あなたが生きていればいい
王都へと向かう馬車に乗るファウスティーナとシエル、ヴェレッド。朝食を終え、食事休憩をした後出発した。
「ふわあ……ねっむ」
「夜更かしするから」
「してない。俺1日10時間寝ないと寝た気がしないの」
「寝過ぎで頭が痛くなりませんか?」
「お嬢様と一緒にしないで」
兄ケインのようなことを言われ、ジト目で睨む。ファウスティーナは10時間も寝ない。彼の性格といい、実は猫が人間に化けているでのはと勘繰るも思考を読まれたのか、隣に座るシエルに「ちゃんと人間だよ」と頭を撫でられた。
「……何も言ってないです」
「ヴェレッドが猫だと思ったんでしょう? 性格も気紛れだし、何処でも寝れるしね」
「性格はそうだと思いましたが……」
「いいよね猫。可愛くて」
ヴェレッドが猫の手を真似て指を曲げて見せた。絶世の美青年がやるとよく似合っていた。
「このまま猫になって永遠にゴロゴロしたい」
「君は仕事を頼んでもゴロゴロしてるでしょう」
「酷いシエル様。俺だってやる時はやってる」
「はいはい」
「俺が猫になったら、お嬢様膝貸してね」
本当に猫になる気でいるのかと強い興味を抱いてしまう。シエルが「人間が猫になれる術はないよ」と言い、ファウスティーナの頬を撫でた。ファウスティーナとて、本当に人間が猫になるなど信じていない。運命の女神に純粋に望めば、案外叶う可能性があるのがすごい。
が、実際人間が猫になった話はないので、女神でも人間を他の生物にするのはきっと無理である。
途中、街の紅茶屋やパン屋に寄り道しつつも3人を乗せた馬車は無事王都に到着した。そのまま王城へ走った。敷地内に入ると言い付けられていたのか、宰相のマイムが待ち構えていた。
御者が馬車の扉を開けた。車内から降りたシエルは手を差し出し、ファウスティーナを下ろした。続いて眠そうにしながらヴェレッドが降りた。
「お待ちしておりましたシエル様、ヴィトケンシュタイン公女。陛下から、到着次第案内するよう申し付けられています」
「そう。公爵はもう来ているのかい?」
「はい。先にお会いになられますか?」
どうする? とシエルに振られ、話し合いの邪魔にならないなら、とファウスティーナは希望した。開始までに今シリウスが取り込んでいるのもあり、すんなりと通った。
シトリンのいる部屋に案内された。
「ファナ!」
1日振りに見た父の顔は少し窶れていた。誘拐された本人は寝ていただけでも、周囲はずっと起きていた。ファウスティーナがスピード救出されたお陰で倒れた者はいないと言われるが心身の疲労は多大なもの。申し訳なさそうに俯くファウスティーナは、大きな手で頭を撫でられた。
「良かったよファナ、君が無事で。そう小さくなることはない。今回の誘拐、ファナが悪いわけじゃないのだから」
「はい……ですが」
「うん……今回のことは、非常に残念だ。ただ、今回の事件を機に使用人達の素性を改めて調べ直す必要が出た。今まで忠実に仕えてくれた人間が実は邪な人間だった、なんて。今回の事件で十分だよ」
「お兄様は今……?」
「僕が陛下に呼び出されている間に仕事を手伝ってくれているよ。使用人達の素性調査を進めてもらっている」
「あの、戻ったら私にも何かお手伝いを……」
「いいや。戻ったら、暫く屋敷でゆっくり休みなさい。ファナに何事もなくとも、周囲はそう見てくれないだろうから」
「はい……」
ファウスティーナの乗っていた馬車が襲撃されたのは人気の少ない場所だったといえど、目撃者がいない訳じゃなかった。その日の内に救出されたと今朝知らせが入っても何事もなかった、とは証明されない。
念の為、女性騎士と女性医師により身体検査がある。ファウスティーナが登城した最大の理由。
「本当に無事で良かった」
「ご心配おかけしました。この後、陛下とお話をされるのですよね?」
「そうだよ。シエル様もいる」
「……お父様、私のお願いを聞いていただけますか?」
今から告げたファウスティーナの言葉に沈痛な面持ちを浮かべたシトリンだが否とは言わなかった。
「分かった。陛下には僕から話を通しておくよ」
「ありがとうございます」
懸念材料はなくなった。残るは、シリウスが肯定するかどうか。だが、最近はベルンハルドにかなり厳しい上に婚約変更もやむなしと考えるシリウスなら、ファウスティーナの願いを聞き入れてくれる気がした。
男女の騎士がやって来た。
男性騎士はシエル達を、女性騎士はファウスティーナを呼びに。
ファウスティーナが女性騎士と別室に向かう間際――シトリンに呼び止められた。
「ファナ……ファナは後悔しないかい?」
「……しませんわ。お父様にはずっと嘘を吐いていて苦しかったですが……もう……解放されたいのです……」
「……」
苦しげな父の顔に胸が締め付けられる。ヴェレッドが「公爵様」と催促する。静かに頷いたシトリンは、優しく空色の頭を撫でた。
「頼りない父親で……ごめんね。せめて、ファナのお願いは叶うよう努力する」
シトリン達が去って行くとファウスティーナも女性騎士と共に別室に向かった。
部屋に着くと女性医師が待ち構えていた。
「初めましてファウスティーナ様。王弟殿下のお屋敷で簡易的な検査は受けたと聞きますが、念の為、此方でも検査をさせていただきます」
「はい、よろしくお願い致します」
早速、検査が始まった。
と言っても、誘拐されて間もなく救出されたファウスティーナ。目立った外傷も暴行された痕跡もない。仮に身体を暴かれていたら、呑気に眠ってはいられない。睡眠薬を飲まされたのもあり、常識からファウスティーナ個人の質問を受け答えした。
女性医師が述べて行くのを女性騎士が問診票に書いていく。
全ての質問と検査が終わった。
何事もなかったと改めて診断され、安堵の息を吐いた。
国王を交えた話し合いはまだまだ終わらないとのこと。父シトリンから、終わったら先に屋敷に戻ってもいいとの伝言を預かったと後から来た女性騎士が言う。シトリンのこともあるがシエルやヴェレッドを置いて先に帰るのも気が引けた。平民にも一般公開されている東側の庭園に行きたいと申し出た。
「それでしたら、王妃殿下お気に入りの南側の庭園がよろしいかと。警備も万全ですし、陛下達のいる場所からは然程遠くないので」
「では、南側庭園に行きます」
「はい。お供します」
南側庭園は、幼少期王妃主催のお茶会や王妃教育終了後何度か足を運んだ。王妃お気に入りの花々が咲き誇るそこは小さな楽園。色鮮やかな花に何度心癒されたか。女性騎士に着いて庭園を目指す。
すると前方から慌ただしい足音が。何事かと身を強張らせた。
「ファウスティーナ!」
焦りの表情で駆け付けたのはベルンハルドだった。髪は乱れ、息も荒い。必死な形相で目の前に立ち止まったベルンハルドがファウスティーナの肩を掴んだ。
「怪我は? どこも異常はないか? 気分はどうだ?」
「で、殿下、落ち着いてくださいっ。大丈夫ですから、何もありません」
「本当かっ? 本当に何もないのか?」
しつこいくらい聞いてくるベルンハルドから心配の色が伝わってくる。行動を監視していたとシエルに聞かされ驚いたがこの必死さが偽りじゃないことに微かな喜びがあった。女性騎士が何かを言おうとしたがファウスティーナが制し、2人になりたいと告げると下がってくれた。周囲に誰もいなくなると2人は改めて向き直った。
「司祭様から聞きました。殿下が私を助けてくれようとしたと……殴られたと聞きましたが……」
「大したことはない。不意を突かれ、気絶させられた。……笑ってくれていい、間抜けだと」
「そんな……」
「ファウスティーナの乗った馬車が襲撃され、誘拐されたと聞かされた時周りが見えなくなった。私が助けに行くのを反対した者も多かっただろうに」
「……」
どうしたらいいのだろう。
目の前にいるこの人の心配も、1年前から言い続けているやり直しも全部本心。偽りだったなら、どれだけ拒む心が楽になれるか。見上げる瑠璃色が揺れている。言葉では何もないと告げても不安は消えない。
ふと、手を伸ばした。
ベルンハルドの紫がかった銀糸に。
触りやすいように体を屈んでくれた。
触るつもりはなかった。でも、触りたくなった。
乱れた髪を手で整え、そっと下ろした。
「……」
「……」
微妙とも、心地良いとも違う、表現し難い雰囲気が2人を包む。
憎まれ口を叩き、学院のように言い合いに持っていけば、今度こそ可愛げのない女としてベルンハルドも見捨てるだろう。絶好の機会だと思う。
なのに、ファウスティーナは何も言えない。
1つも発せない、浮かばない。
「ファウスティーナ……」
ベルンハルドの左手が空色の髪に触れた。
「……今日は……言わないのか?」
「……」
ベルンハルドも思っていたのだろう。何故ファウスティーナが憎たらしい言葉を吐かないことを。
見上げていると困ったように目尻を下げられた。
「そんな顔をされると……どうしても……まだ私にも機会があるのだと期待してしまう」
自分は一体どんな顔をしているのだろう。生憎と天井に鏡はない。
困って言葉を探しても何もない。
「ファウスティーナ……屋敷にはもう戻るのか?」
「……いえ、陛下とお父様達の話し合いが終わってから一緒に戻ります」
「そうか。私も行ってもいいか? せめて、無事屋敷に戻るところだけは見たいんだ」
「分かりました」
嫌だと言えなかった。一瞬強く不安に揺れた瑠璃色は、頷くと安堵に染まった。
もしも此処が王城ではなく、公爵邸だったらエルヴィラが飛んで来ただろう。その時ファウスティーナは、ベルンハルドの為に磨いた悪役振りを遺憾なく発揮した。こんな時だけエルヴィラを必要としてしまう。
髪に触れていた手が頬に伸びた。
「今だけ……こうしていてもいいか?」
「……殿下の、気が済むままに」
――ファウスティーナとベルンハルドの貴重な穏やかな逢瀬は話し合い終了と共に終わった。騎士に呼ばれ、案内された部屋にいた父シトリンに駆け寄った。さっき会った時より随分と疲れていた。
「お父様……大丈夫ですか?」
「うん……心配しなくていいよファナ。帰りの馬車には、僕かシエル様どちらと乗る? 僕はどちらもでいいよ。ファナの好きな方を選びなさい」
「えっと……お父様と帰ります」
言ってシエルを見た。気にした風もなく、ひらひらと手を振っている。……側にいるヴェレッドが口元を抑えて笑いを堪えているのは何故か。
「……ベルンハルド殿下。殿下にお話があります」
一緒に来ていたベルンハルドへシトリンが固い声で告げた。
「此度の誘拐を受けて、ファウスティーナと殿下の婚約の解消を陛下に求めました。ファウスティーナが無傷といえ、王太子妃、王妃になる娘として相応しくはありません」
「それは……」
ベルンハルドは言い募ろうとするが唇を噛み締めた。どれだけファウスティーナとの関係改善を望んでいても、毎日学院でエルヴィラ関連で言い争っていても婚約継続は出来ていた。“運命の恋人たち”にされてしまうも条件を満たせばクラウドが糸を切ると約束してくれた。
体に異常はなくても経歴が汚れた。事実を隠そうにももう遅い。既に知れ渡っている。
「それと……エルヴィラのことです」
シトリンがファウスティーナの代わりにエルヴィラを次の婚約者にすると言い出すのかと、ベルンハルドだけじゃなくファウスティーナも身構えた。漸く待ち望んだ展開になる、筈なのに全く嬉しくない。
「ベルンハルド殿下とファウスティーナの婚約解消がなされれば、“運命の恋人たち”に認定されてしまったエルヴィラが次の婚約者になる可能性が高い。ですが、あの子ではとても王太子妃どころか王子妃ですら務まらない」
「はは、公爵夫人の泣き落としで甘やかしていたせいでしょう」
「黙っていろリジー」
茶化すヴェレッドを黙らせたのはシリウス。リジー、と女性名で呼ばれると盛大に嫌な顔をして外方を向いた。前に先代王弟オルトリウスが戻った時もローゼと呼ばれ嫌な顔をしていた。
ローゼもリジーも女性名だ。特にリジーの場合、愛称の場合がある。
愛称でリジーとなる名前は何だったかと思案しようとすると、焦りの混じったベルンハルドの声で意識が戻る。シトリンは力なく首を振る。
「違います。
フワーリン公爵イェガー様に頼みました。殿下とエルヴィラの運命の糸を断ち切って下さるように」
「!」
ベルンハルドはクラウドに。
シトリンはイェガーに。
それぞれ、エルヴィラとの糸を断ち切るよう依頼していたのだ。
瞠目するベルンハルドが「公爵、それは……」と一歩踏み出し、次の言葉を言いかけた時だ。
「――!!」
ベルンハルドの体が前に傾いた。辛うじて跪くように足を突いたため倒れはしなかった。
ファウスティーナが整えた髪が額に張り付いていた。苦悶の表情を浮かべ、唇を噛み締めて、左手を握り締めている。
「殿下……?」
尋常じゃない異変にすぐ様近付こうとしたファウスティーナ。
だが「来るなっ!」と余裕なく叫ばれ、硬直した。
室内の空気が一変した。
「ベルンハルド、どうした!?」
ヴェレッドの茶化し以外静観していたシリウスが駆け寄った。声は上げなくても、その様子から尋常ではない痛みを感じているのは伝わる。シエルも側に寄りベルンハルドに触れた。
「私が触れて痛いかい?」
「っ、い、いえっ」
「最後に口に入れた物は?」
「今日は、一口も、何も食べていませんっ」
「それはそれで駄目なのだけど。だが、となると一体……」
毒を仕込まれたなら、口に含んだ食べ物が怪しいと踏むも何も食していないなら毒物は体内に入ってない。彼自身に持病はない。
痛がり方が普通じゃない。「うぐっ」と苦しげに呻く。来るなと叫ばれても触れられずにはいられないファウスティーナは汗に濡れる顔を両手で包んだ。
「殿下っ」
「ファウスティーナ触れるな、何があるか分からないっ」
「でも……」
不意に、光る何かを見たファウスティーナは下を向いた。
握り締めていないベルンハルドの右手の小指に巻かれている赤い糸があった。
建国祭の際、魅力と愛の女神リンナモラートが運命の糸を結んだ、あの糸。視覚からの情報でも分かるくらいに糸がベルンハルドの指に食い込んでいる。
ベルンハルドを襲う痛みがこの糸が原因とするなら……
(私は……殿下にふこうになってほしくない……でも、私のせいで……殿下が苦しんでいるのなら)
リンナモラートは言っていた。
『覚悟しなさい。互いを強く思い合うことが必要な“運命の恋人たち”が片方の一方的な恋情から成立する歪さを』
『王子様はこれで逃れられない赤い糸に縛られ続ける。幸福とは真逆、不幸の底へ落とされる』
――それでも王子様と空っぽを結ぶ?
あの時のリンナモラートの忠告が鮮明に蘇る。
視界が揺れる。
もしも、仮に、本当に。
ベルンハルドがエルヴィラを好きでも、王太子妃になる能力がなくて仕方なくファウスティーナを選んだとしても。
たったちょっとでも、ベルンハルドの気持ちと言葉を信じていたら……
『ファウスティーナ……これでもう、私達の邪魔をするものは何処にもいない……。ずっと……一緒に……いられるんだ…………』
記憶にはない光景が少しだけ浮かんだ。口から血を零し、段々と冷たくなっていく自分を抱き締めるベルンハルドの口元にも血が付着していた。よく見るとベルンハルドの首から下が血に染まっている。
『お前さえいれば……いい、他は……いらないんだ……。
ファウスティーナ……私の……“運命の人”……』
覚えのない記憶なのに、覚えがある。
可笑しな気分だ。
たった1つ言えるのなら、これだけ。
(殿下……ベルンハルド殿下……。
あなたが生きてさえいてくれれば……私は……何もいらない)
ベルンハルドの顔を両手で包んだまま、ファウスティーナは顔を寄せて……深く下を向いた。
自分が今どんな顔をしているのか、視界が揺れるのはどうしてか、どんな声を発しているか、自分のことなのに。
他人のものだと錯覚してしまった。
「……か……殿下……、今だけ……、今だけでもいいですから……――
エルヴィラを好きだと、愛していると思ってください」
側にはシリウスやシエルがいるのに、涙に濡れて震えるファウスティーナの懇願はベルンハルドにだけ届いた。
――同じ頃、フワーリン公爵家
夜空を押し込んだ地面と壁。最奥にある巨大な絵画の前。同じ色の祭壇に腕を預け、息を荒げる青年が1人。蜂蜜色の金糸を乱し、1回1回の呼吸を大きくするクラウド。
祭壇に預けている腕は血に染まっていた。
「はあ……はあ……っ、ま、ったく、女神様の介入も、今回限りにしてほしいねっ」
クラウドの腕以外に、祭壇には黒いナイフが突き立てられていた。
「……悪いねファウスティーナ様。君が誘拐なんてされるから、エルヴィラ様王太子妃問題が現実になりそうだよ。……ベルンハルドとの約束を前倒しして……“運命の恋人たち”を、……消させてもらったよ」
普段のふわふわとした雰囲気の彼はどこへやら。
額に張り付いた髪をそのままにし、痛みに満ちた表情を浮かべていた。
同時刻、ヴィトケンシュタイン公爵邸でも異変は起きていたが。
ケインが忙しく使用人達の素性調査に奔走している最中かつ、普段側につくトシリャを始めとする侍女達も聴取中の為に、休眠を取っているエルヴィラが悪夢に苛まれていると気付く者は誰もいなかった。




