深淵を覗くとそこにあるのは
どんなにやり直しを希望されても、エルヴィラを王太子妃に出来ないから仕方なく自分の心に偽りを塗ってファウスティーナとの関係改善を目論んでいるとしか思えない。4年前のあの日がなければ2つ返事で頷いて、やっと彼は自分を見てくれる、認めてくれると喜んだのに。時間とは、時にとても残酷だった。
掴まれていた手が解放された代わりにベルンハルドは呆然とした後、翳りのある黒く染まった青でファウスティーナを見下ろした。
ズキズキと胸が痛むのは今だけだと自分に言い聞かせ、睨むように彼を見上げた。
「……クラウドがそう言っていたのか?」
「いいえ、クラウド様からは王妃様主催のお茶会でのお話を聞かせていただいただけです。エルヴィラがずっと殿下を見ていたと。その後どうなったと思う? と問われたから、正解率の高い回答を今殿下に申しただけです」
特別な感情を抱いていなかったら、部屋にいろと言い付けられているのにも関わらず、ベルンハルドが来たら毎回必ず現れてはファウスティーナの怒りを買って泣いて走り去るエルヴィラに多少なりとも疑問を抱く筈。だがベルンハルドは気紛れ程度にさえ疑問を抱かず、ファウスティーナが悪いと決め付けエルヴィラを追い掛けた。婚約者ではなく、妹が好きだと思われても仕方ない行動を取り続けたのはベルンハルド本人。
更に翳を強くした瑠璃色の瞳が無言のまま捉えてくる。
「殿下。いい加減、認めてはどうなのですか。第一、気付かないのですか。殿下がしていることは以前までの私とまるで同じだと」
婚約者に振り向いて欲しくてしつこく接触をし続け、どんなに雑に扱われようと冷たい言葉を吐かれようと関係改善を望み続けた4年前までのファウスティーナと今のベルンハルドは酷似している。
本人も自覚はあるのか、気まずげに目を逸らした。
「ずっと私をエルヴィラを泣かせる最低最悪な女だと思い込んでいたくせに。いざエルヴィラが婚約者になる可能性が出ると王太子妃の務めが果たせないからと、見え透いた嘘でやり直したいなんて……何度人を惨めにさせたいのですか!」
「ファウスティーナと最初からやり直したいと言った気持ちに嘘はない。1度失った信用を取り戻すことが容易ではないとも分かっているっ。だから」
「っ、だから、何ですか? 殿下の話を聞けと? 私の話には1度だって耳を傾けなかったくせに!」
「っ!」
王妃教育でその日覚えたこと、朝侍女と会話したこと、父から新しく教わったこと、自分の好きな物や趣味。様々な話をし続けた。そのどれにも彼は耳を傾けてくれなかった。相槌すら打ってくれなかった。
「それがどうですか!? エルヴィラならどんな話だって聞いてあげて、自分から話を作っていたくせに! 貴方の言葉は全部偽りだらけ!! そんな相手の何を信じろと言うのですか!!?」
「分かって、いるんだ。都合のいいことを言っていると。だけど、ファウスティーナ、お前と一緒にいられるのなら何だってする! これだけは嘘偽りのない私の本心だ!」
「……信じられません。そう言ったってどうせ貴方はエルヴィラを選ぶ。誰にだって分かりますわ」
ファウスティーナを襲う息苦しさは、どんなに訴えられても信じない意思を貫こうとする姿勢のせいか、間近にあるベルンハルドの苦しげな顔のせいか。
両方だ。
更に自分自身を追い詰める選択を敢えて選んだ。
「9日後の王宮舞踏会ですが……迎えの馬車は要りませんわ。公爵家の馬車で向かいます」
「……どういう意味だ」
「もっと言うなら、殿下のエスコートも要りません。デビュタントのエスコートもファーストダンスも他の方にお願いしますわ」
「……」
本来ならば、婚約者のいる者のエスコートやファーストダンスはその相手が務めるのが基本。相手がいない場合は身内に頼む。
王太子の婚約者が王太子のエスコートもファーストダンスも拒むことがどういう意味を成すのか。分からないファウスティーナじゃない。
分かっていて拒否を示した。
「他の者に頼む? 王太子の婚約者であるお前をエスコート出来る相手なんて……っ!?」
最後、相手の存在を思い出して言葉を止めたベルンハルドは信じられないものを見る瞳で呆然とファウスティーナを見つめた。
だがすぐに怒りを宿した。
「……ふざけるな、叔父上に頼むというのか」
「……」
正直に言うとシエルに頼むつもりはない。沢山の疑問と小言を貰う覚悟で兄に頼むつもりである。勘違いされたままではシエルに申し訳ないので訂正した。
「違いますわ。お兄様に頼むつもりです」
「賢明なケインがそんなことを」
「反対はされるでしょう。でもお兄様は私の我儘を聞いてくれると信じています。殿下と違って、お兄様は毎日お母様に反抗的で妹を泣かせるような私を見捨てなかった人ですから」
「……っ!」
盛大な嫌味を放った。
月1の訪問でさえ嫌だったベルンハルドと違い、家族であるケインは一緒に生活をしている。毎日のように繰り広げられたリュドミーラからの説教や飛んでくる平手打ちを食らっては、隠れて泣いているファウスティーナを慰めたり時に母親を相手に反論させない頭の回転の速さを見せつけて黙らせてくれた。エルヴィラには泣かれようが騒がれようが一切容赦せず静かに叱りつけていた。ファウスティーナもよく叱られたがリュドミーラと違って反抗もせず納得出来たのは、ちゃんと自分を見て公平な判断をしてくれたから。
「お兄様だけではありません。お父様やリンスーといった味方がいたから、私はずっと頑張っていられました。でももう疲れました」
「ファウスティーナ……」
「殿下、殿下もこんな可愛げのない女のことなど忘れてどうぞエルヴィラのところへ行ってください。エルヴィラが嫌なら他の女性のところへ。殿下が相手なら皆本望でしょう」
これ以上顔を見たくない、話したくもない。
紡ぐ言葉とは裏腹に、心は原型を留めているのかも不明。ボロボロだった。
自分の心を自分自身で壊す愚か者はファウスティーナくらいだ。
さすがのベルンハルドも愛想が尽きたのか、隣を通り過ぎても引き止めなかった。
やっと彼も分かってくれた。
これでベルンハルドは自由になれる。心の底から思う相手の元へ行ける。
歩みを止めたファウスティーナは振り向かずにこう告げた。
「昨日頂いたドレスは勿論着ません。
……どうせ、誰かが適当に見繕った白いドレスでしょうから」
最後の最後まで可愛げのない女を演じる為に。
「……適当に……か……」
ファウスティーナが去った後、1人残されたベルンハルドは空虚な瞳をただ前へ向けていた。
毎年贈っていた誕生日プレゼント。何故あんな嫌な相手の為に考えないといけないのかと年に1度のその日が特に憂鬱だった。従者のヒスイにその年の令嬢が好きそうな物を選んでもらって、色も無難な白を選んで贈っていた。
だから覚えていなかった。ヒスイは毎回確認を取っていたのに、何が贈られていたか1つも知らなかった。
何もかもが後手に回って後悔を突きつけられる。
4年前からはファウスティーナの好みに合わせた物を贈ったが使っていない。空色の髪にあったのはイエロートパーズで作られたバレッタだった。ファウスティーナの好きな色は濃い青系統と聞いていたからそれらの色ばかりを贈っていたから黄色関連の物は何もない。
贈り主はきっと叔父だろう。あの人はファウスティーナを大層可愛がっていたと聞く。エスコートを頼む相手が最初叔父だと勘違いしたのもそのせい。
ファウスティーナに贈ったドレスは白じゃない。晴れた冬空のような青銀も好きだとケインに教えられたので青銀の色を選んだ。
中身を見なくても無難な白だと思われてしまうのも今の2人の間にある信頼を顕著に語っている。
「どうしたら……いいんだ、どうすれば……」
「ーーどうすればエルヴィラに思いは届く?」
「っ!!」
突然だった。
自分の声なのに、自分では発していない声が届いた。
気配を探ろうと周囲を見たら、甘ったるい香りが嗅覚を襲った。すぐに手で口を塞ぐも1度吸ってしまった後。頭が眠る前の微睡を覚えて、瞳が段々と重くなっていく。意地で瞼を上げているのにベルンハルドの意思とは裏腹に体は眠りを強制してくる。
睡眠薬を嗅がされたらしいが何処から臭いが発生しているのか。
多くの量は吸っていない筈だ、すぐに口を塞いだから。にも関わらず心地好い眠気がベルンハルドを引き摺り落とそうとしている。
「折角こっちが下手に出ているというのに……女神の生まれ変わりというのも、要は見た目だけ女神と同じというだけで中身は人間と変わらない」
「……う……」
「私が愛しているのはエルヴィラなんだ。あの女を婚約者のままにしておかないと、私の妖精姫に会えないのは癪だがいざ解消されればエルヴィラ以外を婚約者にされてしまう。最後の最後まで忌々しい女だ」
「っ、違う!!!」
自分でも驚く声量だった。抗い難い眠気を必死に抑え付けての怒声は、1度放つと途轍もない疲労感を生み出す。はあ、はあ、と息を切らし膝を突いた。息苦しさのせいで更に起きているのが辛くなった。このまま眠ってしまえば楽になれるだろう。
だが、眠ってしまえば相手の思う壺。
霞む視界に黒い靴先が見えた。
「……言えよ。お前が愛する馬鹿女の名前を」
「何もするな、危なくなったら助けるだけでいいって言われてるけど、親子揃って俺の宝物を壊そうとするんだから、1人くらい壊したっていいよね……?」
「そうしたらお兄様はどんな顔を俺に見せてくれるかなあ……」
聞き覚えのある声だった。
ベルンハルドが犯人の名を思い出す前に目を塞がれた。
「……さあ、教えてくれ。私が、お前が愛する人の名前をーー」
また声が自分の声になった。
愛する人の名前……あいするひとのなまえ……アイスルヒトノナマエ……
「…………、」
ーーベルンハルドが誰かの名前を出しかけた時、パチンと乾いた音が鳴った。同時にベルンハルドの体は糸の切れた人形のように倒れた。
「はあーあ。もう少しだったのに」
折角のイイところを邪魔をした相手へ鋭い眼光で睨みつけても、相手は麗しい笑みを浮かべるだけで近付くのを止めない。
「全く。王太子を洗脳しようとするなんて……シエル様が言ったの? 坊や君」
「シエル様はお嬢様が危なくなったら助けてあげてって言ってた」
「へえ、そう。じゃあ、これは君の独断?」
「だとしたら何? 良いでしょう、死ぬんじゃないし」
「言い訳ないだろう。影の連中は何を……って、ああ駄目だ。女神様に好かれている君を害せるのはいないんだっけ」
やれやれと苦笑しながら肩を竦めた相手ーーメルディアスは表情から微笑みを消し、無情で彼ヴェレッドを見据えた。
「王太子とファウスティーナ様のお目付役を陛下とシエル様から命令されたんだ。当然2人の味方であるおれが、王太子に危害を加えた君を放っておくと思う?」
「知らない。帰る」
「そう言って素直に帰すと思う?」
「俺は帰りたい時に帰るの。王太子様に洗脳はもうしないよ。意味がないってさっきので十分分かったから」
「よく言うよ」
洗脳という言葉を使ったが本来なら、時間をかけてゆっくりと行うのが基本。雑でしかもかなり強引に薬を使って洗脳しようとしても対象の精神を壊すだけで元も子もない。ヴェレッドが本気で洗脳するつもりでいたなら、もっと前から仕掛けていた。
態と薬の濃度を濃くしてベルンハルドの意識を壊し、強制的に言葉を引き出そうとしたがメルディアスに邪魔をされて失敗。拗ねてしまった? いや違う。
「君が構って坊やなのは前から知ってるけど、これは見過ごせない。正直に答えてくれると助かるんだけど」
「教えない。俺がしたいからしただけ」
「はあ……」
これがシエルだったら素直とはいかなくても言うことを聞くのに……。
「まあでも」とヴェレッドは意味ありげに口を歪めた。
「王様に言っておいてよ。王太子様、一応お嬢様とやり直したい気持ちは本物みたいだって。ただ、受け入れるかはお嬢様次第。難しいよきっと。お嬢様の頑固さはシエル様譲りみたいだから」




