公爵令嬢誘拐 ー夢と現実ー
髪を優しく攫う、心地好い風を浴び。ふわりと舞う花の香りに顔を綻ばせた瞳の先には、愛おしさが多分に含まれた瑠璃色の瞳を向けてくれるあの人がいた。
お互いをなんと呼んでいるのだろうか。
頭に落ちた花弁を取り、笑い合う。
こんな光景は知らない。知らない筈なのに、既視感があるのは何故?
『もうすぐ卒業だな。結婚式の為に用意したドレスも完成が近いと聞いたんだ。完成したら一緒に見に行かないか?』
『はい! ――――と考えたドレスですから、是非』
彼の名を呼んだであろう自分の声は無音となった。
『――――には青銀も似合うがやっぱり……』
自分の名を呼んだであろう彼の声も無音となった。
(私の願望かな……)
心の奥底に秘める願望が幸福な夢を見せているのなら、とても残酷だ。現実に戻ってしまえば、もう決して手に入らない幸せ。
彼の口付けを受け、微笑む自分。
涙が流れ落ちる。
幸福と彼に対する愛しさで胸が一杯になる。
起きたくない。
この幸せな夢から醒めたくない。
どうせ、現実に戻れば……
(あれって……)
不意に見えた黒。視線を凝らしてよく見ると、ドレスの裾を握って大粒の涙を零すエルヴィラが2人を――自分を睨んでいた。仲睦まじくする姿を見て、嫉妬によって流れる涙に綺麗さはない。
現実と逆だなとぼんやり抱く。現実では、エルヴィラの立ち位置が自分になる。正確には、側にエルヴィラがいたらそうなる。周囲の目に“運命の恋人たち”の仲を嫉妬して醜く振る舞う自分が映るように。
『……って、……わたしだって……っ! ううん……わたしの方が愛されてる、わたしの方が愛してるのに……なんでえええええええええぇ……!!』
子供のように泣き出したエルヴィラの大声は、自分の世界に浸る2人には届かなかった。
……泣き叫ぶ真似だけは絶対にしない。
●○●○●○
不思議な夢を見ていた。
仲睦まじく、結婚式で着るドレスの話をベルンハルドとする幸せな夢。現実では有り得ないからこそ、夢という世界で願望が具現化されたのなら、結局自分の意思とはその程度のものになる。
意識が浮上するも眠気が強いせいと温かいものに包まれているせいで起きる気がしない。鼻腔を擽る甘い薔薇の香り。嗅いだ覚えのある香りなのに、それすら眠りを深くする材料にしかならない。もっと温もりを求めて擦り寄った。
「ん……ちょっと……擽ったい……」
誰かの声がした。眠気を吹き飛ばす材料にはならなかった。手を前に出すと固いものに触れた。何だろうと触ると温かく、でもやっぱり固い。
「ねえ……っ、態とやってる? 起きてる?」
入る声が擽ったそうで、微妙に艶やかなのはどうしてか。でも眠気がまだまだ強く、起きる気になれない。幸福な夢の余韻に浸っていたい。起きたら、また辛い日々に戻る。母親が領地にいても、しんどさは変わらず。ただ、家でのしんどさは減った。学院でのことはファウスティーナ自身、自業自得なので無理をしない程度に踏ん張るしかない。
手の置き場に困り、上へ持って行った。手触りが最高なものに触れた。良い香りまで漂い、触り続けた。
上から溜め息めいたものが吐かれた。
気のせいか、遠くの方が騒がしい。それでもファウスティーナは眠気が強くて起きたくない。
「薬の量多目にしたせいかな。お嬢様全然起きない」
「寝ながら俺の身体触りまくるし……仕返しされても文句は言わせないよ?」
両肩に触れられたと思うと下に倒された。何となく、寝ている場所がベッドなのが伝わる。上にのし掛かった重みに顔を歪めるが起きる気がない。
片脚を広げられ、間に誰かが体を割り込ませた。誰だろうと思ったところで漸く眠気がマシになってきた。……が、瞼を上げる気にならない。起きようとはしてもまだ時間がかかるらしい。
その間にも、肩が冷えだした。胸の辺りも寒い。
下の騒音も段々と大きくなり、近付いている。
何かが起きているとファウスティーナの体は、漸く起きる気になった。
ゆっくりと瞼を開けたファウスティーナ。
「んん……」
「……ああ……起きたんだ……でも残念。お嬢様の寝相の悪さのせいだよ。……んう」
ぼんやりと霞む視界に最初に現れたのは、見事な薔薇色の瞳。愉快気に細められると目を閉じられた。自分もなんとなく閉じてみた。強い眠気に誘われる。唇に当たっている柔らかい物が何かと考える気力も消えていく。
触り心地最高なものに触れていた手が掴まれ、顔の横に倒される。掌を指先でなぞられ擽ったい。指を力なく握るもするりと抜け出された。唇の違和感が消えると次は耳に違和感を覚えた。固いものを上から押し付けられた。
「ん……」
騒音が小さくなった。何かがあったのだろうが収まり始めたのだろう。また唇に柔らかいものが触れた。
甘い薔薇の香りと心地好い眠気によって起きる気がなくなったファウスティーナは、自身の身に何が起きているか全く興味を抱けない。眠いし、良い香りだし、起きたくない。子供のような我儘な気持ちがあった。このまま眠り続けたら、また、あの幸福な夢を見られる気がした。現実では絶対にならない遥か遠い幸福。寝ている間だけ、幸福に浸らせて、自分自身が手放した幸福を見ていたい。
「――ファウスティーナーッ!!!」
遠くなっていく意識、遠い声。
声の持ち主が何故かベルンハルドな気がしたファウスティーナだが、目を覚ますことはなかった。
●○●○●○
「は……はは……何その間抜けヅラ」
南側にある宿『ピッコリーノ』にて。今日の夜、ある部屋で人身売買の取引が行われる予定だった。
ヴィトケンシュタイン公爵令嬢のファウスティーナを多額の金銭で売り払うというもの。
16年間公爵家に仕えた執事カイン=フックスの皮を被り、機会を窺っていたヴェレッドは、今日ジュードとリンスーを1日数回しか使用されない倉庫に眠らせるとファウスティーナを迎えに行った。午後を回って入れた、次に誰かが来るとしたら夕刻となる。
カイン=フックス、という名前は彼に今回の公爵令嬢誘拐を企てた犯人の名前。
17年前、彼の変装技術の高さの噂を聞き付け、ある話を持ちかけた。時期を見てファウスティーナを誘拐するという、突拍子もない話。女神の生まれ変わり、生まれた時から王太子の婚約者と決められた最高位の貴族令嬢を誘拐? 頭のネジが飛んでいるのかと軽蔑するも、ファウスティーナを無理矢理国王と公爵に奪われ憔悴しているシエルの手元に、彼女を戻せるならと手を貸した。時間がかかってもいい。あの子がシエルの元に帰れるなら、幾らでも手を汚せる。
この手は既に汚れ切っている。シリウスを先王妃の狂気から助けた時に、既に――血で汚れた。なら、今更どれだけ汚れようが同じ。父に兄王子達の支えとなれと、様々な教育を受けさせられた。シエルに内緒で。
変装の技術が高いのも、更に上をいくメルディアスに教わったから。彼の何者にもなれない特異性を見抜いた叔父オルトリウスが王族専任の騎士になるようにと鍛え、先王ティベリウスが隠されていた第3王子の指導役に任命したのだ。シリウスとシエルと同じ歳の少年をだ。
最初はシリウス寄りだったメルディアスも今ではシエル寄りだ。無理もない、本当にベルンハルドとエルヴィラが“運命の恋人たち”になってしまったのだから。姪っ子思いな彼は、ベルンハルドとファウスティーナの婚約が解消される可能性が高いこと、仮に“運命の恋人たち”が婚約し結婚してもエルヴィラでは公務も執務も熟せないと兄であるフリージア公爵を説得した。絶対に側妃が捧げられると。メルディアスの冗談にいつも泣かされていたフリージア公爵も、この時は冗談とは捉えず真剣に向き合った。夫人と話し合った結果、隣国の公爵令嬢である夫人の生家に預ける形となった。
ヴェレッドは扉を蹴破る勢いで乱入した青年を嘲笑う。絶望、怒り、憎しみを込めた瑠璃色が自分を睨む。生気のない声が「ファウスティーナ…………」と呼ぶ。
怖い目に遭わせないべく、馬車で提供した紅茶には睡眠薬を入れておいた。騒音の大きさで意識を覚醒させないようにと量を多目にした。そのお陰か、途中目が覚めたが明らかに意識が定まらずぼんやりとしていた。ヴェレッドに仕返しをされても寝惚けた眼を浮かべ、気付くとまた眠った。
ベルンハルドの絶望に染まった顔。傍から見たら婚約者が別の男に襲われている場面にしか見えない。誰が突入しても、明らかに何かがあった風に見えるよう態とファウスティーナの衣服を乱した。
制服のスカートを下着が見えないギリギリまで捲り、肩を剥き出しにさせ胸元を少し開いた。片脚を広げ、間に体を捻じ込んだのも態と。
キスをするつもりは更々なかった。でも、寝ぼけている割に人の体をベタベタ触るファウスティーナの呑気な寝顔に苛立って。
この事は絶対に黙っていよう。ファウスティーナも覚えてないだろう。
……但し、目の前にいるベルンハルドが黙っていたらの話。
「はは、イイもの見れた」
「っ! ファウスティーナと何故いるっ、何故彼女に……!」
「うん? うん。俺もね、偶にはドジを踏むんだ。貧民街に行った時、柄の悪い連中に囲まれちゃって。場所も悪いし、向こうの方が人が多かったから仕方なく此処に連れられたの。大人しくしてたらお嬢様が運ばれ来たんだ」
「そんな話信じると思うか!? 第一、ファウスティーナを襲う理由にならない!」
「教えてあげようか? 連中に脅されたんだ。すぐに“愉しめるようにって“ね」
「っ!!」
意味を悟れない子供じゃない。ベルンハルドは更に憎々し気にヴェレッドを睨み、大股で室内に入り込んだ。持っていた剣の先をヴェレッドの眉間へ向けた。
「拘束もされていない、暴力を受けた様子もない。余裕綽々のあなたが連中の要求を黙って呑んだとは思えない! ファウスティーナを辱めようとしたんだろう!?」
「だから、それは連中だってば。俺は頼まれたから仕方なく。俺だって辛いんだよ? シエル様の大事なお嬢様の肌に触れるのは」
挑発するように、相手の怒りに触れ噴火させるようにヴェレッドの言葉1つ1つがベルンハルドの感情を上昇させていく。シエルの大事なお嬢様。口を開いたベルンハルドの前に言い放った。
「王太子妃より、王弟妃の方がお嬢様は幸せになれる。お嬢様の性格を知りながらも、何が悪いか、正しいかを教え、絶対に見捨てなかったシエル様なら必ずお嬢様を幸せにする。お嬢様もシエル様に絶大な信頼を寄せてる。お嬢様に何を言っても信用されない、空っぽ妹と“運命の恋人たち”にされた王太子様なんかよりずっとね」
「叔父上の婚約者になんてさせないっ! ファウスティーナは私の婚約者だ! エルヴィラと結ばれたあの運命の糸だって、私とファウスティーナの婚約が継続されればクラウドが切ると言っている! 私とエルヴィラが結婚する運命なんてないっ!」
イル・ジュディーツィオは唯一、運命の女神の糸を断ち切る力を持つ審判者。今代の審判者はベルンハルドの従兄。婚約継続……それは、つまり。
「は……こんな誘拐が起きても、王様は王太子様とお嬢様の婚約を継続させるかな?」
「っ!!」
最も痛いところを突いた。言動や振る舞いに問題があるよう見せかけて国王が婚約解消を、またはベルンハルドがエルヴィラを認め解消となるかを、ファウスティーナが待っていたのはベルンハルドにだって分かる。誘拐された令嬢に未来はない。今回はヴェレッドがいる上(態と辱める真似をしてはいるが)ファウスティーナに目立った外傷はない。今此処には他の人間もいない。
言葉を失うベルンハルドに構わず、ヴェレッドは乱したファウスティーナの衣服を整えていく。これで眠らされていただけで何もされていないように見える。
ベルンハルドに向き直ると――瞳に鋭さを増した。
「しま……」
剣の先を蹴り上げた。ベルンハルドの手から剣が強引に離され、天井に刺さった。同時に足払いを決めて、左袖に隠していたナイフを出し、ベルンハルドの喉元に当てた。
「っ……」
ベルンハルドの額から一筋の汗が流れ落ちた。
「はは……間抜け。間抜けにも程がある。剣術の先生に教わらなかった? どんな時でも最後まで気を抜くなって。まあ、今と昔は全然違う。王様もシエル様も無駄に強いのも、王太子様が弱いのも時代の違いだ。荒れた時代と平和な時代、王様は今のままでいいと言うけど、もしもの時の為に力は付けなくちゃ。でないと、今みたいに簡単に倒されちゃうよ?」
元より危害を加えるつもりは更々ないヴェレッドはすぐに退いた。ファウスティーナの側に寄って頬を触っても抓っても起きない。夜に起きるのを期待しよう。
不意に背後に気配を察知。
ベルンハルドが立っていた。俯き、体を震わせ、拳を握り締めて。
「……ファウスティーナは……私の言うこと全部をエルヴィラに挿げ替える。ファウスティーナに贈ったプレゼントはエルヴィラに使うと、ファウスティーナに会いに行っても迎えるのはエルヴィラ……
話をしたくても逃げ続けて、エルヴィラが側にいれば近くに来てもっ、態とエルヴィラを虐げるフリをしてばかりっ。
ファウスティーナとやり直したい気持ちも、好きな気持ちも、全部本心なんだっ、どうしたら信じてもらえるんだっ」
「……あのさ、それ、真面目に言ってる? 今までお嬢様を冷遇して空っぽ妹を優先してきたくせにそれ言うの?」
「自分でも都合の良いことを言っている自覚はあるっ、それでもエルヴィラには何の感情も持ってない!」
「へえ? で? それ、信じる人っているの?」
「っ……」
ずっとファウスティーナに泣かされるエルヴィラを可哀想だと優しくし、優先してきた男が今更婚約者が大事だと言い放っても誰も信じない。両親からにも、ファウスティーナとの件については見捨てられている。
「1個聞きたいんだけどさ、王太子様、お嬢様にやり直したい理由をちゃんと言った?」
「言っている! 私に必要なのはファウスティーナだと、何度も……」
「馬鹿じゃないの? それってさ、空っぽ妹じゃ王太子妃の役目を熟す能力がないから、ずっと教育を受け続けたお嬢様にやらせようって魂胆が丸見えだよ」
「そんなつもりは一切無い!」
「王太子様になくても、お嬢様は、周囲はそう思わないよ。第一、空っぽ妹も王太子様に愛されてるって思う辺り、お嬢様に対しての気持ちは所詮その程度なんだよ王太子様は」
「それはファウスティーナが認めないからだっ」
「はあ? 何それ。お嬢様のせいなんだ。……はは、結局さ、王太子様。王太子様が抱くお嬢様への気持ちに愛情なんてない。ずっと玩具箱に仕舞われていた玩具を捨てられそうになって嫌がるクソガキと同じ。
本当にお嬢様を思ってるなら、お嬢様が欲する言葉が何か分かる筈だ。ずっと愛情に飢えていたお嬢様を大事にしたら、びっくりするくらいの幸福に浸れるのに……」
愕然とするベルンハルドと一気に距離を詰めた。彼がハッとなった瞬間――後ろに回り込み手刀を食らわせた。呻き声を上げ倒れたベルンハルドを一瞥するでもなく、椅子を窓に向かって投げた。派手に窓ガラスが割れた。ベッドに寝かせているファウスティーナを抱き上げたヴェレッドは駆け付けた騎士に犯人の1人が窓から逃げたと告げた。王太子は、そいつに殴られ気絶した、と。
「シエル様に言われてお嬢様を見張ってて良かった。すぐに駆け付けられたから」
「王弟殿下に……そうだったのですか。殿下をお運びします」
「うん。お嬢様は教会に連れて行くよ。馬車を出して」
「はっ! すぐに手配をします!」
読んでいただきありがとうございます!




