さようなら、愛しい人 ー私の望みが現実となるー
朝から気分が重い。今日程起きるのが億劫な日はそうない。寝心地最高なベッドから気力を振り絞って起き上がったファウスティーナは、生憎の曇り空に気分が下がった。自分の気持ちと同調しているようなタイミングでの悪さ。リンスーが起こしに来るまで時間はまだ少しある。
昨日は、あの後なんとネージュが来た。入学して半年以上経つものの、まだまだ学院内で訪れていない場所があり、短い休憩時間を使って散策していた時に泣いているファウスティーナと会った。当然、膝を抱えて泣いている女性を放っておく性格ではないネージュはすぐに駆け寄った。泣き腫らした顔を見られるのはあれで何度目になってしまったのか。隠れて泣いていると高確率でネージュと遭遇してしまう。
『ファウスティーナ嬢!? どうしたの? また、兄上と何かあったの?』
泣いている原因がベルンハルドにあると疑われるのも昔からの関係のせい。ファウスティーナは違うと重く首を振った。
『わた、私の、自業自得です。お、お見苦しい、ところを、お見せしましたっ』
『見苦しくない。兄上が理由なんでしょう? 兄上はどこ? ぼくが』
『本当に、関係ないんですっ、ネージュ殿下、お願いですから、あの人は関係ないんです』
納得していない表情ではあるがネージュは渋々信じてくれた。
『でも、泣いている君を放ってはおけない。君が落ち着くまでぼくは此処にいるよ』
『っ、いいえ……大丈夫ですから、ネージュ殿下は戻って下さい……』
『ぼくが勝手にしていることだから気にしないで』
未だ泣き止む気配がない自分の側に座ったネージュが気遣わしげに背中を撫でる。慰めてくれている気持ちが痛いくらい伝わり、申し訳ない気持ちで一杯になった。
『ごめんなさい……。ネージュ殿下には、泣いているところばかり見られてますね』
『謝らないで。君がいつも泣いていたのは兄上のせいなんだから。きっと今回も兄上のせいなんでしょう? もしかしてエルヴィラ嬢とのことで揉めたの?』
ある意味ではそうだろう。エルヴィラの所へ行かせる為に最低な言葉を沢山紡いだ。相貌から感情が、生気が抜け落ちていく痛ましい姿が蘇る。忘れるな、傷付けたのはお前だと突き付けてくる。
『……いいえ……殿下は悪くないです』
『エルヴィラ嬢にもぼくの方から何度か注意はしてるんだ。あくまで君は候補なだけで正式な婚約者じゃないから、やたらと兄上に近付かないでって。でも、そうしたらエルヴィラ嬢が泣いちゃって……ああやって簡単に泣かれるとぼくが悪いみたいになって、あまり注意出来なくるんだ……』
『ネージュ殿下にご迷惑を……!』
『いいんだ。ぼくが勝手にしてるだけだから。このまま、兄上とファウスティーナ嬢が婚約したまま卒業したらエルヴィラ嬢はどうするのかちゃんと考えているのかな?』
何も考えていない。
ベルンハルドに近付けないようにするため、何度か婚約を勧めてみたがどれも大袈裟に泣き叫んだ挙句部屋に籠って出て来なくなる。ケインは無理矢理婚約をして、エルヴィラがベルンハルドに近付くのを止めないと逆に相手に不義理だとシトリンと話し合い諦めた。この話は母も加わっていたみたいだが、碌な説得も出来ず頭を抱えていただけだったとか。
『いいのでは……ないですか……』
『ファウスティーナ……嬢?』
『殿下とエルヴィラは“運命の恋人たち”なんです。結ばれない運命なんてない……』
『……こんな言い方、したくないけど。
ファウスティーナ嬢は当て馬だったのかもね。兄上とエルヴィラ嬢の恋を成就させるための。2人が運命によって強く結ばれているなら、最初から君が入り込む余地なんて始めからなかったんだ』
自分では解り切っていても、改めて他人に言われると言葉の重みが増す。特に、長く側で心配してくれていた人の言葉は。
『ネージュ殿下……私の独り言だと思って聞いて下さい。
……私は……今まで沢山ベルンハルド殿下を苦しめてきたんです。視界に入っても睨まれ続け、名前を呼ぼうとしたら冷たい声で黙らされて。殿下が私を嫌うのは当然だった……殿下の運命の相手をずっと邪魔者扱いしていたから』
『……』
下を向いたまま、心情を吐露するファウスティーナは気付かない。ネージュの視線が微かに後ろに向いていることに。そこに誰がいるかも、知らずに、紡ぎ続ける。
『嫌われていても好きな気持ちだけは捨てられなかった。
……だけど、もう殿下を解放しないとって。エルヴィラと結ばれて幸せになるべきなんです』
『……君の幸せはどこにあるの?』
『私の幸せは……あの人が、ベルンハルド殿下が、幸せになってくれることです』
顔を上げた先にあった、陽光に照らされ眩しく光る金糸。甘い相貌には似合わない、悲しみと苦しみが混ざった複雑な感情が表に出ていた。
涙は止まった。頬や瞳は濡れたまま。袖で拭くとネージュが自分の袖で拭いてくれた。ハンカチは生徒会室に置いて来てないのだと、苦笑された。
『兄上の幸せが君の幸せ? 兄上が幸せになったら、君はどうするの? エルヴィラ嬢と結ばれるってことは、彼女が王太子妃になるんだよ? 人の悪口は言いたくないけど、王太子妃になる資格なんて家柄くらいだよ? それでもファウスティーナ嬢は、兄上と結婚して妻となるのはエルヴィラ嬢だと言うの?』
『“運命の恋人たち”は必ず幸福になるんです。エルヴィラでなければ、ベルンハルド殿下に幸福は訪れない。やっとベルンハルド殿下はエルヴィラを受け入れ始めようとしてます……それを逃したくない』
『婚約解消となったら君はどうするの? お願いだ、これだけは聞かせて』
『お父様やお兄様は優しいですから、婚約者ではなくなった私を家に置いてくれるでしょうが穀潰しとして置いてもらうのは申し訳ないです。教会で働かせていただこうかなと』
『働くの? 君が?』
ネージュの驚愕に満ちた顔に苦笑する。働く、なんて言葉が出ただけでビックリだろう。
『教会が運営する孤児院や支部、修道院にも何度か訪れていますので平民の方と接するのは慣れていますよ』
『そう、なんだ。父上は兄上の意思を汲み取って、まだ婚約者の変更はしてないんだ』
『陛下もエルヴィラといる殿下の幸福な姿を見れば、きっと変更してくれます。“運命の恋人たち”は周囲に祝福を齎してくれるのですよ』
『……そうだね。そうなるといいね』
『私がベルンハルド殿下を好きな気持ちは……秘密にして下さいね? と言っても、誰も、信じないでしょうが』
話をしていく内、すっかりと気分は晴れて、もう涙は完全に止まった。ネージュの手を借りて立ち上がったが既に昼休憩は終わってしまっている。保健室に行ってアリバイを作ってもらおうと、悪戯っ子な笑みを浮かべたネージュの後を追ったのだった。
ネージュが来てくれて良かった。あのまま1人でいたら、永遠に泣き続け、午後からの授業全て放棄していた。昔から泣いていると現れるネージュに救われていた。同時に毎回泣いている自分を慰めるネージュには、やっぱり申し訳なさが強い。
「弱気になるなファウスティーナ。昨日の今日なのだから、もう殿下も諦めたはずよ」
決意の表明として頬を両手で強く叩いた。
痛かった。
――リンスーが部屋を訪れ、朝の身支度を済ませ、ケインと共に馬車が待つ門へ向かう。今日は珍しくケインが寝過ごしたのでエルヴィラもいる。と言っても、乗る馬車は別々だ。
左腕を負傷したクラウドの抜けた負担は大きいらしく。手伝いたいと申しても「ファナは自分のことに時間を使いなさい」と断られた。
扉を開けられると丁度よく門番の1人が慌てて走って来た。
ケインが事情を訊ねる前に原因の人物が現れた。
3人は喫驚した。
「王太子……殿下……」
昨日ネージュの前ではベルンハルドと紡いだが、本人の前では言えない。名前で呼ぶなと昔黙らされたから。
「……」
ベルンハルドは一瞬、殿下と呼んだファウスティーナを悲しげに見つめた。
すぐに視線を逸らすとファウスティーナとケイン――……の間を通り過ぎエルヴィラの側へ。
「え……」
愛らしい顔でキョトンとするエルヴィラに手を差し出した。
「迎えに来た。これからは私と登校しようエルヴィラ」
困惑の声が周囲から上がる。無理もない、使用人達がファウスティーナとベルンハルドの不仲を知っていても婚約は継続のまま。婚約者を差し置いて妹を迎えに来たと堂々と告げたベルンハルドに困惑の瞳が多く向けられる。
一方で……
「は、はい……! 勿論ですわ! ベルンハルド様!」
満面の笑みでベルンハルドの手を取ったエルヴィラ。
ベルンハルドにエスコートをされて、ファウスティーナとケインの間を通ると勝ち誇った余裕の笑みをファウスティーナに見せ付けた。……が、すぐに悔しげに顔を歪め前を向いた。
ファウスティーナは漸く自分の無駄な努力が実ったことを喜ぶべきなのに、心に大きな穴が空いて虚無感を味わっていた。無表情かつ、瞳がどうでも良さそうに見えたのは何も考えられなくなったからだ。
「…………ファナ……」
長い沈黙が降り、ケインの小さな声に呼ばれてやっと動いた。
「行こう……」
自分と同じ無表情。
唯一の違いは、内に秘める気持ちだけ。
「はい……お兄様……」
読んで下さりありがとうございます!
アリアンローズ様より、拙作『婚約破棄をした令嬢は我慢を止めました』の2巻が7月12日に発売します。
↓表紙
イラストは1巻に続き、萩原凛先生が担当して下さいました!
メインのファウスティーナとベルンハルドの可愛さと仲の良さ……( ; ; )
もうすぐ戻る本編でこのほのぼのが戻ってきます。
2人を見守るシエルとヴェレッド。叔父様コンビ。本編ではずっと味方で甥を揶揄うのを楽しむ叔父さん達であってほしい2人です……。
書籍版は、WEB版から加筆修正しており、消えたエピソードもあれば新たに追加されたエピソードもあります。
電子書籍も同時発売ですので、ご興味のある方は是非〜!




