3度の平手打ち
王宮舞踏会は、大きな問題もなく無事終わった。テラスから休憩室に入ったファウスティーナは溢れる涙を止めるので必死だった。
ガラスの割れる音が響かなかったら、今頃夢の世界に浸っていた……現実に戻れば、惨めになるのは自分なのに。
ケインに一声かけて向かったので後でちゃんと迎えに来てくれた。
シエルやヴェレッドに別れの挨拶を述べられなかったが、不安定なファウスティーナの心情を察したケインに早めに屋敷へ帰された。ケインはまだいると言って残った。心なしか、冷たい怒気を纏っていた。
何かあったのではないかと不安に思うも、今回はケインの優しさに甘え屋敷に帰った。
屋敷に着くと予想よりも早く帰ってきたファウスティーナに出迎えたリンスーやジュードは驚いていたものの、深くは聞かれず、すぐに湯浴みの準備をしてくれた。
身体を癒やし、精神的疲労が大きいファウスティーナはベッドに横になると即眠ってしまった。
不意に目を覚ました頃には、明かりが消されきちんとベッドに寝かされていた。
「起きた?」
「!」
毎回声を出さないのを本気で褒めてほしい。淡い橙色が小さく広がった。小さなランタンを持つヴェレッドが「やっほー、お嬢様」と眠そうに欠伸をした。釣られてファウスティーナも小さく欠伸をする。
「疲れてたの?」
「みたいです……、ヴェレッド様は?」
「俺も今日は疲れた。シエル様ってば、終始ご機嫌だったせいで」
機嫌が悪いより、良い方が誰も気遣わず疲れないのでは? と口にしたら、普通とは違うのあの人はと、面倒臭げに吐かれた。
「今日は長居する気ないから、もう寝なよ」
「はい……」
ファウスティーナも今日は疲れが酷く、まだまだ眠い。身体を後ろに押され、瞼を手で覆われた。甘い香りが鼻腔を擽り、意識は瞬く間に落ちていった。
翌朝目を覚ますと、びっくりするくらい目がさっぱりとしていた。自分でも不思議だと眩しい朝日を見つめた。少ししてからリンスーがファウスティーナを起こしに来た。最近は早く目覚める日が多いので起きていても驚かれない。
「おはようございますお嬢様。ご気分はどうですか?」
「おはようリンスー。もう大丈夫だよ」
「良かった。本日は学院はお休みですよね。如何お過ごしになりますか?」
「そういえばそうだったね……何も考えてなかった」
王宮舞踏会翌日の今日は学院が休み。すっかりと忘れていた。舞踏会の前にシエラとお茶をした際、王妃教育は1月後に再開すると告げられた。半年受け、ファウスティーナが王妃の合格を貰えれば王妃教育は完了となる。シエラと会える嬉しさと申し訳なさが生じる。ベルンハルドとの婚約継続は、もうファウスティーナの中では不可能となっている。けれど、正当な理由がない限り2人の婚約は解消されない。ベルンハルドとエルヴィラが“運命の恋人たち”となれば、幸福の象徴である2人を引き裂く真似はせず、ファウスティーナからエルヴィラに婚約者の座は替わる。
昨夜の夢の思いを心の奥底に仕舞い、今日は部屋で過ごすとリンスーに伝えた。
朝の支度を終え、食堂に行って朝食を済ませた。ケインの静かな怒気は1日経つと静まっていて、普段と同じ兄が隣にいた。
1つ違うのは、エルヴィラがいない。
リュドミーラの消沈した面持ちを見る辺り、昨日舞踏会に行くファウスティーナの時間を取らせまいとエルヴィラを部屋に押し留めていた反動が今起きている。
気にしないでおこうと何も触れず、黙々と食事を続けた。ケインはこの後、クラウドと会う約束をしているからと食事を終えると早々に退室した。
部屋に戻ってすぐ扉がノックされた。リンスーに確認してもらうと押し退ける相手が入ってきた。
食事の場にいなかったエルヴィラだ。トリシャが慌ててついてくるのを見ると、止めても通用せず追って来たのだと思える。
エルヴィラの紅玉色の瞳に嫉視され、心当たりがあり過ぎて見当がつかない。
だが、家族と言えどマナーは大事。エルヴィラが口を開いた直後、ファウスティーナは先制した。
「エルヴィラ。例え身内相手でも、マナーは守りなさい」
「昨日はお姉様のせいで散々な夜だったのですよ!?」
あれは誰だろうと止める。彼女を甘やかしてばかりの母もさすがにマズイと本気で思い、止めたのだ。
「今までの自分の行いが返って来ただけでしょう。私に擦り付けないで」
「自分は綺麗なドレスを着てベルンハルド様に迎えに来てもらった挙句、エスコートやファーストダンスもしてもらったくせに……!」
どうやら、誰もエルヴィラに昨夜ベルンハルドの迎えがないのを教えてないようだ。
事実は、迎えもエスコートもファーストダンスもしていない。
エルヴィラに言う必要はない。
ここは話を合わせた。
「それが? 婚約者として、当たり前の権利よ」
「ずっとベルンハルド様に嫌われていたくせに、どうして今になって婚約者みたいな扱いを受けるのですかっ!」
「あなたの言う通り、婚約者だからよ。殿下も目が覚めたのよ。あなたみたいに、見た目と泣く以外取り柄のない令嬢に優しくしても無駄だと」
「っ〜!」
抑えろ、抑えろと自分でいい聞かせてもあんまりな言い分に我慢ならなかった。
ずっと嫌われていた? ――誰のせいで嫌われたと思ってる。
最初は間違えてしまったファウスティーナが悪いが、何度泣かされようが暴言を吐かれようが毎回何食わぬ顔で現れたエルヴィラも悪い。
「お嬢様……」とリンスーが落ち着かせようと声を掛けてくる。心配しないでと微笑んだ。
言い方のキツさは健在だったみたいで、見る見る内に涙を瞳に溜めて身体を震わせる。泣き叫び出すのももうすぐ。エルヴィラが泣き叫んだら、何故か距離を縮めてこようとするリュドミーラもすぐファウスティーナを叱るだろう。反論し、反省しなければ昔みたいに頬を打ってくる。
ふと『愛に狂った王太子』を思い出す。主人公の姉が悪役らしい行いをしたのは最後。殆どは、暴言を吐くか水をかけるだけだった。暴力は一切振るわず、嫌がらせ等もしていなかったと記憶している。
しかし、言葉の暴力がどれ程の力を持つかを身を以て体験したファウスティーナはこう抱く。
(殿下がエルヴィラを認めるには、結局教会で生活する前と同じでエルヴィラに怒鳴らないといけないのよ)
ならば、もう自分に残された手段は悪役の姉と同じことをするだけ。最後の暴挙だけは絶対にしない。
「言い返してみなさいよ。でも無理よね。馬鹿の1つ覚えみたいに、ベルンハルド様ベルンハルド様しか言えない能無しのあなたじゃ」
「お嬢様、それはいくら何でもっ」
言い過ぎなのは分かってる。これ以上言えば、どうなるかも。
リンスーやトリシャがそうならないようにファウスティーナを止めてくるがベルンハルドの為にはこれしかない。
「う……ううぅ……!!」
大粒の涙を流し、悔しげに唇を噛み締めるエルヴィラ。
無感情に、目の前の相手はどうでもいい人と言い聞かせ続けた。
「ほら。結局、泣くだけしか出来ないじゃない。家庭教師の先生との勉強も嫌がって、逃げて、そのせいで教会の司祭様が王弟殿下と知らないと真顔で言う羽目になるのよ。いい加減、あなたみたいな低脳で見た目とお涙頂戴の取り柄しかない女が殿下に近付くのは私も我慢の限界よ」
もう一声、与えた。
「……本当、どうしてこんな無能が私とお兄様の妹なのよ」
全部、悪役の姉が言っていた台詞を借りた。これからは他の婚約破棄物の本を読み、悪役の台詞を増やさないといけない。
態とらしい溜め息を吐いた瞬間――
「う…………うわあああああああああああああああああああああーんっ!!!!」
今まで聞いた泣き声で最も大きい。思わず耳を塞ぎたくなる程。
顔を青く染めるリンスーとトリシャが泣き叫ぶエルヴィラを止めようとするが……やはり、1番早く現場に駆け付けたのは考えなくても分かる人。
「エルヴィラ!? どうしたの!」
尋常じゃない泣き声を上げるエルヴィラを心配し、泣きながらエルヴィラが指差した方にファウスティーナがいると知り、リュドミーラの瞳が険しくなった。
今回の件はファウスティーナが悪いので仕方ないが、この人もやっぱり変わらない。理由を聞かず、愛娘が悪と決め付けた相手は絶対に悪だと信じる。迫力ある声で問われ、ありのままの事実を告げた。段々と顔を怒気に染めたリュドミーラは、軈てファウスティーナが話し終えると大股で近付き。
――振り上げた手で力一杯ファウスティーナの真っ白な頬を叩いた。衝撃のせいで身体がよろめくも尻餅はつかなかった。
「何故そんなことを言うの!? エルヴィラはあなたの妹なのよ!?」
「だから何ですか? 勉強も出来ない、振る舞いもなってない、誰の言うことも聞かない、そんな妹逆に要りませんわ」
「お黙りなさいっ!!」
同じ頬を2度叩かれた。赤みが増す。リンスーとトリシャが怒りが収まらないリュドミーラとファウスティーナの間に入った。
「お待ちください奥様!」
「いくら何でも、それ以上の暴力は……!」
「暴力じゃないわ! これは躾よ!」
「トリシャ! わたしの侍女なのに、何でお姉様の味方をするのよ!」
専属侍女のトリシャがファウスティーナ側に立つのが気に食わないとばかりにエルヴィラが吠える。さっきまでの泣きはどこかへいった。
リンスーとトリシャに無駄な仕事をさせて申し訳ないと抱きながらも、抑えてくれる方が話しやすいファウスティーナは続けた。
徹底的に感情を捨てた瞳で似た者母娘を視界に入れて……。
「お母様。聞きますが今のエルヴィラの学力では、Bクラス、Cクラスさえ難しいのですよ。お父様もお母様もお兄様も私もAクラスなのに、1人Cクラスになればどんな目に遭うか少しは考えないのですか?」
「今はクラス分けの話は関係ないでしょう! 話をすり替えないで! 司祭様や神官様達に甘やかされて図に乗るんじゃありません! 数年後には、王太子殿下と結婚式を挙げて王太子妃となる娘が妹を虐めるなんて噂が広がったらどうするの!!」
十分に関係のある話だった。周囲に恵まれ、生活環境に恵まれ、幾らでも知識を吸収し、学を学ぶ機会に恵まれた公爵令嬢が普通ですら危ういと家の体面にも影響する。公爵夫人でありながら、何故目の前の母はそんなことも考えないのか。エルヴィラ絡みになると知性と理性を遠くへ置いて来ている気がする。ファウスティーナが反省し、エルヴィラに謝罪すれば母の怒りも収まるのだろうが……ベルンハルドの幸福の為に、エルヴィラにはとことんファウスティーナに虐められる妹になってもらう。
じんじんと痛む頬に手を当てて、煽るように息を吐いた。
「はあ……。私も、馬鹿でも泣くだけで何でも許されるエルヴィラになりたいわ」
「っ、ファウスティーナー!!」
リンスーとトリシャを押し退けファウスティーナに近付いたリュドミーラが3度目の平手打ちを食らわした。しかも同じ頬。痛みと熱を加えられ、片方の頬だけが別の存在に感じる。
息を荒げるリュドミーラへ……心底、軽蔑の瞳を向けてやれば、赤く染めていた顔が一気に青くなっていった。
今更頭が冷えてきたのかと言いたくなる。
結局、母が自分を屋敷に戻したかった理由がエルヴィラにベルンハルドと会わせる為に思える。口では止めておきながら、内心ではエルヴィラのことしか何も考えていない。それがエルヴィラの為になるかは別として。
「ファ……ファウ……」
先程までの大声も怒りもすっかりと萎み、青ざめた顔で何かを言おうとするのを遮るように……第3者の声が発せられた。
本来なら、此所にいる筈がない人。
「――へえ……? 随分なことをしているね」
明らかに温度のない声が室内を冷気へと変えていく。大袈裟な程肩を跳ねさせたリュドミーラと同時にファウスティーナも声の主へ視線をやった。
翳りが濃い美貌が冷徹な蒼でリュドミーラとエルヴィラを見、痛々しく片方の頬を赤く染めるファウスティーナを見ると表情を変え部屋に入った。
「あ……あっ……」震えるリュドミーラは退けられ、駆け寄ってきた相手シエルに抱き締められた。
リュドミーラは無遠慮に退かされたので床に倒れてしまった。
「お母様っ!」とエルヴィラの声がしたが気にする余裕がない。
教会に帰っている筈のシエルがいるのは何故、と混乱しているとのんびりとした美女の声が届いた。
「あらあらぁ〜。やっぱり、こうなってしまいましたね〜」
妖艶な雰囲気を醸し出す、神官服を着た美女が登場。後ろには狼狽えるジュード、それに何事かと駆け付けたであろうカイン達がいる。
「私が教会に戻る前にファウスティーナ様に一目会いたいってお願いを司祭様が叶えて下さって良かったですわ」
「陛下に無理矢理城に泊められた時は最悪だったんだが……今は更に最悪だ。戻すべきじゃなかった。……分かっていたのに」
シエルやメルセスがいる理由は分かった。だが、どうして部屋に来たのか。ジュードが説明役を買って出てくれた。
「執事様に司祭様達が来ていると言われて迎えに出たんです。その後、お嬢様のいる部屋に案内している途中奥様の怒鳴り声が聞こえて……」
現場に駆け付けたら、この有様だった。
「お母様が怒るのは当然です! 全部、お姉様が悪いのですから!」
エルヴィラは自信満々にファウスティーナが怒られ、頬を打たれたのは当然だと経緯を説明した。
ファウスティーナは皆の表情の変化にギョッとした。ジュードはドン引きし、メルセスは頬を一杯に膨らませて笑いを堪えプルプル震え、……シエルはあの優しい微笑はどこへ……塵を、否、汚物を見下す目でリュドミーラとエルヴィラを視界に入れていた。
エルヴィラは思っていた反応と違って戸惑う。
「え……な、どう、して誰もお姉様を責めないのですかっ」
馬鹿にされ、傷付けられ、泣いたのは自分なのに。リュドミーラだってファウスティーナを悪と決めて叱った挙句何度も頬を叩いたのだ。なら、他の人だってファウスティーナを叱ってくれる。そう信じていたエルヴィラは、寧ろ自身が責められるような雰囲気に思考が追い付かないでいた。
「あの……それって、ファウスティーナお嬢様は言い方の問題があっただけで言っていることは全部正論ですよね?」
遠慮がちに発言をしたジュード。
「ぷっ!」と遂に吹き出したメルセスは盛大に笑いを上げた。美女が腹を抱えて大笑いする、滅多に見られない光景を見られて運が良いと思ってもいいのだろうか。
笑い終えたメルセスの紫水晶の瞳は涙が浮かんでおり、瞬きをしたら雫が零れた。笑い過ぎて涙が出てしまっている。
「はあ〜。ふふ、こんなに笑ったのは初めてですわ。そうだ、妹君は劇団に入られては如何です? きっと、稀代の喜劇女優になれますわよ!」
「何ですって!? 公爵令嬢のわたしに向かってなんてっ」
「では、お訊ねしますわ。公爵令嬢という肩書き以外、妹君には何がありますの?」
「……え」
逆に問われ、エルヴィラは固まった。予想もしなかった返し。言葉さえ紡げないエルヴィラを用無しと判断した。シエルに抱き締められていたファウスティーナは強く肩を抱かれ、歩き出したシエルに連れられ部屋を出た。早足で外に出ると「お嬢様!」とリンスーが追い掛けて来ていた。手には、タオルが握られていた。
「これを頬に当てて冷やしてくださいっ」
「あ、ありがとうリンスー」
痛む頬にタオルを当てた。冷やされたタオルの気持ち良さが熱と痛みを未だ抱える頬を癒してくれる。沈痛な面持ちでお嬢様と呼ぶリンスーへ困ったように微笑んだ。
「ごめんね。迷惑かけて」
「いいえっ、寧ろ、奥様がおかしいのです。お嬢様の言い方がきつかったにせよ、言っていたことは全部事実なのに」
「トリシャは?」
「お嬢様の味方をしたから、暫くエルヴィラお嬢様からの当たりがきつくなるからと、カインが専属から外すそうです。その代わり、多忙になっているリュンの手伝いをすることに」
「そう……」
「ファウスティーナ様」
2人の会話がひと段落終えるとシエルが入った。
「公爵が戻るまでフリューリング邸にいなさい。リオニーは今屋敷にはいないが、もしもの時があるからと何時でも君を迎え入れる準備はしてある。心配なら、後で君の侍女が行くよう私が手配しよう」
「はい……」
午後になる直前に屋敷へ戻ったケインは事情を聞き、心底呆れ果てたのは言うまでもない。シトリンが戻るまで、リュドミーラとエルヴィラに会いたくないケインは自分から別邸に移動したのだった。




