兄の独白
部屋の窓から快晴を見上げていると小鳥が数羽、空高く飛んでいく。自由に空を飛ぶ光景は時に手を伸ばしたくなる。地位も矜持も家族も全部を捨てて飛び出せばきっと憧れた自由が手に入るのだろう。でも無理だ。外の世界へ一歩出れば最後。自分自身の力で生活していかないといけない。窮屈な世界で育ったといえど、生活だけは不自由なく過ごした娘がたった1人で外に飛び出せば野垂れ死ぬか、攫われて売り飛ばされるか、野犬に食い殺されるか、それとももっと別の何かになり果てるか……。
控え目な声で呼ばれ、窓から室内に目を移した。侍女のリンスーが立っていた。
「お嬢様。ケイン様がいらしています」
「もうそんな時間?」
長く空を見上げていた自覚はあったがケインが帰宅する時間になるまで眺めているとは思いもしなかった。言われてみると首が痛い。温かいタオルを後程お持ちします、とリンスーは苦笑し扉を開けた。
帰宅してすぐに部屋に来てくれたのか、ケインは制服姿のままだった。
「お帰りなさいませ、お兄様」
「ただいま。ファナにお土産」
「何ですか?」
ケインが差し出したのは街で評判のクッキー。
青色のガラス瓶に入れられた動物の形をしたクッキーにファウスティーナの目が嬉しげに輝いた。
「わあ! 可愛い」
「気に入ったなら食べなさい」
「ありがとうございます! でも珍しいですね。お兄様が街で寄り道をするなんて」
「偶にはね」
「一緒に食べませんか?」
「そうしたいけど、片付けないといけない課題がたくさんあってね。メルディアス先生から今日の授業内容の写しをもらったから、ちゃんと自習しなよ」
「勿論です」
誘拐事件を経て、暫くは休学することとなった。ファウスティーナ本人に何事もなくとも周囲の目はそう見てくれない。シトリンからも勧められ、ファウスティーナは甘えることにした。
ケインが毎日2年生の授業内容の写しを持って帰って来てくれるので登校再開した際、授業内容についていける。
毎日きっちり自習し、時にケインに教えてもらう。
ケインが部屋から出ていくとリンスーもタオルを温めに出て行った。
ファウスティーナは蓋に結ばれている黄色のリボンを解いて開けた。犬型のクッキーを選び、食べた。
「美味しい。今度、どこで買ったか聞かなきゃ」
香ばしく、歯応えも十分な硬めのクッキーに満足するファウスティーナであった。
●○●○●○●
部屋に戻り、普段着に着替えたケインは1人にしてとリュンや他の使用人を外に出して椅子に座った。
ファウスティーナに渡したクッキーはケインが購入した物じゃない。何を贈っても使用されないどころか中身すら見てもらえないベルンハルドが、好物のスイーツで尚且つケイン経由からなら受け取るだろうと託してきた。渡す際に自分の名前は出さないでくれ、と付け足して。ベルンハルドの名前を出せば、きっとファウスティーナは言うだろう。
エルヴィラに渡したらいい、と。
ケインからのお土産だと告げたら、予想通りあの子は心の底から喜んだ。花が咲いたような純粋な微笑み。あれが更なる幸福に包まれたものだったら、至高の宝石や花ですら霞んでしまう純美な笑顔となる。
ベルンハルドが、母が、エルヴィラが欲しがり、永遠に向けられない……。
「……止めよう。もうカウントダウンは始まってる」
今までの3度、誘拐事件以降、あの2人の仲は急速に悪くなっていった。
捕われている宿の一室でベルンハルドが何を見たのか、今までの話で大体の予想はしていた。
シエルと稀に一緒にいるあの美貌の男性がファウスティーナにいらぬちょっかいを出した。眠っているファウスティーナは知らない。目撃したのはベルンハルドだけ。
机の引き出しに入れていたノートを取り出し、すらすらとこれからの出来事を書き込んだ。
「ファナが勘当された後がやっぱり重要か」
始まりの最初、ベルンハルドは居場所を突き止めた。そこで何があったか未だに知らない。かの女神は美しく微笑むだけで何も話してくれなかった。
ただ――
『幸福の形は、必ずしも生きることとは限らない』
「死ぬことで幸福になれるような言葉だった……」
2年前の“建国祭”の時から、強烈な引っ掛かりを抱くケイン。自身が考える可能性が当たっているのなら、一体、何の為に救いのない地獄の繰り返しをしているんだ。
「これも止めよう……抜け道のない輪を回るようなものだ」
思考を切り替えるように軽く頭を振った。
ファウスティーナが戻った翌日、普段通り登校すると噂はファウスティーナ誘拐と救出したベルンハルドの話で一杯だった。
ベルンハルドは運命の相手がいるのに結ばれない苛立ちを婚約者に向け、ファウスティーナは愛されない原因は全部エルヴィラのせいだと妹を虐げ更に婚約者から嫌われる令嬢、と周囲は考えている。ほんの1部は、周囲に誰もいない時のベルンハルドとファウスティーナを見て考えを改めているようだが大多数は前者の考え。
これが全てシエルの入れ知恵と情報操作、ファウスティーナの演技のお陰である(無理をしている節は多々ある)。
何も変わらないエルヴィラには言うだけ無駄。ファウスティーナの諦めもよく分かる。確かに1度兄としての義務を放棄してみると気が楽になった。罪悪感もない。
自分が思った以上に冷淡な人間で自嘲した。
「クラウドがやってくれたけど、何度か大きな変化があった今の4度目……根本的な部分が変わらないから、今まで通りだと思わないと。
ファナが勘当された後の対応だ」
2度目の時は何も言わずとも、駆け落ち同然でネージュがファウスティーナを連れて逃げたのでシリウスとシエルが内密に手を回して2人を援助していた。
3度目の時、教会で保護してもらうようシエルに頼んだ。
今の4度目もそうしよう。最も安全なのはシエルの保護下。
問題なのがベルンハルド。
「ベルンハルド殿下がエルヴィラを愛するようになればいい、か……」
無理だと溜め息を吐く。
「洗脳されてもファウスティーナを求め続けて、最終的に自分の首を切った人なんだ……他の女性を好きになるのが無理なんだ」
ペンを置いたケインは頬杖を突いた。
「最初なんだ……ファナか殿下、どちらかでもいい。どちらかが俺やネージュ殿下のように覚えていたら……」
3度に渡る人生の記憶を持つのは“運命の輪”を回した影響。フォルトゥナでさえ予想しない出来事がなければ、ファウスティーナとベルンハルドを巡る運命の繰り返しは永遠に終わらないだろう。
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