空白の言葉
日差しが強く、肌に触れる風が熱くなる夏。学院の裏庭で本を開いたファウスティーナはたらりと額から流れた汗をハンカチで拭った。日向より日陰はまだマシで、吹く風も冷たい。
入学から数ヶ月が経過した。王宮舞踏会の翌日、妹エルヴィラを泣かせ母リュドミーラの怒りを買って平手打ちを3度食らい、様子を見に来たシエルにフリューリング邸へ連れて行かれてからは静かな日々を過ごしていた。
父は王国にある修道院や孤児院への定期確認から戻っている。話は父が戻ってからケインがしており、今回ばかりはファウスティーナも言い方に問題があった為多少注意はされた。しかし、エルヴィラの教育問題が深刻なのは事実。家族皆Aクラスになって、1人Cクラスになれば肩身の狭い思いをするのはエルヴィラだ。これ以上は容認出来ないとさすがの父も心を鬼にし、エルヴィラを田舎の領地へ勉強をさせるべく送った。リュドミーラは王都に残したと聞く。甘やかす存在がいれば、絶対エルヴィラは甘えるからと。屋敷内でエルヴィラを甘やかさない侍女と執事、使用人をつけた。
ファウスティーナは好きな時に戻りなさいというお言葉に甘え、もう暫くはフリューリング邸で過ごすことにした。
突然の滞在にフリューリング邸の人達は不満どころか、喜んで世話を買って出てくれた。主な世話はリンスーがしてくれている。シエルが言った通り、後からリンスーがこっちに来れるよう手配してくれた。
学院へは、毎日ケインが公爵家の馬車に乗って迎えに来てくれる。訳を話した時は、まず3度叩かれた頬の心配をされた。1日で腫れは引いたのでバレる心配はなかったし、今回は自分にも非があると認めている。ああまで言っても結局変わらない母と妹に2人共が諦めている。
だから、今回父が苦渋の決断とはいえ、エルヴィラを勉強の為に領地へ送ったのは意外だった。絶対に母の抵抗があっただろうに。
ベルンハルドからの接触も無くなった。ただ、じっと、昏い瑠璃色の瞳で見られるだけ。彼自身、代々王族が取り仕切る生徒会の引き継ぎを終えてから忙しくなっているので教室でしか会わない。ファウスティーナの事情をケインから聞いているのか、定期的な贈り物がフリューリング邸に届く。それを公爵家へ流した。
中身は見ていない。
当たり障りのない返事を書いて、送るだけ。
何れ、贈り物もエルヴィラの物になる。
「これでいいのよ……」
ベルンハルドが事情を知っているのなら、経緯だって知っている筈。ケインはその辺り、包み隠さず話す。ファウスティーナがエルヴィラに何を言ったか、リュドミーラに平手打ちを3度されたことも全部。
何も言ってこないのは、こう考えている。
やり直しを希望すると口にした手前、表立ってファウスティーナを非難出来ないのだ。してしまえば、すぐに話が国王夫妻にいき婚約者を変更させられる。ファウスティーナとしては是非変更してほしいが、王太子妃の役目を果たせないエルヴィラでは誰に聞いても反対されるのが丸分かりなせいで手を出せない。
今の希望は、領地から戻ったエルヴィラが生まれ変わった姿を見せてくれること。
「そうなったら、今度こそ殿下だって……」
ぽつりと零し、読書をしようと視線を下にやった。
――夕刻。すっかりと読書に耽ってしまった。涼しい場所にいても季節は夏。水分補給もせずに本に夢中になってしまっていたせいで立つと軽い目眩を起こした。立っていられず、治まるまでと座った。歪みが消えるとゆっくりと立ち上がって移動を始めた。
何処かで水分を口にしたい。食堂に寄ろうと思うも、裏庭からだと階段を上って先に教室に行き荷物を取りに行った方が早い。
なんとか教室まで着いたファウスティーナだが、気分の悪さが加速してその場に座り込んでしまう。
自分の机までもう少しなのに。
「……ファウスティーナ?」
視界が暗くなっていく。届いた声は知っている。遅くまで残っているのはきっと生徒会の仕事が立て込んでいるからだろう。強い足音がすぐ近くまで迫った。
「どうした!? 顔が真っ青だぞっ」
「……い…………なんで、も、ありません」
「なんでもないわけあるかっ。一体何をしたらっ――……いや、今は医務室へ」
彼――ベルンハルドに顔を向けると表情が強張った。言われた通り、とても酷い顔をしているから。背中に手を回された時「……みず」と掠れた声を絞り出した。
「水?」
「……ずっと……外にいて、水分を、とるのを忘れてしまってっ」
「すぐに持ってくる! 此処にいろ!」
そう言うと飛び出して行った。
触られたのが嫌だったんじゃない。
きっと、抱き上げて医務室へ運ぼうとしてくれた。ただ、今抱き上げられたら視界がグルンと回り、余計気分が悪くなって……最悪嘔吐していた場合もある。
水が欲しいと言うのは想像以上に力がいる行動だったろうか。
だが、お陰でベルンハルドが大急ぎで食堂から持って来た水のお陰で身体が癒されていく。
レモンが絞られた水を飲んで椅子に座らされ、暫く動かなかった。
不思議な気分となる。
これが4年前までなら、きっとベルンハルドは下の者に頼み自分は手を貸そうとはしなかっただろう。今だから助けた、又はベルンハルド以外に誰も助けられる人がいなかったから。……こっちの方が有り得る。
「……さっきより、顔色がマシになった」
「……ご迷惑をお掛けしました」
「いや……。今度からは、図書室で読むか、外で読むなら水筒を持つといい」
「そう、します……」
ぎこちない空気と会話。
幾らでも機会はある。ファウスティーナが意識を向ければ、何時だって会話は出来る。
気まずさで俯いたままだったのを遠慮がちに顔を上げてみた。何度も優しく視界に入れてほしいと願った瑠璃色の瞳は、悲しげに……心配げに自分を入れていた。
目が合っても何を話せばいいか、言葉が見つからなかった。
でも、逸らせない。
彼の、瑠璃色から。
無数の言葉の中から最適解を手当たり次第探っていると。
「フリューリング侯爵家での生活はどうだ……?」
ケインから話をやはり聞いているベルンハルドが今の環境について問うてきた。母とエルヴィラがいないので教会生活と変わらず快適だ。また、リオニーや使用人達がとても良くしてくれると話した。
「そうか……。……母上に聞いたんだが……フリューリング女侯爵には、亡くなった妹君がいたのだな」
リオニーの妹……アーヴァ=フリューリングのこと。
「ファウスティーナは知っているか……?」
「いえ……リオニー様の妹様、としか。でも、小動物や花が好きだったと」
「聞いた。他には、人見知りで常に侯爵の後ろに隠れる気の弱い人だったとも。それと叔父上と仲が良かったとも」
初耳だった。シエルがアーヴァと面識あるのは知っていたが仲の良さまでは知らなかった。
「あのフリューリング女侯爵の妹君とは、どんな人だったのだろうな」
「リオニー様と同じ、赤い髪に青い瞳の人らしいです」
「らしい? 侯爵邸に肖像画はないのか?」
「フリューリング家に厳重に保管されています。1度、見たいと頼んだら断られました」
容姿が酷いとも聞かない、彼女自身の悪い話もない。ファウスティーナは何度かリオニーに頼んだが頑なに断られた。
ただ、ファウスティーナによく似ているとだけ言われた。
隠されると気になるな、と笑うベルンハルドに釣られファウスティーナも微笑んだ。
……ハッとなったベルンハルド。ファウスティーナも浮かべた笑顔を消した。
気を許さない、彼はエルヴィラと結ばれてこそ幸福になる、そうならないといけないと自分に言い聞かせたのに。心の蓋を開けないと固く閉めたのに。気が緩んで会話をしてしまった。夢心地に浸った後の現実は酷く哀れで絶望の手が伸びてくる。
再び俯くと「……ファウスティーナ……」打って変わって、弱々しい声で呼ばれた。
「……もう1度、考え直してくれないか」
「……」
「……どうしても、もう、無理なのか?」
「無理……ですわ……」
息を呑む音がした。痛い、心が痛くて瞳に涙が覆っていく。
「殿下だって4年前の建国祭で見たでしょう。殿下とエルヴィラは運命によって結ばれているのです」
「それは元からか? それとも、ファウスティーナが結んだのか?」
「私に人間の運命の糸を結ぶ力はありません。……ただ、こう祈っただけです」
ベルンハルドが心の底からエルヴィラと結ばれますようにと……フォルトゥナに願い、受け入れられた。
ただ、それだけ。
「……なん、だ……それは……っ」
愕然とした相好で立ち尽くす彼の瞳が虚ろに染まっていく。俯いたままのファウスティーナは気付かない。
「ファウスティーナ……」
ファウスティーナは非常にゆっくり、ゆっくり、顔を上げた。
「 」
虚ろな瑠璃色の最奥に潜むゆらりとした黒い影。更に無機質な声が告げた内容にファウスティーナは暫し言葉を失った。
エルヴィラは今頃勉強漬けになって大泣きしています(誰も相手にしませんが……)
 




