実感なし
1年前までお世話になっていた部屋の天井を最初に見た。起床した際、毎日見上げる天井が違うと気が動転してしまうのは人間仕方のない心理ではないだろうか。寝台の側に椅子に座って寝顔を眺めていたシエルに「おはよう。よく眠れた?」と微笑まれただけで落ち着きを取り戻し、朝の挨拶を返した。ファウスティーナの近くに座ると訳を話された。
同時に信じられなかった。
長年公爵家に仕えていた執事のカインがファウスティーナ誘拐を実行した、なんて。ファウスティーナは最後の記憶を思い出す。疲れているファウスティーナの為にと用意された紅茶を飲んですぐに眠くなったこと。そこから先の記憶は全くない。ただ、現実ではあり得ない幸福な夢を見ていたのは覚えている。見られるなら、もう目を覚さなくてもいいと抱くくらいに――あの夢は幸福に満ち溢れていた。
ファウスティーナのことを陰ながら見守っているようヴェレッドに言い付けていたことで眠らされただけで即救出されたと聞かされた。
「ヴェレッド様は今どちらに?」
「朝食の準備をさせてる。あと、これも言っておこう。君を助けにベルンハルドも向かったんだ」
「殿下が?」
ヴェレッドが連れて行ったのか? かと思いきや、違うとシエルに首を振られた。ファウスティーナは初めてベルンハルドに行動を監視されていると聞かされた。気付いてないのは王太子付きの優秀な密偵だから、と。普段から監視されていたのには驚きだが、肝心の本人は王都にいるらしい。
「隙を見せてしまってね、犯人の1人に気絶させられたみたいなんだ」
「け、怪我は!?」
「大丈夫。ヴェレッドによると強く殴られたらしいけど、後遺症も残らないから大丈夫だろうって」
「よ、良かった……」
ベルンハルドにもしものことがあれば、気が気じゃない。心底安堵すればシエルに頭を撫でられた。
「君は眠っていただけらしいけど体に異常はないかな?」
「はい。何もありませんわ」
「ならいい」
「……司祭様、カインはどうなったのでしょうか?」
「どうやら、捕まる前にあの世に逃げられてしまっていたみたいでね。遺書が残されていた」
遺書には、ファウスティーナと瓜二つの容姿を持つアーヴァへの異常な愛が綴られていた。が、最後の方にファウスティーナやケイン、シトリンに対する懺悔が記されていたとか。特にファウスティーナに対しては、殊更罪悪感を抱いていたと主張する言葉が綴られていた。ヴィトケンシュタイン家の3兄妹の味の好みをバッチリ把握し、更に公爵夫妻や周囲からの信頼も篤かった執事の鑑のような男性だった彼の本性を晒され、現実味がないと言えるのが現状。
カインに対する恐怖心も怒りもない。眠らせたのは、怖い思いをさせたくなかった。また、此度の誘拐、失敗する確率が極めて高いと記されていた。そう思ってまで実行した彼の心中は永遠に闇の中となった。
落ち込んでいても仕方ない。カインの特製ホットココアがもう飲めなくて残念極まりないが諦めないとならない。
「司祭様。この誘拐で私と殿下の婚約はどうなるのでしょうか?」
無傷といえど、誘拐されたという事実だけで十分に相手の印象が悪くなる。しかも未来の国母。また、最近のファウスティーナとベルンハルドは毎日言い争っている。ベルンハルドには運命の相手エルヴィラがいる。王妃になる素質がなくても“運命の恋人たち”という、女神に認められた男女という関係だけで尊い女性。王妃の役割をエルヴィラが熟せないのなら、既に王妃教育を終えたファウスティーナを側妃にして公務をさせればいいという声が上がるだろう。
「君の体調も良さそうだし、今日中に王都に戻ろう。そこで陛下と話をつけよう。陛下には、数日先まで時間を取ってもらうよう話はつけてるから、いきなり行っても心配しなくてもいいよ」
「は、はい……」
シエルの準備の良さには驚きつつ、早く決着をつけてベルンハルドを解放して新たな婚約者にエルヴィラを据える計画が達成間近になった。“運命の恋人たち”となってもベルンハルドに泣き付くだけで相変わらず勉学に身を入れてくれないが、婚約者に選ばれればさすがにせざるを得なくなる。また、ファウスティーナとベルンハルドの婚約解消が為されていないのは、ベルンハルドの強い拒否があるから。今回の誘拐でもう無理だろう。国王シリウスも解消してくれる。そう願うファウスティーナであった。
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