おまじない
「へえ。王太子様、途中で帰ったんだ」
真夜中。昨日と同じく、人の部屋に不法侵入したヴェレッドに驚きの声を上げず耐えたファウスティーナは、学院での出来事を話した。ヴェレッドなら素直に話せるのは不思議だが、この人はシエルと同じでベルンハルドにされた仕打ちを知っているから何でも打ち明けられるのだと納得した。
昼休憩の際、庭でベルンハルドと一悶着を起こし教室へと戻ったが彼が戻ることはなかった。聞くところによると顔色が悪いまま歩いていたのをメルディアスが見つけ、状態確認をした後保健室に連れて行き王城に遣いを出して帰らせたのだ。
人は何時体調を崩すか分からないから、皆も十分気を付けるようにね。と語ったのはメルディアス。帰る前に注意された。
原因は自分しか思い当たらない。
屋敷に戻っても誰にも言えない。遅く帰ったケインにでさえ。王宮舞踏会でエスコートとダンスをお願いするつもりでいたのに。
「お嬢様は坊ちゃんにエスコートとダンスをお願いするんでしょう?」
「うん……」
「ドレスはどうするの? 王太子様が贈ったドレス以外に着て行くのはあるの?」
「それなんだけど、司祭様が贈ってくれていたの」
「へえ」
そう。
ベルンハルドにドレスは着ない宣言をした手前、絶対に他のドレスで参加しないといけなくなったのだが。肝心のドレスが無かった。勢いで放ってしまった言葉は2度と戻らない。
けれど、ファウスティーナの心情と行動を先読みしていたかのようなシエルの贈り物があった。
デビュタント祝いの、青銀の生地で作られたAラインのドレス。裾回りに描かれた青薔薇の刺繍が非常に繊細で特に腰に結ぶリボンにも同じ刺繍があって、色もファウスティーナの好きな青。青のアザレアを模した髪飾りも派手過ぎず、丁度いい大きさ。
全部ファウスティーナに似合うよう作られた。適当に誰かに見繕って作られたであろうベルンハルドの贈り物とは大違い。
シエルからのドレスを喜ぶファウスティーナを薔薇色の瞳は仄暗い色を携えて見つめた。
王城にはシエルを崇拝している者がいる。公爵家も然り。
彼等は定期的に情報をシエルへと流している。
「ねえ、王太子様からのドレスは見ずに終わるの? 興味本位でもいいから、見ようよ。で、俺に教えて」
「殿下からのドレスは見ません。それに……」
「それに?」
「……来年のエルヴィラのデビュタントの時に、殿下からの贈り物だとサイズを直して渡せば無駄にはなりませんわ」
本来であれば不敬に値する行為もエルヴィラが着るなら無罪だろう。
もうベルンハルドも可愛げのないファウスティーナに愛想を尽かしてエルヴィラの方へ行ってくれる。
ベルンハルドとエルヴィラ。2人が結ばれてこそ幸福が訪れるのに、未だ心は痛い。ズキズキと痛みを訴える。手をギュッと握り締めたら「ねえ」とヴェレッドはある提案をした。
「おまじない、かけてあげようか?」
「おまじない?」
「そう。お嬢様はそのまま王太子様を好きでいたらいい。人の気持ちは簡単には変えられない。でも、心の痛みを抱えるのは辛い。だから……心が痛くならないおまじないを掛けてあげる」
不敵に笑いながらも、瞳にはファウスティーナを気遣う心配の色があった。
気休めにしかならないがヴェレッドの心配を減らしたい。
ファウスティーナはお願いしますと了承した。
「目を閉じて、ベッドに寝て」
言われるがままにした。
甘い香りが鼻腔を擽った。気になって目を開けようとするもそのままと告げられ、開けなかった。
「お嬢様は王太子様が好きでも、妹君と結ばれてこそ王太子様は幸せになると信じている。だから、余計な痛みは要らない」
「王太子様が側にいなくても、お嬢様を大事にする人はいる。公爵様や坊ちゃん、侍女。フリューリング女侯爵、シエル様、教会関係者。それに王妃様や第2王子様。ついでに俺も」
「痛みを感じる必要はないよ。王太子様には妹君しかいない。でもお嬢様にはシエル様がいる。気持ちを捨てなくてもいい。だけど痛みは何処かへ置いていきなよ」
嗅ぐだけで心が安堵する甘い香りとヴェレッドの誘惑的な声色。体の力を抜いて聞くだけでヴェレッドの言葉が全身に染みていく。
ベルンハルドを好きでいながらも他の女性と結ばれる未来を願っている。彼の幸福の為に。代償に負う心の痛みが消えれば、遠慮は要らないのにとぼんやりとは抱いていた。
ファウスティーナの罪悪感を丸ごと包んで遠い場所へ置いていく甘い香り、言葉。
「……そうしたら、お嬢様は思う存分王太子様の幸せの為に動ける」
ベルンハルドの為に……
「殿下の為……」
ベルンハルドの為。
ベルンハルドの幸福の為に必要なこと。
意識が心地好い世界へ落ちていく。
深い眠りに就く前……彼女は……
『私の王子様が……ルイスが……赤い糸から解放されるなら、私も手を貸すわ。彼を縛る糸が切れるなら、私はルイスを諦める』
大粒の涙を流しながらも、同じ薄黄色の瞳には覚悟を決めた強い意志が宿っていた。
−−翌朝、目を覚ますと気分が幾らかスッキリとしており、時間もリンスーが起こしに来るより早かった。2度寝したい気分でもないのでベッドから降りてスリッパを履いた。部屋の外に出ると手帳に記入しながら歩くカインが丁度通って行ったばかりだった。
呼び止めると不思議そうな声が返ってきた。
「どうされましたお嬢様。リンスーはまだ来ませんよ?」
「うん。早く起きちゃったから、本でも読もうかなと思って。温かい飲み物を持って来て」
「良いですよ。何にします?」
「うーん……砂糖無しのコーヒー!」
「お嬢様には無理ですよ。クリームを乗せたミルクコーヒーとチョコレートをお持ちしますのでちょっとだけ待っていてくださいね」
「はい……」
ちょっとは大人ぶって無糖コーヒーに挑戦してみたかったのに見事却下された。どうせ一口飲んで終わりだとしても、砂糖を沢山入れて飲むつもりだったのに。作ってくれたコーヒーを無駄にする気は更々なくても、苦い物が苦手なファウスティーナは信用されていない。
大人しく引き下がったファウスティーナは、カインが来るのを待つ間『愛に狂った王太子』を持ってベッドに腰掛けた。
悪女になるヒントはこの本に沢山書かれている。実物は見られないので本から知識を得るしかない。
「頑張らなくちゃ」
ベルンハルドの為に。
ベルンハルドが王国で最も幸福な人になる為に。
その為の最重要人物がエルヴィラなのが嫌でも、である。
夜中のヴェレッドのおまじないのおかげで昨日と比べると心の痛みが軽い。
もし今日も来るのなら、おまじないをお願いするのも手だ。
「ベルンハルド殿下……もう少しで、あなたを解放しますから、待っていてください」
解放されれば、あなたは幸せになれますから……。
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