の人間では決して考え付かないもの。思考回路が何処に属していれば至るのか。知りたいような、知りたくないような。
「これで殿下はエルヴィラとちゃんと結ばれて、王国で最も幸福になる……」
王太子として努力していたのは知っている。
会いに行けば毛虫を見るような顔で見られるので、隠れて彼を見ていたことが何度もある。
時に目に隈を作っても机にかじり付く姿、教官に厳しい言葉で叱責されても泣かず剣を振るう姿、欠伸1つすら許されない厳格なマナー教師とのレッスンを熟す姿……。
全部、全部、見てきた。
どんなに嫌われていても、同じように努力し続けたら、いつかはと何度も夢見た。
夢は7年前あっさりと砕かれた。彼の言葉によって。
それでも……
「それでも……あなたを――愛していますわ……ベルンハルド様……」
目が重たい。少しだけ眠ろうと計画書を裏返しにし、図鑑の下に置いた。腕を枕にしてファウスティーナは瞳を閉じた。
ファウスティーナが眠ってすぐ、本棚の影から極力音を立てず出てきたベルンハルドは空色の髪に触れた。
今日はどうにかしてエルヴィラを撒いてファウスティーナの側にいた。前のように、近くに来られて動けなくなる現象が消えた。エルヴィラが泣きそうになっても同じ。どうして今になって消えるのかと憤った。これがエルヴィラが入学したあの時だったならば、ファウスティーナとやり直せていたかもしれないのに。
指と指の間に挟んだ髪を滑らせていく。絡みも痛みもない、非常に手入れされた髪からは微かに薔薇の香りが。薔薇の香りは叔父が好きな香り。大方、叔父からのプレゼントを身に付けているのだろう。叔父や心を許した者のプレゼントは使って、婚約者からのプレゼントは一切使用しないどころか見ようともしない。
もういい。今まで贈った品が見向きもされないでも、婚姻を上げてから始めから贈りなおそう。黄色のバレッタを着ける時もあるので、青系統だけではなく黄色関連の品も贈ろうと考えるようになった。
「愛している……ファウスティーナ……」
眠るファウスティーナにそっと口付けた。
誰もいないと口にする本音を聞く度、自分達を知る者がいない遠い場所へファウスティーナを連れて逃げたくなる。こうしてでしか、本心が聞けない。
眠っているファウスティーナでないと、愛を示されない。
「そういえば……」
ファウスティーナは眠る前、紙を図鑑の下に隠した。急に植物図鑑を読み出し、怪訝に感じていた。秘密があるように感じられ、他人の物を勝手に見て申し訳ないと抱きつつ、気になって仕方ない。慎重に図鑑の下から紙を抜いたベルンハルドが表を向けた。
「…………は…………?」
長い沈黙を破って零れた声はなんと間抜けか。
呆然と文字を追う瞳が揺れる。
最後まで読み終えたベルンハルドは紙を机に置き、眠るファウスティーナを見下ろした。
「……」
無防備に眠る横顔が憎たらしい。抱いていた愛情が黒く塗り潰されていく。ファウスティーナが計画した物ではないエルヴィラ殺害計画書。ファウスティーナが書かれている残酷な計画を練られる筈がない。不意に、あの不敵に嗤う薔薇色の男性が脳裏に浮かぶ。
ギリっと歯を噛み締めた。
……だが、ある考えを思い付いた。
「ファウスティーナ……」
ベルンハルドは首にかかる長い空色の髪を退けて、晒された白肌に強く吸いついた。
「ん……っ」
何度も吸い付き、唇を離すと赤い跡が出来ていた。舌で舐めて離れた。眠っていても反応する姿に沸き上がった欲情を無理矢理押さえ込んだ。紙を裏返し、再び図鑑の下に置いたベルンハルドは図書室を後にした。
「思い通りになんてさせるか……っ……、絶対に手離さない……」
読んで下さりありがとうございます。
本日、書籍・電子書籍共に発売になります。ご興味のある方は是非ー。
今回も萩原凛先生の素敵イラストが沢山です(´∀`*)