15 無邪気
――“運命”も“永遠”も、信じる奴は皆馬鹿だ。そんなものがあるならぼくは……
「殿下、あまり風に当たられるとお体に障ります」
「今日は体調が良いんだ。歩ける時に歩きたいし、ずっとベッドの中も退屈なんだ」
「しかし」
「具合が悪くなったらちゃんと言うから」
病弱な体を持って生まれたネージュを、両親は勿論、1歳しか違わない兄もいつも心配していた。季節の変わり目は特に体調を崩しやすく、長く風邪を引く時だってあった。自分の弱い体を恨んだって意味もない。持って生まれたこの体質は、死ぬまで付き合いの続く隣人なのだから。
陽当たりの良い王城の人通りが少ない場所を散歩する。護衛はシエラが付けた騎士が1人。ネージュはポツンと置かれているベンチに座った。騎士が慌てた様子で駆け寄ったので苦笑を浮かべた。
「具合が悪くなったとか、そんなんじゃないよ。座りたくなっただけ」
「そうですか。良かった」
「ねえ、温かい飲み物を持って来てよ。ずっと此処で待ってるから」
「いえ、殿下を1人にする訳には」
「動かないよ。ほら、早く行って」
心配そうにネージュを見、絶対にいてくださいよと釘を刺して騎士は人のいる方へと戻っていった。
1人になったネージュは上を向いた。
雲一つない快晴。
どうして余計な色がない空はこんなにも綺麗なのか……
「嗚呼……当然だよね……だって、空は君の色だもん。綺麗に決まってる。余計な白がない綺麗な空色……」
くすくすと笑うネージュは空を見るのを止めて前を向いた。前方には大きな木がある。子供1人くらい隠してしまいそうな大きな幹に近付いて、そっと触れた。
後ろに回り込み、じっとその場所を見つめた。
暫く立ったままだったがベンチに戻った。
ネージュはまた静かに笑った。
「今頃ファウスティーナは母上から王妃教育を受けて、兄上は剣術の鍛練の最中。兄上は何度見ても変わらないな。ぼくはそんな兄上が大好きだけど……」
太陽の光を受けて宝石にも勝る輝きを放つ紫紺の瞳が他者をコキュートスへ突き落とす絶対零度を纏った。今のネージュと目が会えば、たちまち全身が凍り付き死ぬ事も出来ないまま永遠の苦しみを与え続けられるだろう。
ネージュは兄ベルンハルドが大好きだ。大好きだから何もしない。
「こんなぼくを愛してくれる兄上を嫌いになんてなれない。今も、これからも」
――最後には、とっておきのプレゼントをくれると知ってるから
足をぷらぷら揺らして騎士の戻りを待つと、体に良いお茶を持って騎士が戻った。
ティーカップを受け取ってゆっくりと飲んだ。
「美味しい」
ネージュが飲み易いようにと料理人が甘く作ってくれた。味わう様にお茶を飲むネージュは今度のお茶会で、体調を崩して不参加になるのは嫌だから苦い薬も美味しくない栄養満点の料理も残さず食していた。
お茶会に呼ばれる家は前と同じだろう。
そういえば、とお茶を飲みながら思案する。
(ファウスティーナはきっと前を覚えてる。そうでなかったら困るけど、どうしようかなあ。兄上から聞くファウスティーナの行動を予想して、更にあの令嬢の前を思い出すと……)
美味しそうにお茶を飲むネージュの思考が、可愛らしい外見からは想像も出来ない真っ黒なものだと、見守る騎士が気付く事はなかった。
*ー*ー*ー*ー*
――今日はより一段とスパルタだった……
王妃教育の進行が予想以上に上手くいっているのとファウスティーナに大きな期待を寄せるシエラはいつも以上に厳しく指導した。今日ばかりは経験豊富なファウスティーナでも目が濡れた。涙を流す事も許されないので表情を引き締めた。終わった後のシエラの満足げな笑顔が自分に大きな期待と信頼を寄せてくれているとファウスティーナは知っている。いつかベルンハルドと婚約破棄をしたら、シエラは悲しむ上、大反対するだろう。
多少の不幸はあっても、ベルンハルドとエルヴィラが結ばれるのが最も幸福な結末。
王妃教育を終えて、帰りの馬車の中から外を眺めるファウスティーナは大きな欠伸をした。同席者がいないから出来る貴重な行為だ。
「殿下にエルヴィラが好きだと自覚してもらう良案はないかしらね」
胸に小さな痛みが走る。
憎まれても、殺意を向けられても、捨てられても、ベルンハルドを好きな気持ちは変わらない。前の様に行き過ぎた好意はないが、微笑みを向けられて胸が高鳴ったあの瞬間は忘れられない。ファウスティーナは外を見たままポツリと呟いた。
「エルヴィラと私の容姿が逆だったら、前は誰も傷付かなかったのにね。運命って残酷」
自分と同じ空色の髪に薄黄色の瞳を持つ姉妹神にクレームを入れたい気分である。特に運命の神フォルトゥーナに。“フォルトゥーナの糸”をベルンハルドとエルヴィラにきつく結んでいてくれたら、前回の悲劇は起きなかった。
今更フォルトゥーナに文句を抱いても仕方ない。
体を大きく伸ばしたファウスティーナは、今晩の夕食が何か楽しみである。
屋敷の門の前で馬車が停まった。ファウスティーナが馬車から降りるとリンスーと他数人の侍女が頭を垂れていた。
「お帰りなさいませお嬢様」
「ただいま。夕食までまだ時間があるから、先に湯浴みの準備をお願い出来る?」
「はい」
熱いお風呂に入り1日の疲れを癒す。年寄りっぽいが入浴はファウスティーナの癒しでもある。リンスーと共に屋敷に戻り、部屋に入って着替えの用意をしていく。
「今日ね、ネージュ殿下にお会いしたの」
「第2王子殿下にですか?」
「うん。王妃様に外を歩きたいってお願いしてる所をお会いしたの。王妃様、ずっと心配げな顔をされていたけど、最後は殿下に折れて護衛を付けて許していたわ」
「第2王子殿下は生まれつきお体が弱いと聞いております。王妃殿下は心配だったのでしょう」
「きっとそうだろうね。制限なく自分の足で歩き回れるのって、すごく有難い事なんだって殿下を見ていたら、強く思わされたよ」
家族や使用人達からでさえ、滅多に風邪を引かない頑丈娘と知られているファウスティーナは、健康の有り難みを知った。
リンスーに衣服の準備をしてもらうと浴室へと移動した。
――数十分後。
さっぱりとした顔で浴室から部屋に戻ったファウスティーナ。乾かしてもらった髪を後ろで緩く縛った。机に向かって見つめるのは【ファウスティーナのあれこれ】と表紙にデカデカと書かれたノート。頑張って思い出しているが今度のお茶会の記憶が思い出せないのだ。ノートを広げて羽根ペンを持って準備を整えても、一欠片も該当する記憶がない。
「全部覚えてる訳じゃないって事かしら。だとしたら、これからも私が忘れてしまった出来事が起こる可能性は大ね」
記憶の抜けがある原因にファウスティーナは考えてみた。
「私が最後に覚えてるのは、自分がしでかした過ちに後悔して、迷惑を掛けてしまった人達に懺悔して、そこからは安いベッドで寝た」
その先が分からない。眠って、知らない内に死んだ。この結論しか行き着かない。
「私以外に前の記憶を持っている人はいないかな……って、いないよね」
ファウスティーナでさえ、何故前の自分の記憶を思い出せたのか知らないのだから。
夕食の準備が出来たら呼びに来るとリンスーは言っていた。夕食にシトリンはいない。急な用事で昼から従者と共に出掛けると朝言っていた。
壁に掛けられている時計を確認し、時間があるのを知るとファウスティーナは机から離れ、ノートをベッドの下に隠した。他人に見つかりたくない物を隠す時、ベッドの下は有効である。
「ふわあ……」
入浴も終えて緊張が解れたのだろう、眠気が一気に押し寄せた。
「寝たら夕食がなくなる、でも……眠い……」
ちょっとだけ寝たい。きっとリンスーが起こしてくれる。
ベッドに横になったファウスティーナは少しだけだからと掛け布団も被らずに寝てしまった。
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