精神薬は無駄だった
蝋燭の火が夜の室内を照らす唯一の光。小さく揺らめく炎を頬杖をついて眺めるネージュは、目線だけを下へ動かした。机に置いた紙にはびっしりと文字が書かれている。今を入れて4度目の人生。これまでの人生で今後起きる出来事を全て書いた。エルヴィラが14歳で田舎の領地送りになり、勉強漬けの毎日を送るのは今回もあった。
一旦彼女は戻る。王国の貴族は絶対の行事が数ヶ月後あるからだ。王太子の16歳の誕生日を祝うパーティー。一定の年齢に達していないか、体が出席可能な状態である限りは基本参加しないとならない。エルヴィラの場合は勉強に身を入れさせる為とファウスティーナの邪魔をしない為。いるだけで、否、存在そのものが邪魔なのだがネージュにとっては邪魔じゃない。いなくてはならない人間だ。
ベルンハルドとエルヴィラ。運命によって結ばれた“運命の恋人たち”。……正しくは、魅力と愛の女神リンナモラートの力によって無理矢理結ばれた“運命の恋人たち”である。ベルンハルドの運命の糸は常にファウスティーナに向けられ、エルヴィラの運命の糸は常にベルンハルドに向けらている。
ならファウスティーナの運命の糸は誰に向けられているか? ──正解はベルンハルド。
だが絶対に2人は結ばれない。
「……結ばせてなんか、やらないよ」
ずっと傷付けてきたくせに。
ずっと嫌がっていたくせに。
いざ、手元から離れると親に玩具を取り上げられた子供みたいにジタバタして嫌がって、みっともなく縋りついて離そうとしない。ベルンハルドの、兄の執着は恋心からじゃない。ただの子供の癇癪と同じ。
でもネージュは兄を嫌いじゃない。逆、好きなのだ。これだけは、覆らない。
この間の王宮舞踏会で、2人の邪魔をしたのもネージュの意思。
最近のベルンハルドは虚ろな目をしている。なんでもないように振る舞っても、誰もいなくなったり、ふとした時に瑠璃色の瞳から光を消す。大方ファウスティーナに、運命によって結ばれているエルヴィラを認めろと言われたんだろう。
フォルトゥナの運命からは誰も逃れられない。唯一、逃れる術があるとしたらフワーリン公爵が持つ力のみ。彼の家は女神の生まれ変わりが生まれるヴィトケンシュタイン家と同等に特殊な家柄だ。現当主はクラウドとルイーザの父親なのだが、公爵という地位は前当主のまま。なので、フワーリン公爵はネージュにとって祖父になる。
“イル・ジュディーツィオ“
持って生まれた者に与えられる、審判者の名。代々、ふわふわとした者に多く受け継がれる。祖父もクラウドもふわふわしているのもそのせいなのだろう。当主は生真面目な性質でがちがちである。
「リンナモラートが選んだ“運命の恋人たち”であろうとイル・ジュディーツィオの決定であるなら、結果は覆る」
あくまでも仮定の話。実際、3度までの人生でクラウドはベルンハルドとエルヴィラの“運命の恋人たち”を否としなかった。彼は読めない微笑みを浮かべたまま、ただ静観していただけ。婚約者がいるのに他の女に現を抜かすフリをするベルンハルドにも、姉の婚約者に馴れ馴れしく接するエルヴィラにも。……彼は1度たりとも苦言も注意も何もしなかった。ただ、微笑みを浮かべているだけだった。
「さて、と」
ネージュは湧き上がる欠伸を噛み殺すと一旦姿勢を崩した。思い切り腕を伸ばした。再び同じ姿勢になって炎を眺めた。
「今度こそ、あの出来損ないを王太子妃にしなくちゃ。やっぱり、その為には兄上の頑丈な気持ちをどうにかしなくちゃね」
当てはある。既に依頼済みだ。始めはかなり驚かれたがベルンハルドが体面の為にファウスティーナを必要し、本心では可愛くて守ってあげたくなるエルヴィラを王太子妃にしたがっていると伝えれば、相手は愉快そうに嗤って手を貸してくれた。
引き出しから小瓶を取り出した。
橙色の光に映る透明な液体。
更に薬包紙を出した。
「どうして今までこうしなかったんだろう」
小瓶の中身は精神に影響を及ぼす薬。薬包紙は薬の効果を高める薬。この2つを使ってベルンハルドの精神状態を不安定にさせ、協力者がベルンハルドに暗示をかけることでエルヴィラが好きだと思い込ませる。一種の洗脳だ。暗示方法までは教えてくれなかったが何故と問われた。
綺麗な、兄を心配する病弱な第2王子の面で答えても協力者から愉快な色は消えなかった。
薬を引き出しに仕舞ったネージュは火消しをし、寝室に移動した。大きな寝台に転がって目を閉じた。
エルヴィラを王太子妃にした時、絶対の絶対に仕事は無理だ。外交はベルンハルドとセットにさせたらいい。側妃には誰がいいか……。などと考えながらも、答えは既にある。
ジュリエッタ=フリージアかアエリア=ラリスのどちらか。
ファウスティーナを敵視するこの2人でも十分王太子妃は務まる。
ジュリエッタが敵視するのは、単に叔父のメルディアスが特別気にかけるファウスティーナが気に入らないだけ。
アエリアの場合は……ラリス家の令嬢だから、かと思っていたがそうではない気がする。
「まあいいや。どうせ、何を考えてもぼくの思惑通りに事は運ぶんだ」
──待っててね、兄上。今までの3回と違って、今度こそあの空っぽとちゃんと最後まで結ばせてあげるから……
翌朝──
協力者、というより協力者と同じ人物を崇拝する人は王族の料理担当を担っている。協力者が渡した薬を元気がない王太子の栄養になるからと偽って渡したら、疑わず使ってくれた。王太子の料理にだけ。渡した方法も知らない。協力者について知っていることは、ない。知らないのが常だ。普段と変わらず食事を摂ったベルンハルドに別段変わった様子はなく。
朝食を終えると学院へ行き、終わると戻った。夕食も変わりなく。
何日経っても変化がないので協力者へ内密に手紙を送った。
やってきた返事にネージュは脱力した。
「はあ……しょうがない、次の手を考えよう」
並大抵じゃないベルンハルドのファウスティーナに対する執着。継続して飲ませても薬じゃ浸食されてくれない。苦笑が浮かぶ。ベルンハルドの好意は本物だ。本物であっても誰も信じない。信じられるのはエルヴィラに好意を抱いているという偽りの気持ちだけ。
「ねえケイン……お願いだから、エルヴィラ嬢を殺さないでよ? なんだかんだ身内に甘い君だけど、いざとなったら本当に排除しかねないもん」
──更に月日は経ち。秋に差し掛かった頃。春に領地に送られ、勉強漬けの日々を送っていたエルヴィラが一旦王都の本邸に戻された。真っ先に迎え出たリュドミーラは、最後に見た時より明らかに窶れ表情が暗いエルヴィラを目にした瞬間、瞳に涙を潤わせた。
母と娘が抱き合う光景の場に身内はいない。
シトリンは公爵としての仕事に出掛けて朝から不在。本来なら、一緒に出迎える筈だったが貴族としての責務全うを優先した。
ケインはどうせそうなると見越してファウスティーナに会いにフリューリング邸へ行った。




